14.捕縛

 不思議なバラモンの少年と別れたシャクラは只管に山々の先へ先へと進んでいた。だが、山高く木々の密度が薄れてきた頃、天眼を開くまでもなく他者の気配を察知して足を止めた。樹木の上から、そして岩の内側からの視線は決して好意的なものとは感じられない。

(待ち伏せされたか)

 迂闊な行動には幾らでも思い当たる。カラヴィンカやバラモンの少年の対話に時間を割いてしまった。おまけに変身を解いて正体を現すという大胆な振る舞いに及んでしまった。それが仇になったに違いない。或いは鳥達に彼の外観を笑われた時、今待ち構えている者達も既にシャクラの姿を捉えていたのか。

(さてどうするか。まさか剣を抜き弓を引いて争うわけにもいくまい。……いや、そもそも俺の今の武器は身一つだったな。これでは勝算もない)

 シャクラの思い直したとおり、アーリアの神々のものでない土地では自己の転移と同じく、武器についても一念で瞬時に取り出せはしない。戦おうとすれば人間や他の神の魔術による補助が必要になる。

 彼に選べるのは逃走しかない。獣の足や鳥の翼ならば、多少は早いはずだ。ただし前者の場合、彼を敵の矢から守ってくれる木々はそう長くない内に尽きる。一気に距離を空けて諦めさせるしかない。

(となると、この先は空を飛んでいくしかないな。)

 シャクラは鷹の姿を取った。同時に何者かの合図と、弓を引き絞る複数の音が聞こえた。矢が放たれる前に空を目指して飛び立とうとし……彼は肩に鋭い痛みを感じた。尋常でない早さの矢を放つ猛者の手によるものか、或いは合図は彼の判断を鈍らせる為の陽動で、既に射手の矢は放たれていたのか。

 いずれにせよ、神とはいえ鳥の身体でいる内は、矢が刺さったままでは飛行に支障が出る。彼は痛みを堪え勢いを緩めず飛び去る気でいるが、体勢は否が応にもふらつく。

 背後で更に弓から矢が放たれる音がする。シャクラは思い切り左右に身を振り、千鳥足で歩く泥酔者のように飛んだ。矢の大半は空しく弧の頂を過ぎ地に落ちた。だが、更なる二本の矢に背中を穿たれた彼も、それ以上飛び続けることはできなかった。

 シャクラは地上を確認し、追手から離れた位置によろよろと降りた。デーヴァの姿に戻って背中と肩の矢を抜き、幻力で止血した。湖までは、もう少しだ。彼の足が向かうべき場所はそこしかない。最早僅かな時間も立ち止まってはいられない。シャクラは視界の隅に水牛に似た動物の群れを捉えた。

(あれに混じれば、追手の目をやり過ごしながら先に進める。彼らが飲み水を求めあの湖に向かっているのならば、好都合だが。)

 獣の群れに向かって歩き出し、数歩進んだところで、目の前に突如として槍が突き付けられた。より正確に言えば、頭上から槍を持ったヤクシャの戦士が降ってきた。予想外の事態にシャクラは息を呑んだ。

「武器を地面に置いて大人しくしろ」

「馬鹿な、どうやって」

 彼がそう言っている合間にも、背後からもう一人の足音がした。どうやらこれ以上の抵抗は無駄であるらしい。シャクラは観念してありのままを告げた。

「俺が頼れるのはこの身一つだ。剣も弓も持って来なかった。ヤクシャ族と争いに来たわけではないからな」

「どうだかな」

 ヤクシャの戦士は険しい表情を浮かべた。その容貌は人間に換算すれば三十代半ば、角ばった顔の目つきは鋭く、口を開く度に鋭い牙が目立つ。また鍛え上げられた肉体は並の兵ではないことを伺わせる。

 もう一人がシャクラのすぐ後ろに立ち、呪文を唱えながら背中に触れた。ぞわりと得体の知れない感触が触れられた場所から全身に伝播し、彼は思わず顔を顰めた。

「パーンチカ将軍、この男は確かに武器を隠し持っていません」

(今の術で見抜いたのか。どういった理屈だ? ブリハスパティ先生はご存じだろうか。)

 背後の戦士は彼の何を探ったのか。発言の真偽を見抜く術か、或いは武器に反応する術か。此度のシャクラは妻に逢うだけの旅路には必要ないという理由でヴァジュラも置いて来たが、その判断は正解であったかもしれない。

「そうか。では連行する。拘束を決して緩めるなよ」

 パーンチカと呼ばれた男は低い声でそう指示を出したきり、配下がシャクラを縛り終わるまで口を利かず、ただ黙って貫くような鋭い視線でこのデーヴァの全身を隈なく眺め回していた。


 トラーヤストリムサとアーリアの民の住む地を神々が行き来できるように、彼らもこの山々と彼らを崇める者の住む地そして北山天であれば距離を無視して自由にまた瞬時に移動できるらしい。その際に近くにいる者や物と共に転移できるのも同じだ。

 シャクラはそのようにして彼らの王の宮殿に連行された。天帝の宮殿と比べても遜色ない壮麗な宮殿である。行き来する兵や文官は皆ヤクシャだが、女官についてはアプサラスも混じっている。美しく磨かれた床の上を歩きながら、彼は拘束者達に尋ねた。

「お前達はいつ俺に気づいて待ち伏せを始めた? 早い話、俺は捕まる前にお前達の領地で鳥や人間と話をしたが、どちらも向こうから始めた会話で、ほんの世間話だったんだ。もし捕えているなら逃してやってくれ。彼らから情報を引き出す為の会話ではなく、そもそも俺自身、ヤクシャの王国に密偵として送り込まれたわけではない」

 シャクラは村のバラモンの少年の身を案じていた。あの叡智を望む聡明で善良な少年が彼の所為で苦しむことなどあってはならない。無論、無邪気なカラヴィンカの子供達も同じく飛び戯れているべきであった。子供達にはヤクシャの敵の潜入を幇助する意図などないはずだ。

「我々は侵略者に情けをかける気はないが、貴様らが人間共に吹聴しているほど無分別でもない」

 パーンチカの返答はシャクラを幾らか安堵させた。暗に不必要な殺生を行わないと告げたのは、即ち彼らには手を出していないと返答したに等しい。

 ただし、幾らでも懸念はある。尋問の結果、投獄されでもして帰還が遅れればその間にトラーヤストリムサの神々がシャクラの不在に気づく。彼がヒマラヤの地を踏んだのは誰の命令でもなく、この事態を招いた責任は己の軽率さにあるが、天帝及びヴァルナとその側近達がこれを如何様に扱うかは定かではない。一言も弁明できない内に彼の故郷が再び取り返しのつかない道を歩み出す危険性はある。

「そもそも、お前達は俺を何だと思っているんだ。俺はただ前世の妻への恋しさのあまりトラーヤストリムサを抜け出して、今生で彼女が住む世界まで逢いに来ただけの男だ。こうも怪しまれては恥を捨てて正直に言うしかないが、姿を偽ったのも、変化術が見破られたと知ってお前達の前から逃げ出したのも、全ては戦いに自信が無かったから逃げ隠れするよりなかったというだけのことなんだ。まさかとは思うが、この先に尋問やら拷問やらが待っているのか? せめて一度妻に逢ってからにしてくれ。久しく顔を見なかった夫が突然血塗れで現れたら、繊細な彼女は卒倒してしまう」

 拘束する価値の無い者であると思わせれば、早急に釈放される可能性がある。シャクラはそう判断して捲し立てた。聞きもしないことまで取り留めもなく只管に喋る者は、少なくとも密偵に向いた人物ではない。しかしパーンチカの態度が変わる様子はなかった。

「申し開きは陛下の御前で聞く。それまでは黙っていろ」

 彼の言う「陛下」とは、麓の村の住民も崇めるヤクシャ王ヴァイシュラヴァナに違いない。それでは、正体の定かでなく価値も判断し得ない筈の者を王が直々に検分するというのか。シャクラは戸惑った。本来ならば然るべき役職の兵がそれを行う筈だ。彼は自らの存在が引き起こす影響を見誤っていたのだろうか。

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金剛の天帝―神々の黙「視」録― ミド @UR-30351ns-Ws

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