第6話 月夜の暗躍


 ここまで来れば大丈夫か。

 大きな革袋を背負った壮年の男は、遠くに煌めく街明かりを眺めながら、緩やかな坂道にある路傍の岩に腰かける。


 獣の心臓ひとつぶん減ったとは言え、依然として荷物が重いためにあまり急ぐことはできなかった。

 それでも、思いのほか換金に時間が掛からなかったおかげで、予想よりもだいぶ距離を稼げたと言える。

 たいした護身術を持たない身としては決して安全な夜道ではないけれども、あの森の中に比べれば天国に違いない。


 一緒に地獄から生きて帰った青年の顔を思い出す。

 悪いことをした。だが、男としても、仕方がなかったのだ。

 今回の仕事はさすがに、危険な香りにまみれ過ぎている。


「対象を無事に検問所の外まで送り届ける。そこまでが依頼内容だったはずだが?」


 夜風のように虚をつく涼やかな声を投げかけられて、男の背筋が凍る。

 おそるおそる振り返るが誰もいない。


「……ひっ!」


 怪訝な表情をしつつ首の向きを元に戻すと、目の前にはマントで全身を覆い尽くし、フードを目深に被って顔を隠した、涼やかな声の主が立っていた。

 男は思わず岩から転げ落ち、態勢を直そうとするが上手く行かない。腰砕けのまま後ずさりをしてどうにか距離を取るのだが、苦し紛れであることは誰が見ても明らかだ。


 涼しいのは声だけではない。気づけば周囲は冷気に満ちていて、寒いぐらいであるのに全身から汗が止まらない。

 森の獣とは違う類の、それでいて一層に恐ろしい、人外の魔物に遭遇してしまった絶望感に包まれて、いつもは口角の上がっている顔が歪みながら真っ青に染まる。


「質問に答えろ。依頼を途中で投げ出したのはなぜか?」


 もはや呼吸すらままならないが、冷気が少しだけ収まってきた。

 これならば喋れる。希望はまだある。


「な、投げ出してなんかいない! もう十分だっただろう? 森の麓まで無事に送り届けて、通行証も渡したんだ! 危険な夜までなんとか耐え忍んで……、仕事は十分に果たしたはずじゃねえのか?!」

「無事に外まで送り届ける。見届けずしてなんとする? 可哀そうに無一文で捨てられて、せっかく森の外に出たというのに宿に泊まることすらできない」

「それは……、悪かったと思ってる! ただ、外の待遇までは依頼に含まれていない! そ、それに、多少の不行き届きは許されるはずだ! 先に約束を破ったのはそっちじゃねえのか?!」

「約束を破った?」


 マントの人物がゆっくりと距離を詰める。依然として顔の表情は分からないが、手に持っている細身の剣が妖しく光りながら近づいてくる。

 このまま終わってなるものかと、死の淵に立たされた男は歯を食いしばり、再び強まる冷気を払いのけるかのように、奮然と口を開いた。


「……ぐっ、そうだ!! ふたりとも死んだぞ?! ひとりのはずじゃないのか? あいつと、シュダカと背格好が似てる、あんたが用意した男だけだったはずだ! 危うく俺まで死にかけたんだぞ?!」

「それだけ危険な依頼だと言ったはずだ。そのぶん報酬は弾んだだろう? なのに中途半端な仕事をして、成功報酬まで受け取らず、逃げるように去っていくとは。いったいどういう了見なのか?」

「逃げもするさ! 今回の仕事は危険すぎる! それになんだ? あいつは?! 聞いていた話とまるで違うじゃないか! 犯罪組織だかなんだかに、処刑で追放された有能な構成員だったか? 全然違ったぞ! ものを知らなすぎるのは訳わかんねえが、とても悪人とは思えなかった!」


 マントの人物が歩みを止める。「ふむ……」と顔を俯けながら悩んでいる様子だ。

 これは……、行けるのか? 男の表情に、僅かな希望の明かりが灯る。こちらの言い分にも一分の理があるはずだ。


「人を見る目はあるようだな。たしかに、こちらにも非があることを認めよう。成功を見届けなかったとは言え、彼を無事に森の外へ連れ出してくれたのだ。彼は自分のことについて何か話していたかな?」

「は、話? それは……、話してもねえし訊いてもねえよ! 危ねぇことに首を突っ込む気はさらさらないんでね! 取り留めもない話はしたが、愛想笑いばかりで自分のことを話す雰囲気はまるでなかった!」


 男の言葉に対する明確な反応はない。止まったままだ。

 ……これはどっちだ? 生きて帰れるのか?


「お前のように気さくな同性と交流しても、名前を教えるぐらいで他のことは話さない。そのぐらいがちょうど良いだろう。とりあえず、計画を中止する必要はなさそうだ」


 マントの人物の雰囲気ががらりと変わった。

 気づけば、周囲に立ち込めていた冷気も一切なくなっている。暖かい。助かった。男の強張っていた表情がまたたく間に緩んでいく。


 すると、マントの人物がフードに手をかけて隠していた顔を顕わにする。

 ……女? どうして今まで気づかなかったのだろう。透き通った銀色の髪が星明りに照らされて幻想的に輝いている。

 表情はとても冷ややかで友好的な雰囲気ではまったくないが、先ほどまでの底知れない凄みも感じられない。


「さすがに顔を見せないのは失礼だと思ってね。途中で投げ出したのだから成功報酬は諦めているのだろう? であればこちらとしても渡す気はない。信用に傷がついたことは自覚してほしいが、ここらで手打ちにしよう」

「あ、ああ。分かった。今回のことは本当にすまねぇと思ってる。危険な仕事はこりごりだが、もう少し安全なやつなら……、またの機会に」


 緊張が僅かにほぐれていつもの調子が出てしまったが、男は心の中で堅く誓った。

 もうこんな仕事はやめにしよう。命がいくつあっても足りない。

 あの世で待ってる嫁と娘は、汚ない仕事で食いつないできた自分を歓迎してはくれないだろうが、早くに来てほしいとまでは思っていないはずだ。


 男は、砕けてしまった腰をどうにかこうにか繋ぎ合わせて、体の正常を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。

 なるべく自然に、なにものも刺激せず、至って穏やかにこの場を立ち去るべきだ。


「ほいじゃ、俺はこれで」


 別れ際はにこやかな笑顔で。

 壮年の男は、つい先ほどまでは死の淵に立たされていると感じていたのに、銀色の髪の女に向けて板についた笑みを餞別として送った。


 それが、男の最期の表情だった。


 人の良い笑顔そのまま、男の首だけが地面にぽとりと落ちる。

 首を失った体は思いのほかそのまま立ち続けたが、間もなく膝から崩れ落ちるようにして首の後を追っていった。

 少し肌寒い風がたなびく夜道には、女ただひとりだけがぽつんと立っている。なにも持っていない片腕を水平に上げて、静かに足元を見下ろしながら。


 女の依頼を引き受けてしまったその瞬間から、男には生き残る道がなかったのだ。

 しがない商売の傍ら裏稼業にも手を出していた男は、慎重かつ義理堅いゆえの手堅い実績に目をつけられ、気さくで親しみやすいという理由で選ばれてしまった。

 女にとって、たとえ僅かな可能性であったとしても、計画の不安要素を放置しておく選択肢はない。

 ましてや敵方の人間なのだから、冷酷な判断を厭わないことも当然である。


 ここまでは順調だ。ひと月とかからなかったわけだが、あまり短すぎてもいけないから、なかなかほど良い歩調なのではないか?

 東の空に煌々と輝く赤い月を見て、女はふと、孤独な男を送り出した日のことを思い出す。



* * * * *



「時間がないからもう行け。エリグ様が城にいないとは言え、後々の対応を予想すればかなりギリギリなんだ。地図にある森に着けばフニフニしてもいい。それまでは、死なない程度に死ぬ気で走れ」

「わ、分かった! 今日まで本当にありがとう! 俺、もとの世界に帰れるように頑張るから、イベルタも……、大変だと思うけど元気で!」

「ああ、達者でな」


 シュダカはようやく背中を向け、自分が本来あるべき場所を目指して走り出す。


 日は傾き始め、間もなく夜が訪れるわけだが、もはや私が心配する必要もないだろう。

 まだ頼りなく、広い背中とはとても言えないが、ずいぶんと逞しくなったものだ。


 一度くらいは振り返るかと思いきや、気づけばすっかり姿が小さくなった。

 間もなく荒涼とした坂をくだり終え、川を伝って東に向かい、やがて木々に囲まれた道なき道を突き進むことになるだろう。


 暦によれば、今宵は白い月の夜だ。

 ちょうど満月とはいかなかったが、赤い月が上がってこないのだから、野宿であってもさぞかし夢見はいいだろう。

 旅立ちの日にふさわしい祝福された夜が来る。


「エリグ様、お気持ちは分かりますが早すぎます。もう少しだけ木陰に身を隠していただけますか?」

「なんだ? 俺に悟られることなく小僧が戻ってくる可能性があると? ずいぶんな自信じゃないか」


 背後にある林の暗闇から、深い赤色の瞳を煌めかせた大男がぬっと出てきて、近くの倒木に腰かけながら、家来である私の揚げ足を取ろうとしている。


「そうではありません。ただ、遠目であったとしてもエリグ様のお姿が目に入ってしまえば、計画に支障が出るおそれがあります」

「容赦しろ。ガラにもなくミナカの漏出を極限まで抑えたんだ。少しでも存在感を弱めようと昨晩から何も口にしていない。もう我慢が利かん」


 さすがにため息を禁じ得なかったが、見届けたい主君の気持ちはもっともだ。

 ささやかながら今後も関与できる私とは違い、エリグ様にとっては今生の別れになるかもしれない。

 もはや点ほどの小ささになった宝物を、赤い瞳が真っ直ぐに見つめている。

 本当に食を抜いたのだろうか? 沸々と燃え滾る覇気が滲み出てきて、シュダカに気取られやしないかと心配でたまらない。


「カズールも見送りたかっただろうにな。誘わなかったのか?」

「……エリグ様ほどではありませんが、やつにも立派な角があります。私の指示を聞かず、シュダカと必要以上に良好な関係を築いたことは許されざる罪です。役目を終えた以上、もう処分してしまった方がよろしいのではありませんか?」

「はっはっは。そう嫌ってやるな。あやつは俺にもお前にもできない大仕事をやりきったのだ。今後も使い道はある。ただでさえ手駒が少ないのだから、易々と使い捨てるわけにもいかんだろう」


 この計画を始めてからというもの、絶対的な主従関係はそのままに、幾ぶん打ち解けた掛け合いができるようになった気がする。

 当然ながら、エリグ様には他にも多くの家来、力があり、長く連れ添ってきた忠臣がいるわけだが、この1年で最も話をしたのは私に違いない。


「さて、見えぬものを見続けることには飽きた。さっさと引き払おう。旅の支度とクロヴェル入りの準備については抜かりないだろうな?」

「はい。既に目星と算段はつけてあります。」



* * * * *



 送り出した日とは対照的に、今宵は赤い月の夜だ。

 深い森を抜け、広い空の下で過ごす最初の夜がこれとは、なんとも不吉極まりない。

 自分と同じたくさんの凡族に出逢えたというのに、さぞかし夢見は悪いだろう。


 とは言え、あまりに幸運に恵まれていたのでは図に乗って足を踏み外しかねない。

 人の良い男は去り際まで適任だった。世間知らずならぬ、世界知らずの孤独な男に、他人を信用しすぎてはならないことを改めて教えてくれたのだから。


 銀色の髪の女は片膝をつけてしゃがみながら、足元の穴に収められた骸を見下ろし、無造作に土を上から掛けていく。

 垣間見える表情は少しばかり崩れてしまっているが、つい先ほどまでは似合いの笑顔だったはずだ。きっと苦しまずに逝けただろう。


 ひと通り作業を終えたのち、女は懐から水晶玉を木枠で囲った小さな置物を取り出すと、玉の中心を薄目で穿つように見つめる。

 シュダカは……、動いていないな。先ほどまでは細々と歩き回っていたようだが、ぱたりと動きが止まっている。今夜の寝場所が決まったのだろうか。


 坂を下り、少しばかり近くなった街明かりを一瞥して、やや垂直に進路を変更する。

 仄赤い月明かりを頼りに、女は颯爽と町ひとつぶん移動して、少し小高い丘にある砦のような建物を目にとめた。

 手近にあった雑木林に身を潜め、時が経つのをじっと待つ。


 月が空の頂に差し掛かった頃、女はゆっくりと陰から出てきて、先ほどの建物へと歩を進めはじめた。

 もう世の中が寝静まっている時分であろうに、黄色い明かりの中で人が盛んに活動している様が見て取れる。

 気合いの入り様は認めるが、外ばかりを視ていて内側への注意が散漫だ。こうして着々と近づいているのに、まるで緊迫感を覚えない。


 女は仕事の開始を間近に控えながら、相変わらず孤独な男のことを考えていた。

 以前のように、眠る場所や食べ物を恵んでやるわけには行かないが、多少の手心を加えてやらねばならない。

 これからは陰ながら手を回してやることも難しくなる。

 この1年で身に着けた、身に着けさせられた力を使って、自分ただ独りの足で歩いていくしかないのだ。この世界でふたつとない、招かれざる勇者への道を。


 女は先ほどは使わなかった、澄んだ青色の意匠が凝られた銀色の剣を鞘から引き抜く。

 涼しい夜風だけではなく、建物の中の人の動きが、徐々に女の鼓膜を震わせはじめる。


 路頭に迷う弟子のため、明日の行き先を決めてやろう。

 ついでに、甚だ不十分ではあるが……


「卒業試験といこうか」

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2024年12月17日 18:15
2024年12月18日 07:15

勇者であれば呉れてやる ―隔てられし世界より、招かれざるふたりめの来訪者― 昴の後星 @follower_of_Pleiades

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