一回、家に帰らせて
みかみ
読みきり
私は、とある医療技術団体の会員でございまして。いえ、会員といいましても、結婚・出産を機に休会の沼にどぼんと飛びこみ、今でも鼻のすぐ下くらいまでどっぷり浸かったままでいる、しがない幽霊会員なのでございます。ええそうです。河面に鼻だけ出して沈んでいるカバと大差ありません。
そろそろ退会する頃あいだろうかと考えたりもするのですけれど、「いやもしかしたら、医療の現場に戻る展開もあるかもしれない」などと、ありそうでなさそうな未来予想図がひょっこり顔を出したりするもので、「それならやっぱり今年も休会のままにしておくか」と先日、休会願いをファックスした次第でございます。
休会中とはいえ、年会費はタダではございません。もちろん、ぐっと安くはなりますが、在籍しているなら金払えよ、くらいの額は納めなければならないのでございます。なので私は、今年も休会費をお支払いする為に郵便局へと足を運びました。
約1年ぶりに触る、ゆうちょのATM。機械の前に立った瞬間、嫌な予感はしたのです。したのですけれど、まさかその予感が現実になるとは思いませんでした。
そう。
私、暗唱番号をすっかり忘れていたのでございます。
ちなみに、暗唱番号を何回間違えたらロックがかかるかは、皆さま、ご存知でいらっしゃいますか?
通帳を使った場合は3回目のミスでアウト。
カードを使用した場合は、2回目でアウトとなります。
自分で言うのもアレなのですけれど、私は、『いいかげん』を
結果――
所有しているゆうちょの口座、2つにロックをかけてしまったのです。
ええ。馬鹿だなあと笑って下すってようございます。笑って頂いた方が、私も気が楽になりますから。
ロックは1度かかると、身分証明証を提示して、書類を1枚書かねば解除できません。
『チーン』と残念な効果音を脳内再生しつつ、私は窓口へ向かいました。
「すんません。口座にロックかけちゃいましたぁ」との情けない救援要請に、「はいはい」と出てきてくれたのは、眼鏡をかけた優しそうなおっちゃん郵便局員。年齢は、50代くらいとお見受けいたしました。しかも、ただ優しげなのではなく、程良い皺が刻まれた彼の営業スマイルは、郵便局員として培った経験の深さと、回転の速そうな頭脳を私に連想させました。
そのおっちゃんは、あるあるですねと言わんばかりの笑顔で、カウンターの下から1枚の申請用紙を出して、私に下さいました。
その申請用紙には、住所氏名や通帳番号うんたらかんたらの記入欄がございまして――全ての項目を埋めるまでには5分もかからないでしょうが、読める字で書くならば2分くらいは必要だな、と推測できるくらいの密度がありました。
「これに必要事項を記入して下さいね。そしたらまた3回押せます。間違えたらまた書いてくれればいいんで」
おっちゃんは、正解するまでお付き合いしますよ、とにっこりなさいました。
私はちょっと尻ごみいたしました。
「え? いや、ロック解除できたら1回お家に帰って暗唱番号やらをメモしてあるノートを確認しようと思ってるんですけど」
はい、私、家にちゃんとパスワードなり暗唱番号なりを記した超絶大事なノートを、棚の奥に隠しているのでございます。偉いでしょ? それを見れば暗唱番号の確認などは、ちょちょいのちょい。
ところがおっちゃんは、笑顔をすこしばかり深くして、私にこう返されました。
「まあ、せっかくいらっしゃったんだし、とりあえず思いあたるやつ全部押してみられてはいかがですか?」
「はあ」
それもそうかと納得し、私は書類の空欄を埋めました。完成した書類と一緒に、免許証も提示いたしました。
「これで大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとうございます」
執事の如き優雅な物腰で書類と免許証を受け取ったおっちゃん。私に免許証を返却した彼は次に「はいどうぞ」と黒い長方形のものを差し出してきました。それは、0から9まで数字が並んだ、昔懐かしいガラパゴス携帯に似た掌大の端末でございます。これに4ケタの数字を打ちこめ、というのです。
「とりあえず、3回までどうぞ」
●●●●
私は4ケタを打ち込みました。するとおっちゃんが、その暗唱番号を記憶したガラパゴス携帯もどきを、スーパーのレジそっくりの機械にサクッと差しこみました。
ほどなくして、「ピー」という電子音が鳴り響きます。
「違いますね。はい、次の番号どうぞ」
レジそっくりの機械から抜き取られたガラパゴス携帯もどきが、私の前に戻ってきます。
●●●●
ピー。
違う。
●●●●
ピー
違う。
再びロックがかかりました。
「はい、じゃあもう1枚ですね」
私はまた、2分かけて書類を完成させます。それをおっちゃんに渡しました。
目の前に静かに置かれる、黒い端末。
●●●●
ピー。
「これも違いますね」
ちょっと家に帰りたくなりました。
●●●●
今度は音が鳴りませんでした。
首を傾げていると、おっちゃんの笑顔が、蛍光灯のライトを一段明るく切り替えた現象と同じく、パッと輝きを増しました。
「ああ、これですね!」
やったー! 私は心の中で、万歳三唱です。
「そうだ! 引越しする前に、暗唱番号を変えたんでした! これ、結婚記念日の日付なんです!」
興奮のあまり、喋らなくてもいい個人情報をまくしたててしまった子供っぽい振る舞いは、余計だったと思います。
おっちゃんと正解を喜びあった後、私はもう2度とこんな事が無いように、暗唱番号を記した何かを通帳袋に入れておこう考えました。袋を通帳ごと落としたら悲惨かなとは思ったのですが、通帳を持ち歩く習慣はないので大丈夫だと判断したのです。そもそも、ゆうちょの口座に大した額は入っておりませんし。
さっと辺りを見渡すと、印鑑についた朱肉を拭く為のティッシュぺーパーを発見。それを1枚もらい、暗唱番号をメモいたしました。
こういうのを、『ぬかりがない』と言うのですよね? ――え、お前が言うな?
「付箋、さしあげましょうか?」
「いいんですいいんです。とりあえず通帳入れに挟んでおけるやつならそれで」
――はいそうですね。手落ちだらけの私には、『ぬかりがない』なんて言える要素はひとつも無い。『いいかげん』を十二単並みに重ね着している人間は、痛い目をみてもいい加減なままなのでございます。
「ありがとうございました! ああよかったー」
お礼を言って立ち去ろうとしたその時、おっちゃんが私を呼びとめました。
「まだもうひとつロックがかかってますよ、お客様」
そうだった……。
私はどんよりとした気持ちで窓口に戻りました。
めんどうくささと申し訳なさとの感情をいったりきたりの、てんで楽しくないブランコでございます。
「すみません。お時間、大丈夫ですか?」
おっちゃんに訊ねました。今思うと、世間一般的に考えて質問の内容がするほうとされるほう、逆な気がするのですが――まあそんな些細な事は、どうでもよろしいのです。
「全然! どうぞどうぞ」
例え今この場で私が派手に嘔吐したとしても笑って許してくれそうな、どこまでも懐の深さを感じる笑顔で、おっちゃんは記入に2分かかる紙を、またペラリとくれました。
私はため息を飲み込んで、ペンを取ります。そんな私に、おっちゃんは言いました。
「これはカードがロックされたので、カードを解除してもらいますね」
つまり、暗唱番号を2回しか打てないのです。
なんてこった。ステージが1つ上がったゲームの展開そのまんまではありませんか。ゲームなら素直に楽しめたのでしょうが、実際に直面している現実は、自分の『いい加減さ』が招いた、ただの厄介事でしかないのだから、喜べる要素は何1つ存在しません。
どうしてカードを使っちゃったのかしらと自己嫌悪に陥りながら、私は黙って空欄を埋めました。若干、字が雑になったようにも見えましたが。
その後に差しだされたのは、とっても見慣れたガラパゴス携帯もどき。
とりあえず、さきほど正解した暗唱番号を打ち込みました。
●●●●
レジそっくりな機械にガラパゴス携帯もどきが差しこまれるなり、ピーとエラー音が鳴りました。
「「違う」」
おっちゃんと私は、同時に肩を落とします。
●●●●
ピー。
これも違う……。
もう駄目だ、ここはやっぱり出なおすのが賢明だと思いました。
帰ります、と口を開きかけたその時――
「はい、どうぞ」
完璧な営業スマイルを取り戻したおっちゃんが、2分かかる記入用紙をくださったのです。
「あの、すみません。家に帰って確認してこようかと」
「思いあたる番号、もうありません?」
「いや、あるっちゃあるんですけどね」
「じゃあどうぞどうぞ。こちらのことはお気になさらず」
かといって、ここで真心を無下にして帰宅するほど、私は強引な性格をしておりません。そんな私に与えられた選択肢は1つ。記入用紙を埋めて挑戦を続ける。ただそれだけ。
「こ、これで正解が出なければ、一旦引き上げます……」
書類を差し出し、ごくりと唾を飲み込みました。
「まあねぇ。案外、まさか! って数字が暗唱番号だったりするんですよ~」
あははと軽い笑い声を上げるおっちゃんの手で、ロック解除の準備がされます。ガラパゴス携帯もどきが私の前に置かれました。
●●●●
ピー。
やっぱり出なおすしかなさそうだ、と心が折れかけました。
このままではいつまでたっても帰れない焦りと、窓口1つと職員1人をずっと独り占めしている罪悪感。
自業自得であっても、辛いものは辛いのです。
「この番号を最後にします。ていうかこれももう、まず使わないようなやつですし」
ぶつぶつ言いながら、4ケタの数字を押しました。
おっちゃんが、レジそっくりの機械でチェックをします。
電子音が鳴らない。
ピーが聞こえない。
私は信じられない思いでおっちゃんの反応を待ちました。
「ああ、これだー」
正解を告げる、おっちゃんの声。
「●●●●―っ!」
驚きと歓喜のあまり、正解の暗唱番号を公衆の面前で叫んでしまった愚行は、今思い出しても顔が赤くなりそうでございます。
「ほらねえ。まさか! っていう数字でしたでしょ?」
明らかに、おっちゃんは喜んでおられました。
「ほんとですねえ! よかったよう。ありがとうございますうう!」
私はもっと喜んでいました。
あなたの事は一生忘れない、と深い感謝の気持ちで、頭を下げました。
テッシュを一枚頂いて、暗唱番号をメモ。おっちゃんはもう、何も言いません。
ふと思い出した私は、顔を上げて訊ねます。
「あ、そういえば、夫のカードの磁気が効かないから交換が必要だって、さっきATMが言ってたんですが。カードってすぐ替えられるんですか?」
お家に帰りたいと内心ほろほろ泣いていた自分はどこへやら。すっかり調子に乗った私は、ついでにもう1つの問題も解決しちまおうと、古くなったカードをおっちゃんに見てもらうことにいたしました。
仕事が増えたのに、おっちゃんは嫌な顔一つ見せず、表面が擦り切れたカードを見て下さいました。
「ああ、はいはい。これも書類さえ提出して頂けたら、替えられますよ。登録印が必要なので、お間違えの無いようにしてください。それから、旦那様ご本人に書いてもらって下さいね」
「あざざす!」
あれやこれや書き方の説明を受けた後、賞状を受け取るスタイルでカード交換申請書を頂いた私は、その日、ATMを操作してからおよそ1時間後に、郵便局を後にしたのでございます。
その日の夜、私は暗唱番号を忘れて郵便局員さんの手を散々煩わせた話は伏せたまま、夫にカード交換申請書への記入を依頼。それに、間違いないと確信した印鑑をポンと捺印いたしました。
夫の古い通帳には、登録印が押されてありまして、その下には18,●●,●●と判子を登録した日付らしきものが記されていたのでございます。
なるほど、きっと2018年に登録したんだね! 夫のゆうちょの登録印を登録し直した記憶はないけど、家族の判子を作った時期ともかぶるし、大きさも同じ。記憶が無いだけで、登録したのかも。きっと多分問題なし!
私の頭はどこまでもオメデタイのでございます。
次の日、郵便局へ行くと、また同じおっちゃんが出てきてくださいました。
なんだか、嫌なフラグが立った気がしたのですが、おそらく気のせいだと自分に言い聞かせ、完璧に記入済みの申請書を提出いたしました。
昨日と全く同じ笑顔で対応して下さったおっちゃん。申請書を手に奥へと戻り、数分後、私の名前を呼んで下さいました。
「判子が違いますね」
まさか! と叫びたくさせるほどの衝撃でございます。
「え、ええ? でも、大きさも字の形も一緒やし。それにこの数字、2018に登録したってことですよね?」
「ああ~、これは2018じゃなくて、平成18年ですよ」
へ・い・せ・い!!!!
「判子も、よく似てるんですけど微妙に違うんです。ほら、こっちの方がちょっと大きいでしょ? あと、この字の跳ねの部分。微妙に形が違いますし」
間違い探しかよ!!!!
それはもうたいそう驚きました。私、判子のサイズについては実際に登録印に合わせてしっかり確認した上で、捺印したのです。それを目視だけで違うと判断できるあなたは何者なのよ!? としばし言葉を失いました。
書類に捺印した判子と、通帳にある登録印を何度も見比べ、私がやっとこさ口から出せた感想は
「まじか……」
だけでございます。
「ご結婚前の印鑑であれば、旦那さまのご実家にある可能性が高いですね」
「そうですね。おかあさんが持ってると思います」
しかしながら夫の実家は、私の家から車で6時間の距離にある。
判子1つの為に6時間のドライブ? もしくは、郵便で送ってもらうとか――いやいや、もし行方不明になったらそれこそ大変ではありませんか。
そこで、私は閃きました。いっそ判子を変えてしまおう、と。
「判子、今ここで替えられます?」
「旦那様がここにいらっしゃればすぐにできますが、奥さまですと、この通帳に登録されている電話番号に私どもが電話をかけて、そこで旦那さまに対応して頂く必要があります」
「なるほど。で、その電話番号は携帯番号ですか?」
「普通のお家の番号になっておりますね」
「……その家、多分もう無いんですけど」
「あらあ……」
おっちゃんが、まだらに毛が生えている毛虫に似た眉をハノ字に下げました。同情されているのか、「こいつの管理、どんだけザルやねん」と呆れられているのかは定かではございません。
「ということは、ですよ? やっぱり夫をここに引っぱって来るか、車で6時間先の実家に行って判子をゲットしてくるしかないんです、よね……」
まとめとして、厳しい現実を確認した私。
おっちゃんは「さようでございますね」と残念だと言わんばかりのお返事をくださいました。
もはや成すすべなし。
「分りました。とりあえず、今日は帰ります……」
受理されなかった申請書をクリアファイルに戻した私は、「ありがとうございました」と頭を下げました。
「はい。またのお起こしをお待ちしております」
間違い探しが得意な真心いっぱいの辣腕郵便局員さんは、この日、私を引きとめること無く、カウンターの向こうから静かに見送ってくださいました。
私は心の中で、おっちゃんに言いました。
ありがとう、おっちゃん。
おそらく、年内に会うことはないでしょう。
だって、夫は平日仕事。昼飯食べる暇すら無いってくらいに忙しいのだから。
しかも、判子が眠っている夫の実家は、年に1度行くかどうかの、遠い遠い場所にある。
でもね、幸い、今年の年末は夫の実家へ行く予定になっているの。
その時、この書類に捺印してもらうからね。そう――私が忘れてなければだけど。
約束は誰にも、自分にすらもできない。そんな脳みそザルな私だけれど。
See you again.
よいお年を。
郵便局を出た私は、判子が違っていた旨をラインで夫に報告。
夫からの返信は、『大変やったね。おつかされま』
気遣いが感じられるメッセージに、『登録印は結婚前に替えといてくださいよ』と喧嘩の種になりそうなクレームを打ちかけていた私は、その一文をそっと消去したのでした。
~おしまい~
一回、家に帰らせて みかみ @mikamisan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます