messiah
煙 亜月
第1話
「ちょっと」
たばこ休憩に立ち上がると課長に呼び止められる。
「佐々木、きょう何本目? 依存がないっていうのにさ、それじゃ違法たばこと変わんないじゃん。旧制度とおんなじだっていいたいわけ。わたしだって休憩したいのに」
「あ——はあ、すみません、課長」と、佐々木と呼ばれた若手がのろのろと自分の席に戻る。職場が職場だ、全面禁煙となるのも時間の問題だろう。
この職場――ラボで勤務するからには承知の上だ。喫煙可能なエリアのすぐそばで生育の難しい供試苗、供試種が育っているし、ヌードマウス、モルモット、イヌ、チンパンジーなど実験動物も服についた匂いに敏感だ。
佐々木も諦めかけていた。もうじきこのたばこも旧制度のたばこ同様、取り締まりの対象になるのだろう。国にも地方自治体にも申請・審査、登録を経て開設された、学術的な研究施設の一員であるからには多少、鼻が利くようになるのだ。
このラボでは実験動物は実地で繁殖、生育している。コストカットのためだ。国内の数少ない業者から実験動物を買い付けるより安く上がる、ただそれだけだ。
ラボの歴史は古く、ゆえにどのようにすれば効率的に研究を進められるかのノウハウに恵まれていた。実験動植物の実地産生もだし、プレスリリース——なにを公表し、なにを伏せれば快適に研究を行なえるか——にも明るい。しかしどのような成果であれ、いつかは研究成果を記者会見の場で公表せざるを得ない。
珍しい話ではない。ある病気、疾病に効果が見込める薬剤の治験を行なうとする。薬剤を治験にまで回すことへどれほどの社運と期待と予算が乗せられているか知りもしないで「動物実験でチンパンジーたちは死にましたか、ワンちゃんたちは死にましたか。そんな薬を人間が飲むんですか」と訊く輩も一定数いるのだ。そうした場合に備え、記者会見の前に『あたらしいおくすりができるまで』という子ども向けのパンフレットを大人向けに少しだけ詳しく書き直しただけの印刷物を渡すことになっている。
――『新しいお薬ができるまで』。開発期間や審査などで九年から十七年を要する。また新薬候補の薬剤のうち承認されるのはごく一部、倍率にして一万一千~一万二千倍。その場限りの感情論や思いつきの質問にいちいち応じられるほどラボの事業は呑気ではない。しかし誰もが疑問に思っていても口に出さない質問がある。このラボの特異点は新薬であれ何であれ、研究結果すべてにおいて、まったく奇妙といえるまでに大成功している、この一点に尽きる。
科学の進歩はよいことだ。実によいことだ。だが、商用転用されたり臨床へ回ったりした研究成果が、不自然なほど売れているという、いささか個人的な印象に偏った疑問がこのラボへの批判に拍車を掛けている。先ほど佐々木という若手が吸いに出ようとした『第二世代たばこ』もそうだ。
このたばこ葉もナス科の作物の品種改良、その過程で起きた事故だと説明するが、実際は胚より前の段階でゲノム編集を加えたいわゆるデザイナー作物だ。
表向き、ジャガイモやトマトといった作物を専門とする開発チームが研究途上(といっても数十年も昔になるが)に偶然生み出したとされている。が、将来需要が到来するであろう新世代たばこの葉を精密に狙って研究し、商品化したというのが本当のところだ。
古来より人類はニコチアナ・タバカムという植物の葉を乾燥、堆肥、熟成、発酵、燻煙、裁断——と偏執的な手間をかけ用いてきた。古くはシャーマニズムでトランス状態へ移行するための魔具、また時代が下ると文化人の嗜みとして流通した。今ではこれらも古い話、たばこなどニコチン含有物は身体依存、心理依存が生じる違法薬物として取締りの対象となってしまった。
ニコチン、カフェイン、アルコール。この三種、つまり新世代麻薬を合法的に摂取するには、今ではホスピスに入所するしか手立てはないだろう。
三種の新世代麻薬のうちニコチンも、先進国、のちに途上国と相次いで全面規制された。だが、このラボは旧制度たばこと同じく鎮静・抗不安効果、疲労感の軽減、軽い散歩と同等の気分転換効果が望まれ、さらに身体・心理依存が有意に軽い、そんな『新世代たばこ』の発見も、ニコチンを含む旧制度たばこの取締りに先立って研究開発し、業界の勢力図を刷新した。
分類上は単なるハーブたばこだ。目新しいものでもない。かねてより禁煙グッズとして商品化されてはその都度、負債ばかりを残す事業として失敗されてきたものだ。 このラボの新しいハーブたばこが一線を画したのは上記の理由だけではない。
うまい、というのが決定打だった。それも旧制度たばこ並みか、あるいはそれ以上に。
なぜこうもタイミングよく、と怪訝に思われこそしたが、このラボきっての開発チームが発見した製品だ。それに、何よりもこの発見は世界的に必要とされ、嘱望された未来絵図だったからだ。
よって、それ以上の不満を唱える者も世界単位でも少なかった。
存亡の秋にあったたばこメーカーはいっせいにそのライセンスに飛びついた。本邦はもちろん、各国で新世代麻薬の指定による打撃も抱えていたのだ。確かに、その第二世代たばこは身体への依存はないと複数の審査機関が証明した。だが心理依存がまったくないわけでもない。
今では第二世代たばこをやめられなくなった者への禁煙外来を、医師であれば申請もなしに標榜することが認められる時代となった。患者は薬局で買わされた飴玉を、禁煙外来の帰り道に不服そうに嚙み砕く光景が当たり前となった。心理依存は気の持ちようでしかない。ただの水道水へ依存形成する者だっているのだ。第二世代たばこであれ何であれ、やめられない者はやめられないのだ、結局。
「ああ、でもいいや、佐々木。ハウスに水、やっといてくれるんならたばこ吸ってきていいよ」課長にそういわれた佐々木は、はあ、とか、ええ、などと曖昧な返事をして席を立つ。階段をのそのそと下り、屋外へ出る。大規模農園かなにかのようなビニールハウスだらけの区画へ踏み入れる。
こんな話がある。
とある大学で、画期的な試薬の安全性とその効果がヌードマウスにて実証された。次にイヌ、その次にチンパンジーでの実験をクリアできたら速やかに治験に回し、その結果によって修正を施すなどステップを踏めば、審査ののちI型糖尿病——それも、小児糖尿病に特化した、持効型溶解が極度に安定したインスリンの持効性筋肉注射剤(デポ剤)が承認される、そんな折だった。
『子どもに誇れる仕事をしよう!』『命を粗末にしないで!』『動物を殺した手で子どもに触れるな!』——こんなプラカードとシュプレヒコールを掲げては市民団体が人の壁で実験施設を取り囲んだという。むろん、この小児糖尿病のインスリン製剤は予定通りの期日、期間で無事治験をクリアし臨床に提供されたのだが。
ほう、と煙を肺の最後まで出し切ってから第二世代たばこを携帯灰皿に捨てる。旧制度の第一世代たばこ、すなわちニコチン、アンモニア、ホルムアルデヒド、ダイオキシン、炭素酸化物、窒素酸化物、その他ありとあらゆる化学物質をガス兵器のように散布していた頃は、喫煙者への風当たりも段違いに厳しく、窮屈な思いをしていたという。
どこへ行っても全面禁煙で、火のついていないたばこをくわえたまま灰皿を探すだけで昼休憩が終わってしまう、そんな時代だったのだ。
かくいう佐々木も喘息持ちだったので、毒性のきわめて低い第二世代しか吸ったことがなかった。そもそも、生まれた時にはすでにニコチンは新世代麻薬に指定されていたのだ。問題が発見され、禁止される。そうしてまた代替品で補填される。
佐々木の所属部署——藤堂課長を所属長とした開発四課は漢方薬を分掌する研究開発チームであった。
現在、生薬として認められている自然物は二〇〇を超える。それらを組み合わせた漢方薬は、約三〇〇〇種。牡蠣の貝殻やマンモスの骨といったものはさておき、それ以外の生薬は実験動物同様、可能な限り自社で生育・調達するべくこうして大小さまざまなビニールハウスを稼働させているのだ。
そのハウスで生育される植物に見合う温度と湿度を調整するために、ヒーターは常に作動し貯水槽にも常に水を満たしている。ハウスの外にある貯水槽への給水は造作もない。小さなコントロールルームに入り、パネルを操作するだけで終わる。もちろん、ヒーターの確認や操作も給水しながら行う。各ハウスの温度と湿度が設定どおりの数値を出しているかを新人の頃はその都度、自分で書き留めたデバイス上のメモや記録を参照していたが、今ではこの大規模農園の温度、湿度、風力などすべてを暗記した。
もしヒーターのコントロールパネルや貯水槽がそれぞれのハウスの中にあれば中南米、アフリカ南部、地中海型気候、瀬戸内の梅雨などを再現した環境を何度も出たり入ったりを繰り返す羽目になる。具合を悪くしない方がおかしい。
パネルを操作しつつも冷気が身体に押し寄せてくる。そういえば今日から十二月だ。あたりはすっかり暗くなっている。すべてのハウスに水を補給したことをパネルで確認し、シングルチェックをもう一度行なう。「オッケー。お疲れだ、佐々木」そういってコントロールルームを出る。もう一本、たばこに火をつける。「佐々木、残念だが今年もシングルベルだ」
――別にリークするつもりはない。そんなガッツもないし、どこかの競合会社の命で動いているのでもない。それにこんな根も葉もない噂話程度で、確証もなく物証もない、ないない尽くしの情報では何も動かない。ただちょっと聞いただけ、そう、聞いただけだ。
佐々木の吸う第二世代たばこは、第一世代からの依存の完全移行を目的として、規制ありきで開発されたものだ。規制推進派の議員先生との癒着は大昔からあったようで、政治とカネで動くラボなのだ。
現在、もしくは将来的な問題を抱える製品がある。近々政府で規制強化の運動が起こされるそうだ。そういった情報を早期に議員先生より流してもらい、ラボはその情報に見合うカネでもって謝礼とする。ときにはその逆もあった。
こうした贈収賄でこの国の経済と医療、薬学、基礎研究の一端は成り立っているのだ。
むろん、上層部しか知らない事実であった。自分は小耳にはさんだだけだ。
ただ、研究者の端くれである以上、ついうっかり察してしまうことだってある。しかしながら佐々木には探求心が少々欠落しているようで、深入りには至らず、身の安全が守られていた。
ニコチンからカフェインへと依存を移行させることができるのは周知のとおりである。カフェインで禁煙ができても、カフェインそのものが規制された新制度では意味がない。
よって、ハーブたばこ——第二世代たばこに置換したのだ。
もし旧制度から新制度へと変わるよりずっと前に第二世代たばこを用意し、法整備の状況をよく観察しながら市場へ流通させたのであれば、独禁法か何かには引っかかるかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにせよ、流れ始めた川は、途中からは堰き止められないのだ。
「ちょっと寒いな」佐々木は作業着の身体をかき抱く。ダウンコートが恋しい。「寒くなったらかーえろー」なんのCMソングかは忘れたが、そんな歌の一節を口ずさんで建物の中へ入る。一度でいいから第一世代、吸ってみたかったな。そんな愚にもつかないことを思いながら佐々木は何もない壁に右掌をぺたりと這わせる。
『NO IMAGE』の文字とともにかすかなノイズ音が聞こえる。
「開発四課、クラスD、佐々木ケンゴ。ナンバー二五九〇三〇。開発四課、藤堂課長へボイスチャット」ややあって壁から若い女性の声がする。
『認証完了。こんにちは。アソシエイトリサーチャー、佐々木ケンゴさん。コネクトテッド。ボイスオンリー、オンラインです。セッションは開始されました』
「あ、課長、お疲れ様です。さっき三課から生体サンプルへの給餌を口頭指示されました。対象、BからDです。指示願います。どうぞ」
——はいはい、こちら藤堂。あんたってば三課なのか四課なのか分からないわよね。仕方ないじゃん、エサやり行っておいで。早く済ませないと風邪ひくわよ。どうぞ。
「あ、はい。佐々木、了解です。あの、コルチコステロン群とバルプロ酸群とがあるのでちょっと時間かかります。どうぞ」
——なんていうか、あんたって野心がないのによくこの会社入れたわよね。あ、いや。何でもない。作業終わり次第上がっていいわよ。通信終わり。
「佐々木、了解。通信終わり」
『セッション終了。ディスコネクテッド。お疲れ様です』
自動音声を背に送りつつ時計を見ると、午後五時二〇分。被験体の子たちが寝るまでに給餌を済ませなくちゃいけない。
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