第2話

 開発三課の指示、というのは嘘だ。誰でも知っている嘘だ。ただ、三課の連中が被験体へ『ストレス負荷実験』と称し、被験体たちを意味もなく虐待しているのだ。


 たまたまそれを見て、三課の同期に苦言を呈すと「じゃあお前がメシやれば? 懐いてくれるかもしれねえぜ」と鼻で笑われた。引き下がれないし引き下がりたくもないので、こうして『給餌ブランクテスト』の対象にご飯をあげているのだ。


 もちろん給餌ブランクテストとやらで意図的に食餌を抜き、空腹状態を作り出すことになんら意味も目的もないことは三課長にも獣医にも確認してある。


 B群のコルチコステロン投与でのうつ病再現群、C群の無投薬の対照群、D群のバルプロ酸投与の自閉スペクトラム症再現群はそれぞれフロアが違う。


 ガウンテクニックやフェイスシールド、エリアによっては防護服やN95マスクも着用するし、室内での仕事だ、作業着一枚であっても防寒上はさしたる問題にはならない。


 階段を上る。モデル動物といい、ある特定の薬剤を投与することでうつ病や自閉スペクトラム症、認知症やパーキンソン病を実験動物に疑似的に再現する実験手法がある。

 うつ状態にしたチンパンジーで抗うつ薬の試験を行なわなければ、安全なのは確かだが効果が全く分からない抗うつ薬を人間相手の治験に回すことになるからだ。


 B群からD群は空気感染の危険はない。防護といっても標準予防策——スタンダード・プリコーションでいいだろう。手指の洗浄と消毒、ガウンテクニック、マスク、フェイスシールドの順で着用する。

 

 部屋に入る。自分の嗅覚も大きな指標だ。三課の獣医もまともに仕事をしているのか怪しいし、慎重な判断を求められているとみるべきだ。

 

 佐々木はマスク越しの空気に集中する。緑膿菌感染は死んだ魚の臭いがするし、糖尿病は甘い体臭になる。腎機能が落ちるとアンモニア臭が強くなる。とりあえず、B群はクリアだ。


 ここのチンパンジーたちは実におとなしい。コルチコステロン製剤を毎日投与され、大うつ病を再現しているからだ。食思不振で寝てばかり、るい痩を呈している子もいれば、起きているあいだじゅう爪だろうと糞便だろうと食べに食べ、眠気がやってくると頭をケージの壁に何度もぶつけるなど自傷行為の絶えない子もいる。


 入眠は自分の意思に依らない。それが死に近く、恐怖心から頭を叩きつけて覚醒状態を保とうとしているのだ。


「どうした、マイク。やっぱあの薬、合わなかったっぽいね。ごめんね。すぐ元に戻すようにいっとくからね」——被験体B四二五四七MK。愛称はマイク。だがニックネームで呼ぶ者は大変に少ない。情が移るからだ。

 

 マイクの食餌を慎重に置く。食餌への警戒心の高まりで餓死する例も何件もある。自ら買って出た仕事だが、なるべく平静でいなくては巻き込まれてしまう。冷静になれ、佐々木。だいたい、ケージのサイズも問題だ。


 ヒトならば三〇分で不安・パニック発作、二時間で譫妄などの拘禁反応を示しかねない狭さ。ヒトより少し知能が低いからって、こんな窮屈なところに押しやられて平気でいられるほどチンパンジーも楽天主義者じゃない。

 

 その後、ジョン、アンナ、ニコラ、レナ、スザンヌ、ポメルに順番に食事を与える。すぐに立ち去るのではなく、目の前に人間がいても食べられるか、監視カメラの映像も見て食思の有無や程度、食行動の異常といったチェックシートを埋めてゆく。


 十五分ちょうどが経過したところでレナのいびきが聞こえ始め、ほかの子も食べ終えたことを確認する。ガウンやマスクなど防護衣をすべて破棄し、二回手を洗う。

 

 C群のエリアへと急ぎ階段を上る。C群は何も投薬されていない対照実験群だ。対照実験群はほかにもう一群、A群があるが、今日は三課が給餌した記録がある。


 健康そのもののC群はさしたる防護は必要ない。しかし当然にしてリスクを負っているという認識も忘れてはならず、標準予防策をし、給餌をあっという間に終え、早くもまどろみかける子たちのチェックシートを埋める。


 また階段を上がる。D群はバルプロ酸ナトリウムの投与により自閉スペクトラム症を再現した群だ。ガウンの衣擦れが彼らの耳に障らないよう、なるべく静かに歩く。「ジュディ、ご飯だよ。みんなもご飯」明るくも暗くもない声。


 知能が高く、感情にも敏感なチンパンジーへの配慮であり、実験結果にぶれが出ないように努めた結果だ。ジュディは給餌用の扉を開けただけでびくっと反応し、ケージの隅に退避して様子をうかがっている。


 佐々木はゆっくりと食事を置き、静かに扉を閉める。水飲み用のボトルの目盛りもチェックする。一歩退いてクリップボードを埋める。ほかの子たちにも食事をあたたかく(実際は彼らの体温に近い温度なので生ぬるいのだが)差し入れ、ゆっくりと退いてチェックする。


「病人にさせられて、それで治されるってのは、どんな気分なんだろうね」


 建物から出た佐々木は独り言つ。寒風に頬を打たれながらたばこを取り出す。屋外は完全に冬だった。この暖かいハウスでたばこが吸えたらなあ。もしくはきれいな彼女が隣にいたらなあ。時刻は午後六時ちょうど。佐々木は時間にもお金にもあくせくしたくなかった。五時五十五分に退勤したことにしよう。


「ゴーゴー佐々木、ゴーゴーゴー」益体もない独り言が進む。ついでに呵々と笑い飛ばしてやろうと思ったが、すぐにたばこを消して身をひそめる。とっさに隠れた壁の九〇度後ろ、女性の話し声。まずい、近づいてくる。


 別に悪いことしてるわけじゃないんだけどね。むしろこうして隠れる方がそば耳立てているようでなお悪いんだけどね。 さっさと回り込んで建物の反対側から逃げればよかった。これじゃあ物音ひとつ立てられない。

 

 女性は駐車場の車に乗り込んだようで、車内で話を続けている。それにしたって内容が聞き取れてしまう。だって、その車は佐々木の至近距離に駐車しているもの。


「はあ? いったじゃないですか。被験者には夫の——藤堂ジョウを使うと——ええ、ええ。——同意書なんてデジタルでも紙ベースでもさんざん書い——え? うちに、来た? 自宅へですか? だ、だれに許可を——本人の意向? 全面的に——撤回——」


 佐々木は瞬間的に何パターンもの脱出ルートを検討した。すべて駄目、出るに出られない。声は藤堂課長そのものだし、何やらものすごくお取込み中だ。裏から回るといっても課長からは至近距離だ。ニンジャでもないんだし、無音で移動する自信は残念ながらなかった。課長、頼むからどこか、せめてあともう十メートル遠くに行ってくれないかな。佐々木は念じた。それがお互いのために——。


「ですから、申し上げてるじゃありませんか!」

 あまりの剣幕にびっくりして後頭部を外壁にぶつけてしまう。


「——夫の依存症が治まりさえすればいいんです。だってそうでしょう? 今どき、その、アルコールなんて。医療刑務所かラボの被験者か、その二択なら一目瞭然でしょう? ああ、はいはい。こうすればいいんですね。わたしが自身を彼の後見人に選任します。家裁? 行く必要はありません。わたしが任意後見人になればいいのです。


 ——え? 夫が? ええ、松浦弁護士なら知ってますけど——いえ、でも! そんな、話を、勝手に、進めないでください! ——テストケース? 報酬は払う? 医療刑務所の中で条件を設定して集団投与して——ちょ、ちょっと待ってください。なにも刑務所にまで入ることない、じゃ——ないで、すか——」


 声を震わせながら課長は訴える。察するに、課長の旦那さんがアルコール、つまり新世代麻薬の依存症であるのだ。そこでどこかの機関が新薬の被験者に選定したのだが、理由は知らないが医療刑務所の中で治験をしたいと頑として主張している——小耳にはさむには大きすぎる案件だ。


「ああ、うん——わかった——やっとわかった——わかったからあああ! くそがあああ!」


 うずくまって聞いていたがびっくりして頭を建物の外壁にぶつけてしまう。自分の叫び声で喉が嗄れた課長が激しくむせこんでいる。


「なんで? なんで! なんでって訊いてんの! なんでわかってくれないの! 新薬? はあ? そんなの、うちで作ってるのに! もっといいのを! 設立当初から! そんなに人の旦那を札付きにしたいわけ? 


 もう、もういい。もう帰る。ジョウを殺してわたしも死ぬ。この通話も録音してるんでしょ? あとでいくらでも改竄するくせに。でも残念、録音してるのはこっちも一緒。あなた方がメモリを削除したって紙ベースで遺書書きますから。何通も何通も何通も何通も! ふ、ふふっ、内容はお楽しみということで。じゃ、もう話すことなんてないんで。デバイスも壊してから帰ります。さよなら。死んでも恨みます」


 ――長く、長く尾を引く嗚咽。何にも頼れず、期待できず、最後の最後に理解が及んだ自分の人生についての藤堂課長の答えがその嗚咽だった。課長は車を降りる。「佐々木」


 あっけなく名前を呼ばれて「は、はい!」と建物の陰から出て直立不動となる。「も、申し訳ありません! ちょっとサボっていたところ、あの、出るに出られなくなって、盗み聞きしてたとかじゃなくて、その」


 アスファルトの地べたに座り込んだ藤堂課長が話し始める。ああ、せっかくのスーツがもったいない、と場違いな感想を抱く。


「ああ、いいのよ、そんなことは。ね、佐々木。うちのがアディクション――アル中だってのは説明不要よね、今の話聞いてたんなら。それで、三課と四課の合同のあれ、もうあんたなら知ってんでしょ? 嗅ぎまわってんの、あんた以外は把握してるんだから。


 でもだからって責めたりはしない。いずれはプロジェクトに抜擢してあんたにも頑張ってもらうつもりだし——医療刑務所での処置は、ヒトからすべての快楽を奪う薬の投与。――跳ねっ返りの青二才が、議員バッジ着けたとたん偉ぶっちゃって」洟をすすり上げながら課長は話し出す。


 とりあえず相手が座り込んでいるので佐々木も片膝を突き、「ヒトからすべての——よくわからないんですが、うちが設立当初より開発してたというのは初耳です。それも三課の連中と合同で、となるとますます訳が。三課のやつらが向精神薬の開発チームなのでそれは分かりますが、うちは、四課は漢方薬分掌では」といった。


「たばこ、一本くれる?」課長がいうのでライターと一緒に手渡す。「大昔では」課長が火をつけ、横を向いてふう、と煙を吐く。


 「下っ端が火もつけてあげてたらしいわね、たばこ一本吸うにも。あたしも新制度になってから生まれたから第一世代は吸ったことないけどさ——第二世代でもうまいな、とは感じるね。だってさ、この葉っぱ、何十年も前に三課と四課が合同で開発した『イスカリオテ』だもの。『裏切り者』、イスカリオテのユダね。最高にキレてるネーミングでしょ。


 第一世代と入れ替わるように出てきて、抗うつ作用がね、短期的な薬理動態での試験にぎりぎり現れるか現れないかの。だから法律的にも処方薬でもサプリメントでもなんでもない、まさに摂取者と投与者を『裏切る』ハーブたばこね。味もまあ、悪くない。だっていったでしょ、抗うつ作用があるって。

 そこはニコチンと同じだけど、退薬現象はニコチンや一般的な抗うつ薬ほどひどくない。っていうか、ほぼない。まさに全世界のうつ病患者へ投与すべき漢方薬なんだけど——このラボはそうはしなかったようね。あっさり商用転用しちゃった。ほんと、裏切り者。でも、これがないとあたしもやってらんないのよ。この場に限ったことじゃないよ。あたしも家では吸ってるし。


 さっきあんたが水やりしてたハウスで育ってるわよ。イスカリオテの後継種がね。いつ現行のイスカリオテが規制対象になってもいいように、第三世代がすくすくと。もちろん、使い道も明確にしてあるから、今は大量製造の方法を確立しようとしてる」


 胡坐をかいてうなだれる課長に佐々木はどうしたらよいのか分からない。寒いからそろそろオフィスに戻りたいとは思っていた。


「セロトニン‐ドーパミン・サイレントアンタゴニスト」課長がふう、と最後の煙を吹ききり、立ち上がってパンプスで火をもみ消す。


「セロトニンとドーパミンの完全遮断薬ね。これを投与されたらヒトは完全に、一切の快楽を感じることができない身体になる。短期スパンなら気が滅入る程度で禁酒や禁煙もできるかもしれない。ニコチンのレセプタをブロックする薬剤は前にもあったけど、でもこのセロトニン‐ドーパミン・サイレントアンタゴニストは違う。すべての快楽が完全になくなるの。


 ——それこそ大うつ病になるかもしれない。自殺するかもしれない。ずっと飲ませたら人格荒廃状態にだってなりかねない。だから鉄格子付きの刑務所でやりたいっていうのが向こう——政府の考えよ。被験者は多い方がいいもの。脱落者、つまり自殺者の数を計算に入れてんだろうね。それよりもあたしがやりたいのは」


 そう課長が指さしたのは、周囲一帯のハウスだった。


「ここで三課と四課は合同で第三世代のたばこを作ってる。セロトニン‐ドーパミン・サイレントアンタゴニストの投与中でも、快楽を感じられるこの世界で唯一無二のたばこ――『メサイア』。これをいつ市場投入しようか、うちの上層部は虎視眈々と狙ってるのよ。単一の生薬では十分な効果は得られない。だから当局も嗅ぎつけてこなかったってわけ。


 だって、こんなもの政府が運用してみなよ、いくらでも人を意のままに操れるじゃない。アヘン戦争の再来ね。うちのラボは市場原理に委ね、神の見えざる手が執り成してくれるのを期待してる。この『メサイア』はね、百種類近くの生薬を調合して、相互作用を引き出して初めて効果が発現する。前々からうちの人にその被験者の内定はあったのよ、このラボから。


 その短期で禁酒できるはずだった。警察には捕まりたくないけど、薬物依存は金を積んででも治したい、そういう富裕層を狙ってるの。それが、どうしてこんなクソみたいなことになったのか——そもそもこのラボはそういうマッチポンプで成り立ってた会社なのよ。


 知ってるでしょ? そりゃあ、格好いいとはいえないけど、だからって夫がうつ病で時短勤務で、家にひとりでいることが多いからって、オーデコロンなんか飲むことないじゃない! ――分かってたわよ。だれもあたしのことなんて考えない。だれもほめてくれない。アホみたいに働いて、昇進も近いのに、でも旦那が刑務所送りとか、も、もう——」


 佐々木はゆっくりと近づく。藤堂課長に第二世代たばこを差し出す。課長は唇を近づけ、一本くわえる。彼女のたばこに火をつけ、自分も一本つける。


「その——七時には帰りましょうよ、課長。おれには家族はいないけど、課長には、その、家族が待ってるじゃないですか。今、六時半。頑張ったら間に合うはずですから、その、ね」


 課長はパンツスーツのお尻の埃をはたいて帰っていった。ヒールの音が聞こえなくなったあと、佐々木はハウス栽培の植物たちを眺めながら一本つけ、ふう、とため息とも安堵の吐息ともつかない呼気を吐きだす。肺の奥底の煙も吐ききった。半分ほど残ったたばこのパッケージを握りつぶす。真っ暗な夜空を仰ぐ。雲で星のひとつも見えない。ふう、と今度こそクリーンでスマートなため息を吐きだしてから、建物の中へ入る。たばことライターをダストシュートに投じた。




初出 「空想薬草園3 初冬の白き園」ちいさな雑貨ギャラリープラムツリー編

2024.12.11 加筆改題し転載

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messiah 煙 亜月 @reunionest

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