俺が消えた日
あああああ
俺が消えた日
世の中には信じられないくらい酷い無能が居る。
それは努力でどうにかできるものではない。
人々の中に天才が稀に居るように、無能も稀に居る。
それが俺だ。
父は中堅企業のサラリーマンで、母は小さな会社で事務のパートをしていた。
収入は新築の一軒家をローンで建て、子ども二人を私立大学へ進学させるくらいなら問題が無い程度はある。
国が発表する一般家庭の収入と照らし合わせれば平均的ではあるが、身近な人たちの家庭事情と比べると、ある程度裕福な方だったとは思う。
俺は三人兄弟の末っ子で、上の兄とは四つ、下の兄とは二つ歳が離れている。兄は二人とも浪人すること無く大学へ進み、留年することもなく就職をし、家を出ていった。
実家に取り残されたのは俺だけだった。
小学生の頃は、俺のことを無能だと言う人間は居なかった。当時の俺自身、自分が無能であるだなんて
塾のテキストは誰よりも早く終わらせていたし、学校でも成績は常に上位だった。
低・中学年の時こそ、授業を大人しく聴くことの出来ない問題児ではあったが、高学年になればそれも収まり、忘れ物や提出物の遅れは多かったが、先生にはよく褒められていた。
月末テストで満点の教科があった次の日は、母も豪華な食事を用意してくれていたこともある。
ただ、それは小学生時代の話。中学生になってからは状況が一変した。
二年生くらいになってから、理系科目を中心に試験の成績が酷く落ち込むようになった。文系科目も英語は散々で、唯一まともな点数を出せていたのは国語くらいだったと思う。
点数だけであれば、禄に授業を受けていない不良グループのメンバーと大して変わらない。
試験の結果が悪くなるたびに、両親との会話が少しずつ減っていくのを感じた。その頃から段階的に見放されていたのだろう。
分からない問題を前に鉛筆を止めるたび、頭が真っ白になり、逃げ出したい気持ちだけが膨らんでいった。
また、塾でも完全に落ちこぼれになっていた。隣の生徒がすらすらと問題を解いていく中、俺はノートを開いたまま鉛筆を握りしめて動けなかった。講師の視線が自分を素通りするたび、安心と同時に惨めさが募る。
積み重なったテキストに並べられた文字は、まるで呪文の書かれている古文書のようだった。それを解読する能力が自分にはない。そう思うと、視線を下げたまま机に突っ伏すことしかできなかった。
高校は、『名前さえ書けば受かる』と言われているレベルの地元の底辺校を選んだ。それしか選択肢が無かったからだ。
その頃から、夜中に両親が喧嘩をする声を聞くようになる。
「お前の育て方が悪いから――」
「私だって働いているのよ、あなたも少しは家の事――」
たぶん、いや絶対に俺が原因なのだろう。優秀だった兄たちと比べ、中学以降、親に良いところを見せられていない俺。
成績のことで怒られることは無かったが、父とは家の中ですれ違うとよく舌打ちをされるし、母も笑顔を見せてくれることは無い。
夕飯の時間、父は俺に目も向けずに新聞を広げている。母は食器を片付けながら俺の動きを避けるようにしていた。誰も俺に話しかけない。
『なんでこいつ産まれてきたんだろう』
――二人の視線にそんな言葉が込められているような気がしてならなかった。
どれだけ愛想を良くしても。
どれだけ家事を頑張っても。
どれだけ家族に気を使って生活していても。
その評価がマイナスからゼロに戻ることは無い。
どれだけ勉強量を増やしても、暗記系の科目が少しだけマシになる程度で、何の意味も成さない。
不良だらけの底辺校でバイトもせず、ずっと勉強をしているのに、成績は下の上あたりを維持していた。
高校はどうにか卒業したものの、進学は絶望的だった。
「浪人したい」と願い出ることすら許されず、進路指導の流れに乗せられるまま、近所の小さな食品工場への就職が決まった。
しかし、その食品工場での正社員生活は、二年も持たなかった。自主退職ではあったが、実質クビのようなものだ。
研修期間を終えて、流れ作業をするも機械を止めてしまったり、逆に不必要に動かしてしまったりして材料を無駄にすることもあれば、パック詰めの際、自分が担当する時だけ異物が混入することも。
周りのパートの人たちは、顔を合わせるたびに小さく笑っていたような気がした。
「あの子、またやらかしたのかしらね」
――そんな声が、耳に届く気がしてならなかった。
ミスの多さは一年経っても改善できず、とうとう毎日、上司が俺の耳元で呪文のような説教を繰り返すようになった。
「君みたいな従業員をずっと飼っているわけにもいかない」
「会社に利益をもたらしたことがあるか考えてみろ」
「企業っていうのは、君が考えているよりも人をクビにするのが難しいんだ。分かってくれ」
「君が居ると、パートの人たちにも示しがつかないんだよ」
上司の言葉を聞きながら、頷くことしかできなかった。反論なんて考えたこともない。正しいのは彼らで、間違っているのは俺。
ミスばかりを繰り返して、他の従業員たちにも愛想を尽かされ、生産性を高めるどころか足を引っ張ってしか無い俺みたいな人間が、給料を頂いていることに申し訳の無さばかりを感じていた。
言い訳になってしまうが、努力をしてこなかったわけではない。
研修中のメモや、ミスをする度に考えられる原因は全てノートにまとめ、家に帰ってから何度も、何度も読み返し、休みの日はずっと仕事のシミュレーションばかりをしていた。
ノートに書き込むたび、これで明日は失敗しないはずだと思った。でも、結果はいつも同じだった。頑張れば頑張るほど、なぜこんなにも駄目なのかと、自分自身が嫌になるばかりだった。
もともと無かった機械のマニュアルも、一からコツコツと作り上げた。今も、あの工場で新人が使っているマニュアルは全て俺が作ったものだろう。
それでも、駄目だった。
社会でも家でも、学校でも、評価をされるのは努力ではなく結果。会社の場合、それが伴わなければ追い出されるという結末が待っているだけ。
初めのうちは、自分でもいつか改善できると信じていた。
でも、結果が変わらない日々が続くうちに、それが幻想だと気付かされる。
俺は無能なんだ。どれだけ頑張っても、俺には何もできない。何者にもなれない。
それから、幾つもの職を転々とした。
大工では、電動工具を何個も壊しては先輩や親方に怒鳴られ、接客ではレジ操作を誤ってクレームを受けた。清掃の現場では、忘れ物を捨ててしまい、依頼主に泣きながら怒られたこともあった。
褒められる部分は愛想の良さだけ。親に媚びるうちに身についたこの表情。それすらも「ご機嫌取りが透けて見える」と気持ち悪がられることもある。仕方がない。無能なのだから。
二十代も半ばに差し掛かった頃、限界を感じ受診した精神科で『発達障害です』と告げられた。ネットで調べると「個性だ」「社会の理解が必要だ」なんて言葉が並んでいたけど、そんなもの、俺の現実には何の役にも立たなかった。
何かの救いになるどころか、ただ自分の無能さにラベルを貼られただけのような気がした。
病院ヘは何度か通ったきり、もう行っていない。渡された薬も最後に飲んだのはいつだったか。多分、まだ残っている。
それからというもの、履歴書や経歴書の特記事項に『発達障害があります』と書くようにしたが、『急募』と書かれていたバイトでも落とされるようになった。
何も言わずに落とすだけならまだ良い。中には面接中に面倒なことを言いだす会社もあった。
「発達障害を公言しておけば、ミスをしても許されると思っている奴が、最近多いんだよ」
「個性だの何だのに甘えて、努力をしてこなかった人間につく病名だ」
「障害者が普通の人と同じ給料で働けると思うな。税金泥棒が」
結局、就活で発達障害であることは伏せるようになり、正社員募集を避け、「誰でも出来る簡単な作業」と書かれたバイトだけを受けるようにした。
しかし、それでもミスは続く。
パチンコ屋では、計数機を壊して店長に「こんな従業員は困る」と嘆かれ、農業バイトでは収穫中に手を滑らせ、大事な作物をダメにしてしまった。
仕事はどれも長くは続かなかった。試用期間で「不適合」を突きつけられたり、食品工場の時と同じように、自主退職を促されたり。
履歴書には、不名誉な職歴が増えていく。値引きシールを何度も貼られた惣菜のように、俺の価値はどんどん下がる。
俺の最後の就職先は、県外にある小さな土木会社だった。
寮費無料で翌日から勤務が可能。体力だけは自信がある。給料も悪くない。ブラック企業にありがちな文言だという事は理解していたが、それでも俺にとってはその求人が、深い森を抜ける
――そこ以外に選択肢はなかった。
いざ就職してみると、今までとは違って、「試用期間で辞めろ」とか、やんわりと自主退職を促されるようなこともなく、平穏な日々を送ることが出来た。
無能ぶりは相変わらずで、若い職長や上司からは怒られることも多かったが、高齢の先輩たちはそれを大して気にする様子もなかった。
「おっちょこちょいでも、お前が頑張ってるのはみんな知ってる」
「何があっても人さまの悪口を言わねえのは、お前さんの良いところだぞ」
「出来るやつに出来る仕事を振るのが職長の仕事なんだから、ちょっと出来ねえくらいでクヨクヨすんなよ。ミスしたらそりゃ職長のせいだ」
彼らの優しい言葉に、涙する日もあった。発達障害のことを打ち明けても彼らは偉そうなことを言わない。
「出来ないことが沢山あるなら、お前が数少ない出来ることを武器にしちまえば良いんだ。そしたら出来ないことなんて、どうでも良くなっちまうだろ」
今まで、考えたこともなかった。俺にも何か、出来ることが……武器の材料があるのだろうか。
◆
ある日、海岸の現場で若いメンバーだけが集められた。
海岸の崖上にある林を整地し、駐車場にする予定らしく、その日は外部の造園屋も混じり作業をしていた。
造園屋が伐採した樹や抜根した根を片付け、舗装用の路盤をつくるのが俺達の仕事だった。
丸太はワイヤで吊るし、バックホウで運んでいたためそんなに力を必要としなかったが、土のついた根の残骸は人力で片付ける方が早い。――俺の出番だった。
いつもは怒鳴ってばかりの職長も、今日は機嫌が良さそうに見えた。
ある程度、根が片付くとバックホウの手元作業に入る。不器用なせいで、ワイヤが上手く掛からない時もあったが、先輩は「落ち着いてやれ」と優しく声を掛けてくれた。
造園屋も撤収し、整地作業前の片付けも大詰めに入る。一番大きな丸太にワイヤを掛け終わり、バックホウのオペをする先輩に合図を送った。
だが、作業中、ワイヤの片方に緩みがあることに気付く。
「ストップ!」
大声で叫び、先輩に手で合図を送る。
本来なら丸太を降ろしきってから掛け直すべきだったのだろう。しかし夕方が近かったせいか気の緩みがあった。宙吊りになったままの丸太にかかったワイヤの緩みを手で直そうとした瞬間――。
ワイヤが突然、弾けるように切れた。
勢いよく丸太が落ちる。耳元で風を切る音がして、何かが地面に激突する振動が足元に伝わる。
幸い、丸太の下敷きになることはなかった。尻もちを搗いていた俺は起き上がろうとした時、やっと自分の体の異変に気付く。
右腕が、無い。
頭が真っ白になる。不思議とまだ、痛みは感じていない。それよりも、目の前の光景の異常さに飲み込まれる。地面に散らばる血、赤黒い染みを広げる作業服の袖。
「おい、大丈夫か!?」
「どうすんだよこれ!」
「社長に確認しろ! 早く!」
職長や先輩たちの声が遠くから聞こえるが、何を言っているのか理解できない。耳鳴りがひどい。血の匂いが鼻を突き、遅れてやってきた激しい痛みと、熱した鉄板を押し付けられるような熱さを感じながら、意識はだんだん遠のいていく――。
◆
俺はダンプの荷台に寝かされていた。日はもう沈み始めている。
正確に言えば、寝かされているのはブルーシートに包まれた、俺だったもの。
俺だったものに、右腕はない。
飛んでいった右腕は、誰も見つけられなかったのだろう。
風を感じない。エンジン音だけが響く中、走るダンプの荷台に座っているのに、空気の重みすら分からない。
俺は多分、この世のものでは無くなっていた。
聞こえるはずもない先輩たちの会話が分かる。
「面倒なことになったな。社長もとんでもない指示を出す」
「一生黙ってろよ。事故とはいえ、ここまでやれば俺達もバレたら終わりだ」
「今、引き返せば間に合いませんかね?」
「馬鹿言うな。みんなそれぞれの家族や生活があるだろう? 俺も巻き添えは勘弁だ」
ダンプが向かう先は、見慣れた道。
うちの会社が残土を不法投棄している山への道。
あの山は、会社がこれまで隠し続けてきたものたちの墓場だった。いらなくなった材料、仕事の不始末――そして今度は俺。
ダンプの後ろにはバックホウを積んだダンプもついて来ている。穴でも掘って埋めるつもりなのだろう。
「あの馬鹿、悪いやつじゃなかったんだけどな。――足手まといが居なくなって、正直せいせいしたよ」
「ですね。あれなら看板やマネキンの方がよっぽど仕事しますよ」
「死んだやつにそんなこと言うもんじゃねえよ」
「生きてるかも知れないっすけどね」
マネキン、か。
生まれ変わったら、マネキンになるのも良いかも知れない。
何も出来なくても怒られないし。だれも期待しないから落胆もされない。
今までの俺の人生は、何だったんだろうな。
こんな死に方をしたのも、俺のせい。
無能なのも、俺のせい。進学できなかったのも、俺のせい。親を失望させたのも、俺のせい。結果を出せないのも、俺のせい。努力をしていました、は甘え。
生まれてきた俺が悪い。
全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。全部俺のせい。
本当にそうだろうか?
いや、考えるまでもない。全部俺のせいだから――。
<了>
俺が消えた日 あああああ @agoa5aaaaa
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