クジラの国で会いましょう

時輪めぐる

クジラの国で会いましょう



 少年は日がな一日、白い砂浜に腰を下ろして海を見ていた。何処までも遠い海は、物心が着いてからずっと、少年の生活の大半を占めている。

『……ナミヒコ…… ナミヒコ』

 ザブン、ザザブンという絶え間ない波の寄せては返す音の合間に、自分の名を呼ぶ声がする気がする。耳を澄まし、目を凝らして、名を呼ぶ存在を波間に探す。

「ナミヒコ」

 聞きなれた声に振り向くと、祖父が立っていた。

「また海を見ていたのか」

 ナミヒコは、コクリと頷いた。

「婆さんに、叱られるぞ。さぁ、もう日暮れだ。家に帰ろう」

 両親の居ないナミヒコは、赤ん坊の時に父方の祖父母に引き取られた。

 父親は漁師だったが、六年前のある日、漁に出て帰らなかった。

 母親については何も知らない。

「お前の父親は、六年前、赤ん坊のお前を連れて遠洋漁業から帰って来た。母親のことは、ワシ等にも教えてくれなんだ。その後、直ぐに、居なくなっちまったから、ワシ等もお前のおっかあは、知らないんだ。すまんのう」

 祖父は、ものを言えないナミヒコに何度も何度も詫びて来た。海で行方知らずになった一人息子。その忘れ形見のナミヒコを、祖父母は色々思うところはあったが、育ててきた。


 祖父が「おっかあ」と言うと、ナミヒコの胸はぬくぬくと温かくなる。波間から聞こえる自分を呼ぶ声は、おっかあだと信じている。

 祖母は、ナミヒコが毎日海に行くのを心配していた。海は綺麗だが、恐ろしい場所でもある。一人息子を奪ったのは海なのだ。だから、ナミヒコには、口を酸っぱくして「海に近付いてはいけない」と言い聞かせて来た。自分と一緒でなければ、行ってはいけないと。

 一緒に行く時、祖母は砂浜でナミヒコに平仮名や数字を教えた。ナミヒコはある事情で、幼稚園にも保育園にも通えない。祖父母は、人の目から隠すように、だが慈しんで育てて来た。来年、ナミヒコは小学校に上がる。小学校は義務教育なので、もはや、隠すようには育てられない。だから入学前にせめて、字を読み書きできるようにと、祖母は砂地に字を書いては教えている。

 ナミヒコは、祖母に習った平仮名で、浜辺の砂に『おっかあ』と書いた。

 それを見た祖母は、悲しそうに弱弱しく首を振った。

 ナミヒコは、続けて書いた。

『うみ』『こえ』『きこえる』

「えっ?」

 祖母は、ナミヒコの顔を見た。

「おっかあの声が海から聞こえるのかい?」

 ナミヒコは頷く。

「今も?」

 ナミヒコは目を瞑り、両手を両耳に翳して頷いた。

『……ナミヒコ…… ナミヒコ』

 だが、祖母の耳にはザブン、ザザブンと打ち寄せ、サァアと音を立てて引いて行く波の音しか聞こえなかった。

 聞こえない声が聞こえてしまう程、母親が恋しいのかと、祖母は涙を浮かべた。


 ある冬の日の午後、ナミヒコは祖父母の手を取り、引っ張るように二人を海へ連れて行った。

「何だい? 今日は、風も強く海も時化て、とても近付けないよ」

 祖父が含めるように言う。

 それでも、聞き分けずに浜辺へと連れて行く。その必死な様子に、祖父母は首を捻りながらも引かれるままに海にやって来た。

 浜辺につくと、ナミヒコは拾った棒切れで、一生懸命何かを書きだした。

『あした おおきな じしん くる』

「ええっ?」

『おっかあ にげろ いっている』

「逃げるって、何処へ?」

『クジラのくに』

「クジラの国って、何処にあるんだい?」

『うみ なか』

 ナミヒコは、顔を上げて前方に広がる鈍色の海を真直ぐ見詰めた。

「海の中か。クジラの国なのだからそうだよな。でも、海の中じゃ、ワシら行けないよ」

『うみだま のむ』

「うみだま?」

 ナミヒコは、ズボンのポケットから藍色の透き通ったビー玉の様なものを取り出して見せた。まるで深い海を魔法で固めたような滑らかな球体。初めて見る物だった。

「これは、どうしたんだい?」

『きのう おっかあ くれた』

 ナミヒコは、祖母の目を盗んで、おっかあと接触していたようだ。

『あした まんげつ じしん くる』

 にわかには信じ難い話だったが、祖父母の体に交互に縋りつき、見上げるつぶらな瞳は真剣だ。

 思えば、手の掛からない子供だった。海が好きだということ以外、我儘を言うことはなかった。病気一つせず、すくすく育った。素直で良い子なのに、皆と少し違うことを不憫に思っている。その子がこんなに訴えてくるというのは。

「ナミヒコは、どうしたい?」

 祖父は、縋りつくナミヒコの頭をしわだらけの手で優しく撫でる。

『うみだま ふたつ ある おじいちゃん おばあちゃん』

 砂にそう書くと、ポケットから、もう一つ海玉を出す。

『ぼく これ ある』

 ナミヒコは、長く伸ばした髪を搔き分けて、頭頂の噴気孔を見せた。

 祖父母は、顔を見合わせた。

 六歳の子供が言う事だ。この海玉というものも、いったい何なのか分からない。飲むとどうなるというのだろう。

「これを飲むと、どうなるんだい?」

 祖母の言葉に、ナミヒコは、また砂に書いた。

『クジラになる』

 ああやはりと、祖父は思った。この子は、息子とクジラの間に生まれた子供なのだ。

 体は人間なのに顔面に鼻孔が無く、頭頂部で呼吸をする赤ん坊を息子が連れて来た時の驚きと戸惑いは、言葉に尽くせないものだった。

 しかし、息子がナミヒコを深く愛しているのが分かったので、二人は躊躇いながらも受け入れた。

『おっとう クジラのくに あう』

「!」

「ミナトは、生きているのかい?」

『おっとう クジラのくに まっている』

 もう二度と会えないと諦めていた一人息子のミナトは、生きていた。

 祖父母は溢れる涙を抑えることが出来なかった。互いの両手を握りしめ言葉なく頷き合う。二人の心は決まった。

 一人息子と可愛い孫。そして、未だ見ぬナミヒコの母親。家族共に暮らせる。これ以上の幸せがあるだろうか。

 実は、祖母は内心恐れていた。来年、小学校に上がるナミヒコの将来を。見た目も奇異で話すことも出来ない孫は、皆に受け入れられるだろうか。自分達の命が尽きて居なくなった後、どうやって暮らしていくのだろうかと。




 自分達はもう十分地上で生きた。

「行こうか、婆さん」

「ええ、ミナトが待っていますから」

 二人は、ナミヒコから海玉を受け取るとゴクリと飲み下した。

 ナミヒコは、二人の手を取り、海へ歩き出す。くるぶし辺りだった水は、膝下、腰と深さを増し、やがて、頭上を海水が覆った。

『苦しくないぞ』

『ええ、それに、声を出さなくても、話せます』

『おじいちゃん、おばあちゃん、だいじょうぶ?』

 正に水を得た魚のように、ナミヒコは生き生きとして、笑顔を見せた。

『ナミヒコが、話している』

 地上ではものを言えないナミヒコが、ホイッスルの様な声を出す度に、水を伝わって頭の中に、言葉が流れ込む。

『ナミヒコ、ナミヒコ』

 別の声が聞こえ、大きな影が近付いて来た。

『おっかあ!』

『お父さん、お母さん、ミナトの妻のバレーヌです。今までナミヒコを育てて下さって、ありがとうございました』

『こちらこそ、地震からお救い下さって、ありがとう』

 祖父は、息子の妻に挨拶する。

『ミナトは、クジラの国で待っています』

 ゆったりと尾びれを振った。

『訊いてもいいかね』

 祖母の言葉に、海を移動しながら、バレーヌは頷いたように見えた。

『まず、ミナトは、何故ナミヒコを地上で育てようと思ったんだい?』

『移動しながら、道々お話ししましょう。一つはお父さんとお母さんに孫を見せたかったこと。もう一つは、出来るなら、地上で人間として知恵を付けさせたかったからだと思います。ミナトは、捕鯨をしていました。ある時、海に転落した彼を私が救いました。捕鯨船は少し探しましたが、諦めて帰ってしまった。私は彼を近くの陸に運んで世話をしました。転落した時に体にダメージを受けた彼は、其処にしばらく滞在し、私達は恋に落ちたのです』

『そうだったのかい。アンタはミナトの命の恩人なんだね。ありがとう』

 三人と一頭は、時折、海面近くまで浮上し、呼吸をする。祖父母は、クジラ化があまり進んでいなかったので、水上に顔を出して呼吸したが、ナミヒコは頭頂の噴気孔から潮を吹き上げた。吹き上げられた潮は夕日にキラキラと輝いた。

『ミナトさんは、私に助けられたことにより、生業としてきた捕鯨に疑問を持ちました。人間とクジラの共存の道はないのか。その架け橋にナミヒコが成れればと思ったそうです。だから、人間の知識を得る為に、地上で育てることを考えました』

『アンタは、それで良かったのかい?』

 バレーヌは、ゆっくりと瞬きをした。

『勿論、生まれたばかりの息子と離れ離れに

 なることは、耐えがたいほど辛かったです。でも、もし、ミナトさんが言うように、ナミヒコが架け橋になれるのだとしたら、私の悲しみなど取るに足らないものだと、思うようになりました。とはいえ、やっぱり会いたくて、浜辺にナミヒコが座る時は、近くまで会いに来ていたのです』

『ナミヒコは、アンタの声をちゃんと聞き分けていたよ』

『おっかあだって、ぼくには、わかった』

 バレーヌは、嬉しそうにホイッスルのように鳴いた。

『もう一つ教えておくれ。ミナトはどうして、私らの元から去ったんだい?』

『ミナトは海玉を飲んでクジラになることを選びました。それは、ご両親や息子と決別する事でもあったけれど、数を減らしていく私達に少しでも貢献したいという気持ちだったようです』

『おっとうの、はなしを、きいたとき、かなしかった。ぼくは、すてられのだと、おもった。でも、おっかあの、はなしを、きいて、クジラのためだと、わかった』

 ナミヒコは、小さいながらに理解しようとしている。人間とクジラの架け橋になることを託されたことを。



 海面に顔を出すと空には煌々と満月が昇っていた。やがて、遠くで聞いた事も無いような大きな音がした。その音は次第に大きくなり、強い衝撃波が大気と海を震わせた。

 海底から細かい泡が一斉に吹き出し、水を濁らせる。

『いよいよ来たようです』

 バレーヌは静かに言った。

 祖父母は、離れた故郷を思った。

『急ぎましょう』

 頭上の海面を様々な物が通り過ぎていく。

 今この時に、陸上で起きていることを考えると、誰しも無口になった。



 それから、どの位経っただろうか。

『ホエールポンプとか、ホエール・コンベアベルトって、しってる?』

 沈黙に耐えかねるように、ナミヒコが祖父母に話し掛けた。

『いや、何だね、それは』

『少し難しいから私から話すわね』と前置きをしてから、バレーヌは話し始める。

『ホエールポンプは垂直方向の移動により、ホエール・コンベアベルトは回遊によって、海の中のミネラル分を海面に浮上させることをいいます。こうして栄養分が広がり、植物プランクトンが大幅に増殖する。増えた植物プランクトンが二酸化炭素を吸収すると、地球温暖化対策になるそうです。ミナトさんの受け売りですけど』

『つまり、クジラは地球に貢献しているということかい』

 祖父はコポコポと細かい泡を吐いた。

『ミナトさんは、その為にクジラになることを決意したのです』

 海の色が変わった。水温も下がって来た。随分、遠くまで泳いできたのだろう。海面から見えるのも違う星だった。

 三人と一頭は途中、捕食しながらひたすら泳いだ。

 出発してから十日余り経った頃、ようやくクジラの国に辿り着いた。



 ナミヒコと祖父母は、数十頭のクジラが深い海中で頭を上にし、垂直に静止している光景に遭遇する。

『おっかあ、あれは、なにを、しているの?』

『ふふ、皆、眠っているのよ』

『まるで、祈りを捧げているようじゃな』

『何か荘厳な感じだわね』

『眠っているのは全部雌よ』

『ほほう』

「じゃあ、あのひときわ、おおきくて、およいでいるのは?』

『ミナト。あなたのお父さんよ』

 巨大な影が近付いて来た。

『ナミヒコ』

 低くて温かな声が名を呼んだ。

『大きくなったな』

『おっとう!』

 赤ん坊の時に分かれたから、殆ど記憶はないが、どこか物悲しい鳴き声が水を震わすと、ナミヒコにはハッキリと分かった。

『お祖父ちゃんとお祖母ちゃんを連れて来てくれて、ありがとうな』

『お父さん、お母さん、六年間、ナミヒコを育ててくれてありがとうございました。さぞや無責任な息子だと思っているでしょうね』

『……ったくだ。ワシ等がどれほど、お前のことを心配したと思っておるんじゃ』

『本当ですよ。この子を置いて居なくなってしまうなんて』

 祖父母の声は涙で震えている。

『申し訳ありません』

『でもっ、こうしてワシ等は再会できた。これほど嬉しいことはない』

『ナミヒコを信じる心が、お父さんとお母さんを救ったのです』

 他にも人間に地震の警告をしに行ったクジラがいたが、全く耳を傾けて貰えなかったという。そのクジラも、元は人間で海玉を飲んでクジラになったのだが、故郷の人々を救うことは出来なかった。

 ナミヒコが育った島国は巨大地震に襲われ、国の半分ほどが水没したという。 


ナミヒコは思う。早く立派なクジラに、いや、立派な人間にもなって、クジラと人間の架け橋となり、相互理解を図り、共存の道を探していきたいと。それがハイブリッドとして生まれた自分の存在意義なのではないか。それにはまず、信頼関係を築くことが大切だと思うのだった。



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