廃虚の中で
色街アゲハ
廃虚の中で
黒ずみ崩れ掛けた館が、近代的なビルヂングに挟まれる様に建ち、其の中から罅割れた硝子越しに外を眺める老いたメアリーの虚ろな目が、窓の硝子と融け合い、共に灰色の曇り空の様な陰鬱な眼差しを、賑わう街並みの中に投げ掛けていた。
嘗て世間を騒がせ魅了した面影は見る影もなく、枯れ枝の様な腕を窓枠に掲げると、深いため息を一つ吐く。己の中に何も残っていないのを少しでも埋めるかの様に。
世の中は流れる水の如く過ぎ、その昔他を圧して豪奢な威容を誇った此の館も、今や時の埃に塗れた廃虚でしかなく、時代に取り残され近日中に取り壊される事が決まり、そんな童子が要らなくなった玩具を捨てるかの様な気安さに憤りを覚えながらも、それをどうする事も出来ず、ただこうして外の眺めを見続ける事しか出来ないメアリーの身に重たく無力感が圧し掛かる。
窓から差し込んだ光が、メアリーの背後に長い長い影を燻んだ床に描く。それは、遠い過去へと繋がるかの様に。
影の中から微かに洩れ聞こえる在りし日の賑わい。着飾る人々の手に持つワイングラスに、天井に下がった豪華なシャンデリアから煌びやかな光が零れると、薄暗いホールの中一杯に光の海が広がって行く。やがて始まる、荘厳でありながら茶目っ気の混じるビッグバンドの音楽が人々の頭を揺らし、ステージの上に一際明るいスポットライトが照らし出されると、その中に進み出た若き日のメアリーの目は、その場の全てのワイングラスやシャンデリアよりも強く明るく光輝き、その口より歌われる甘く切ない恋の歌は、その場に居合わせた全ての人々の心に立ち所に浸透して行く。世界に満ちる愛の歌、それは明日も明後日も、その先に続く日々にもきっと満ち満ちているだろうと、信じさせるに足る命の息吹を感じさせるのだった。
拍手の音は鳴りやまず、バンドに向けて大仰な身振りで曲を締めたメアリーが客席に振り返ると、其処には誰も居らず、ただ荒れ果てて伽藍と広がる空っぽの大部屋と、その床に夕暮れの陽の光を受けて伸びる自身の影があるばかりであった。
嘗てこの目で見た世界は早疾うに失せ、一夜の夢の様に儚く終わりを告げた。今はただ、その中に最早何物も見出せない虚ろな世界。外の賑わいから外れて今や消え行く建物と共に忘れ去られる定めの、ほんの一夜のひと騒ぎ。
メアリーは佇む。自身の夢見た世界が何故跡形もなく消え失せたのか、その理由も理解出来ないまま。この崩れ掛けた廃虚の中で。
せむしのサムは清掃員。誰かと話をする事も好奇の目で見られる事も嫌う彼にはうってつけの仕事だった。誰にも顧みられる事無く、それ故に誰からも揶揄される事も無い、さながら世界から消え失せて、一人気儘に仕事に勤しむ事を許された完全に自由な己だけの時間。
明るく活気に満ちた人々の行き交う表通りから外れ、薄暗い奥へと続く裏通りへの横道に並べられたゴミ箱の中身を回収しながら、二つの世界に交互に目をやり、その余りの落差に思わず首を傾げるのだった。地続きなのにも拘らず、互いが存在しないかの様に振る舞う二つの世界。その間を自由に行き来するサムにとっては、自分がまるで現実ではない余所の世界にでも迷い込んだかの様な、そんな違和感を覚えるのだった。
横道を抜け裏通りに出ると、其処には先程目にした表通りとは真逆の世界が広がっていた。伸び上がる壁面は薄汚れ、所々が罅割れて、表の綺麗に磨き上げられたそれとは、同じ建物の物とは俄かには信じ難い表層を晒していた。舗装があちこちで剥がれ、じくじくと湿った土が剥き出しになり、片付けられないまま埃混じりの風に舞う広告の誇大に書かれた謳い文句が、空しく宙に翻る。明るい陽の光も此処には届かず、常に薄曇りの様な陰気な雰囲気が辺り一帯を包み込んでいる。見上げる空は身動きもせず、座り込む浮浪者のそれと同じく、虚ろで、それでも何も写さないが故に、それは何処までも澄んで澄んで、さながら此の世の果てまでも見据えた様な、全てを諦めた上でのみ得た明るさを其処に湛えていた。
生きる物の気配は希薄で、時折舞い降りては塵に群る鴉の嗄れ声が、他に音の無い此の界隈に響き渡る。
活気に満ちた表通りとはまるで違うこの光景に、サムは言い知れぬ不安を覚える。これではまるで世界の終わった後の、今では誰も住む者の居なくなった、骸を晒すだけの嘗て都市だった物の残骸の様ではないか、と。
今も尚新たに住む者を増やし、成長し続ける都市の、その内側に人知れず孕んだ、この伽藍洞の世界。コインの表裏の入れ替わる様に、それ等は容易く入れ替わる。そこから目を逸らす様に、或いは、迫り来る不吉に追い付かれない様にするかの様に、殊更に人々の表情は明るく。それはさながら残ったなけなしの命の灯を全て注ぎ込んでいるかの様な危うさで。
最早、自分がどちらの世界に立っているのか分からなくなり、サムは茫然とその場に佇むしかなかった。何時かその内側から全てを食い破り、都市の全てを飲み込むであろう、この虚ろで伽藍洞な廃虚の世界の内側で。
給仕のアラムは、贅を尽くしたこのパーティー会場で、その不機嫌な顔を隠そうともしなかった。必要以上に煌びやかな照明に、それに照らされた巨大な肉の丸焼きのてらてらと脂ぎった光沢が、彼に軽い吐き気を催させ、居並ぶ人々のムッとする人いきれが、それを更に助長させる。
謝肉祭の仮面さながらの、グロテスクな笑みを張り付けた人々の顔に恐れを為し、声を掛けられた時も伏し目がちに、怯える小動物さながらに小声で返し、足早にその場を立ち去る。背中に走る汗に不快感を覚えながら、このパーティーその物が何だか悪い冗談の様に思えて仕方がない。全てが紛い物。何か得体の知れない怪物がこの会場全体に巣食っていて、手当たり次第にその手や口を伸ばして、その場の全てを食らい尽そうとでもしているかの様。時折湧き起こる笑い声が、アラムにはその怪物の上げる咆哮に思えて来るのだった。
地方の片田舎出身のアラムが、若者特有の憧れから此の都市へと移り住み、しかし忽ちその巨大な渦に飲み込まれ、木々の色褪せ生気の見られぬ様、隙間無く立ち並ぶ石造りの不毛な眺めに、自らは何物も生み出さず周りの地から物資を吸い上げて貪り続けるだけの巨大な化け物の姿を其処に見て、この都市にやがて増悪に近い感情を持つに至るまで然程時間は掛からなかった。
生まれた時より地と共に生きる事の染み付いたアラムにとって、周りが全て石で塞がれたこの世界は、まるで巨大な墳墓を思わせる死の世界に思えて来るのだった。周囲より齎される救援物資無しには、一日たりともその命を長らえる事の出来ない仮初の巨大な集落。我先と高さを競う建築物。作られる端から放棄される建物が幽鬼の様に放置され、嵌め込まれた硝子窓が死者の目の様に道行く者を見下ろし、やがては住む者達を押し退け追い出してしまうのではないか、とそんな想像に捉われて、思わず慌てて周囲を見回してしまうのだった。
目的を見失い、ただ其処にあるだけの建築物。人の住む事を端から考慮していない無理を押し通す、ただそれだけを目的とした石の塊が、人とは違うまるでそれ自体が意志を持ったかの様に重なり積み上げられて、それがますます人の生きる場所を奪って行く。
そんな世界の頂で催される豪華絢爛を極めた祝祭めいたパーティー会場は、そんな人の不在を祝うかの様な、この得体の知れない都市と云う巨大な異質な世界の勝利を祝うかの様に、アラムには思えて来て、この会場に集い来た人々の姿がまるで人ではないかの様にさえ思えて来て、それが馬鹿げた妄想であると知りながら、それをどうしても頭から追い出す事が出来なかった。
犇めく参列者の口から語られる栄光と富と名声と。それ等は彼等の頭の中にしか存在しない虚構でしかなく、彼等は既にこの都市に取り込まれ、その生を疾うに終えている事に気付いていない。夜毎繰り返されるこの虚構のパーティーの催される度に据え置かれる、数多存在するアクターの一部に過ぎなかった。
中空に掲げられたワイングラスのその中身は、饐えて干上がり、それを収めたグラスは内側から罅が走り、砕け散り、その破片は固い床に落ち粉々になった。
栄光を謳い掲げられた腕は、その形のまま忽ちの内に干上がって、皮の張り付いた骨組みはそれ以上その形を保っている事が出来ず、糸の切れた操り人形さながらにその他周りの調度品と共に崩れ、見る間に塵となって他の物と見分けが付かなくなってしまう。
身動き一つ取れずにその場に立ち尽くす事しか出来なかったアラムの前にただ一つ蠢くもの、それは散らかった会場後をその手に持った箒で掃き清める”時”の姿。
静かになった会場内にその音だけが延々と響き続ける。この打ち棄てられた蜂の巣さながらに、空虚な入れ物と化した、この廃虚の都市の頂きで。
干からびた岩々や、罅割れた地面の見渡す限り続く荒野を、街と街とを結ぶ列車のひた走る中、代わり映えのしないその光景を、一人の宣教師が虚ろな眼差しで眺めていた。
延々と同じ風景の続く中、自然と彼の思考までもが出口のない堂々巡りに陥って行く。
普段であれば気にも留めなかった事。
それはこの世に人がその二本の足で拠って立つ以前に、この地上を席巻していた人ならざる生物達の事。彼の手に携えられた聖典にも載っていない、それは神話以前の人の与り知らぬ、過去であり未知の世界。信仰篤い彼の中にその存在は遅効性の毒の様にその精神に浸透して行く。
加えて、或る思想家の世に放ったある一つの言葉
「神は死んだ。」
それは、単に神の否定のみならず、人の存在、その誕生から今日に至るまでの歩んできた道程の悉くが、神と云う超越した存在の支えを失い、必然ではなく偶発的に発生した、保証も根拠も一つとして無い、突如として虚空に放り出された宙ぶらりんの存在としての不安を彼に抱かせるのだった。
「やがて終末は来たりて、人はその時救いと裁きの前に立つ。」
彼を含め多くの人々がその言葉を拠り所に生き、そしてその命の終焉に立ち会って来ただろう。しかし、誰もが心の奥底で願って已まなかった終末を知らせる高らかに鳴る喇叭の音は、神亡き今生の世に於いて早望むべくもない。何となれば、それは疾うの昔、人の現われる遥か以前に既にその音を遍く世界に響かせた後だった?
終末の喇叭も神の救済も、その何れも既にその役目を終え、人はその後に残った残骸としての世界の上で、地に噛り付く菌類さながらに先の世界の名残を吸い食み、辛うじてその命を長らえている。嘗て此の地を覆っていた霊的な物、それ等は此の地より飛び立って久しく、命ある物とは名ばかりの、水が低きへと流れる如く、それは流れる雲の様な一つの現象としての、夢とすら呼べない、ただ永劫に回り続けるこの循環の輪に捉われた大気の流れの一部に過ぎなかった。
震える手で宣教師はその手に携えた聖典の頁を手繰る。しかし、幾度となく彼の心を慰めて来たその書のどの頁にも、何も綴られていない空白が現われるばかりであった。
今や、目的地を失い何処行く当てもなく走り続ける列車の中で、宣教師は唖然と宙を見詰め、列車同様その心の行き所を失ったまま、ただ座っている事しか出来なかった。
この、世界と云う名の、廃虚と化した荒野の只中で。
終
廃虚の中で 色街アゲハ @iromatiageha
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