第5話 密入国


「おお! 見えてきたぜ! あれが出口の検問所だ!」


 ユグクさんのしゃがれた快活な声が、まばらになった木々の間を易々と突き抜けて青空にまで響き渡っていく。

 長かった。森にいた時間は実際のところ大したことないわけだけど、孤独はずいぶんと感覚を狂わせる。……いや、それを言うならば逆なのか?


「この森で夜を越すなんて生きた心地がしなかったが、やっぱり何事も準備が一番! ってな! そうだろう?」

「そうですね! あちこちに土やら枝やら入りこんじゃってチクチクしますけど、おかげで朝日を拝むことができました」


 たいそう自慢気にしているおっちゃんに向けて、「夜中に穴熊っぽい獣に襲われました」などとはとても言えない。

 断言はできないけれど、昨夜の魔獣が何を目指してきたかと言えば、革袋の中身なのではなかろうか。


「よーし、歩きながら荷物の確認だ。大事な忘れ物はしてないか? 命がけの収穫はこの通り。あとはまぁ、財布がなくても通行証さえあればなんとかなる」

「え?」

「ん?」


 ふたりの間に沈黙が流れる。

 深くて暗い森の中であれば割かし様になっただろうけど、こうも明るい空の下だとなんだかとても阿呆な感じだ。

 財布よりも大事な通行証? ひとつの門もくぐっていない俺が、そんな大層な物を持っているはずがない。


「あー、いやー、そうだったな。そもそも人食い魔獣のことすら知らない兄ちゃんが通行証を持ってるはずもないか」


 いち早く頭を切り替えたユグクさんは、年季の入ったカバンに手を突っ込んでゴソゴソと中身を漁り始める。

 間もなく一枚の紙を取り出して「ほらよ」と手渡しながら、こちらに開いてみせてくれた。


 ほどほどの間隔で横向きの文字列が並び、最後におそらく責任者なのだろう名前があって、下辺の真ん中に途切れたようなマークが書かれている。

 あれだ。偽造を防止するための割符みたいなやつだ。


「検問所を通るたびにこれが発行されんのよ。片割れが保存してあって、担当の役人が付き合わせたうえにミナカ流して光らして二重で確認するわけだ。ミナカ入りの筆墨は安物だと3日ぐらいしか持たねえから、有効期限も勝手に設定できて便利だよなぁ」


 ……何を言っているのかほとんど分からなかった。

 いや、途中までは分かったけれども、とにかくこの通行証がないと検問所を通れないということだ。

 てんで文字が読めないからユグクさんの話を信じるしかない。

 この紙を俺が持っていても仕方がないし、大事なものなのだからさっさと返そう。


「えーと、通行証を持っていない場合、どうなるんですか?」

「そうだなぁ。見つけるまで通れないか、どうしても失くしたんなら身ぐるみ剥がされて刑務所行き、持たずに入ったとバレたんなら打ち首かもな」


 ……終わったのか? いや、事情を話せば……、何を話せばいいんだ?

 イベルタが言うには、自称異世界人は気狂いと思われて誰にも相手をされなくなるか、反社会的な人物としてお縄になるのがお決まりらしい。宗教的にもかなり問題があるとか。


 じゃあどうすればいいかというと、例えば、自分からは決して明かさない代わりに、異世界人の是非を判別できる有識者の目に留まる行動をしろとのことだ。

 自称は信用を失うから、権威のある人に他称してもらうのが肝要だと。

 目に留まる行動とは……いったいなんだ? 森の中でさんざん悩んだけれど、悪目立ちは才能もなければ趣味でもないから、とりあえず善行を積めばいいのではないかと考えている。


 さて、今この状況で俺が異なる世界から来たなどと明かすわけにはいかない。イベルタたちのことも話せない。

 検問所で何を話せばいいんだ? かくなるうえは……


「言っとくが、黙ってクロヴェルの領内に入るのはやめといた方がいいぞ? 遠征前でやたらと気い張ってるだろうからな。この森での狩猟が解禁されてんのも、魔獣狩ってひと儲けしたい商人らと、いっそがしい時期に楽がしたい軍人さんとの妥協で始まったって話だ。俺らが命張っている分、いつもより侵入者への警備が厳しいってわけよ。……大丈夫かい?」

「あ! すいません……。ちょっとボヤボヤしてしまったというか。気が、なんかもう遠く遠くなってしまったというか」


 丁寧に説明してくれたと言うのに、ずいぶんと無様な姿を晒していたらしい。

 けれども、これでは森に引き返して獣たちと仲良く暮らすぐらいしか選択肢がない。

 そこに遠征とやらもやって来るとなると穏やかな生活は望めないだろう。……遠征?


「ユグクさん、遠征というのはいっt」

「俺に考えがある!! なんつったってこの森で一晩明かした仲であるどころかあんたは命の恩人だ。多少いけないことに首突っ込んでもばちは当たらねえだろう」


 唐突に決意いっぱいの表情で話しはじめたと思いきや、「ほれ」とユグクさんは一枚の紙を手渡してくる。

 これは……通行証? なんでまた? ……ん? なにか少し違うというか、こんなにしわくちゃだったっけ?


「死んだ連れのだ。本人がいないんじゃなんの意味もない紙切れだが、一緒にこの森に挑んだ記念みてぇなもんだからな。金目のもんは気が引けるし、それだけ持ってきちまった」


 ユグクさんはもう一枚、自身のものとは別の通行証をカバンから取り出して見せてくれた。

 死んでしまった仲間の形見。ふたりに何があったのか、どのような最期を迎えたのか、まざまざと突きつけてくる二枚の紙切れ。


「いや、その……本当にありがたいですけど、これって使えるんですか?」

「やってみないことには分からん。だが、俺の勝手な推察じゃあたぶん大丈夫だ。その通行証を持ってた方はお前さんと背格好が似てるし、念のためもう少し暇潰してごった返した頃合いに行きゃあ通れるだろう」


 ……まじですか? 渡りに船というか、願ってもない話だ。


「ゆ、ユグクさん……! 感謝してもしきれないというか……」

「なーに言ってんだ。こんぐらいじゃこっちの恩返しにもなっちゃいねえよ」


 気さくなおっちゃんがにししと笑う。

 ユグクさんはそう言うけれど、かなり危ない橋を渡るのではないか。

 もしも問題になってしまったら、どうにかして迷惑が掛からないようにしないといけない。イベルタの言いつけを破ってでも。


「まあ……なんだ。相当な訳ありなんだろうが、まだ若えんだし、腕っぷしの才能だってある。こんな暗い森から抜け出して、ぱーっと明るい空の下に出てきたんならよぉ、真っ直ぐ生きてみてもいいんじゃねぇのかい? あんたなら上手くやっていけそうな気がするんだがね」


 快活な調子から打って変わって、バツが悪そうな表情と優しい声音を織りまぜながら、ユグクさんがゆっくり語りかける。

 思い返せば、昨日からユグクさんは面倒見良く話してくれるけれど、俺がこの森にいた理由について踏み込むどころか、名前さえも訊いてはこなかった。

 明らかに不審な男を相手にかなり気を遣ってくれていたに違いない。


 名前……、この世界に呼び出されて、言葉を失ってしまってから、それまで片時も離れず連れ添ってきたというのに、分からなくなってしまった自分の名前。

 でも、父さんと母さんがどのような思いを込めて、その文字と音を選んでくれたのか、漠然としたイメージだけれど、それだけはちゃんと覚えている。


 本当に不思議なことに、この世界の言葉がある程度分かるようになってから、イベルタと一緒にああでもないこうでもないと、俺自身の呼び名を考えた。

 あの夜から、1週間ぐらい経った頃だろうか。


 木なのか空なのか、その木は高いのか低いのか、旬は夏なのか秋なのか。

 涼しい顔もこの時ばかりは眉間にしわを寄せて、それでも納得がいくまで付き合ってくれた。


 外に放り出されてしまえば3日と経たずに野垂れ死ぬ身の上であっても、名前だけは妥協できなかった。

 だって、もとの世界の人たちと、今、遠い世界で生きている自分という存在を、唯一繋ぎとめてくれるような気がしたから。


「ユグクさん。俺の名前は『シュダカ』と言います!」

「ん? ……そうかい。誠実そうないい名前だね」



* * * * *



 人生初の密入国、赤の他人の通行証と故郷と名前を引っ提げて、心を無にし、おのれを稀代の名優だと思い込みながら、一世一代の戦場へと足を踏み入れた。

 行く手に待つのは裁定をいただかんとする荒くれ者どもの長蛇の列。少しづつ、少しづつ、死神の鎌を振り上げた執行者の眼前へとにじり寄る。

 おのが首を体に繋ぎとめたまま、彼岸へ渡りきれることを祈りながら。


 時は来た。もはや立ち戻ることはできない。

 神をも騙すと言うのなら、神に祈るなど筋違いというものだ。

 さあ、行こう! いかなる運命を突きつけられようとも、その全てを受け入れてやる!


 ……あっさり検問を通過した。これといった見せ場もない。


 ユグクさんは少し先に検問所を訪れている。

 同伴は俺としても気が引けたし、討伐報酬の確認には得てして時間がかかるからと、タイミングをずらすことにしたのだ。

 帰りがひと晩遅れた言い訳についてはしっかり説明しておいてくれたようで、担当の役人は「大変でしたね」と労うだけで、あれこれ聞いてはこなかった。


 討伐報酬は折半することになっている。「がっぽり」の半分であれば当面の路銀は気にしなくても大丈夫だろうか?

  お金の数え方について訊いたらドン引きされそうだけど、ユグクさんも少しは慣れてきただろう。


 それにしても『人』がたくさんいる。みーんな普通だ。

 にやけ面を微笑みに抑えただけでも誰か褒めてはくれないだろうか。


「兄ちゃん、いい稼ぎが入ったようだな? 今夜一杯どうだい?」


 腕っぷしはなかなか強そうだけれど、至って普通な男に声をかけられた。


「ええ、『がっぽり』と。機会があったら是非!」


 「そうかい良かったな」と毒づきながら、男は宿場町らしき方へと消えていった。

 この世界に来てから初めて、お世辞を言うことにも成功したようだ。


 はて、男が出てきた少し立派な建物が、討伐報酬の交換場所だろうか。

 やたらと壁が分厚いというか、装飾も最低限に済ませていてずんどうな印象を受ける建物だけど、少し立ち止まって観察してみれば、やはり換金を行っている場所のようだ。

 であれば、ユグクさんとの待ち合わせ場所はまさしくここだ。

 土地勘のない場所ですれ違うといけないから、大人しく動かずにいよう。


 日が暮れようとしている。空の青が間に白を挟んで、だんだんと茜色に変わっていく。

 この世界の空は澄んでいてとても綺麗だ。

 赤い月を見る度にあの夜のことを思い出すから、赤みがかった夜空は本当に御免こうむりたいのだけれど、もともと赤い夕焼け空であればいつまでも見続けていたい。



 ……見続けるにしてもさすがに限度がある。

 夕焼け空はとうに盛りを終えて、どちらかと言えば空はもう紺色だ。


 待ち合わせ場所を間違えたかと思って、一度建物に入って確認してみたのだけど、ここらで唯一の換金所らしい。

 役人によれば、ユグクという男性は先ほど換金に訪れていて、少し待機した後に報酬を受け取ってさっくり出ていったそうだ。


 俺の到着が遅かったから他の用事を済ませにぶらついているのだろうと想定して、あらためて待ち直していたのだけど、これは動き始めた方がいいか?

 もしかすると、何か事件に巻き込まれたとか? まさか俺のことがバレた!? ……でも、そうであれば俺が放置されているのはなぜだろう?


 もう野原を出歩くような時間ではないだろうし、酒場とか、宿屋とかに当たってみるべきだろうか。

 いつお縄が迫るかも分からないのだから、あまり目立ちたくはないけれど、もしこのまま再会できなかったとしたら……


 無一文となれば、そこらじゅうから食欲をくすぐる料理にも、当然ありつけないことになる。

 森の中では、獣たちが教えてくれた食べられる木の実がごちそうだった。

 でも、今となっては、少しでも温かいものが食べたい。


 宿屋に泊まれないとなると、やむなく野宿をするほかない。

 久々にベッドで眠れると思ったのに、とぼとぼと即席の寝床を探す羽目になるのだろうか。

 これまでとは違って、今夜は人目を気にしなければならない。社会性なんてこりごりだと嘯きたくもなるものだ。


 飯屋のそばには近寄りたくない。とりあえず、宿屋に聞いて回ってみよう。

 ユグクさん、どこに行ってしまったんですか?

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