初戀の效用
朝尾羯羊
本稿
問題は六年前の震災だつた。
信濃とその家族は、その日もやはり
南向きに開かれた
ぐずついたあやしい天気の午后だつた。一面の雲は鉛色を
信濃は玄関ポーチの
その子はいつも自転車を引いて歩いて、向こうの杉の
だがこの思い人も、待ち人のその子の比ではないが輪郭がはっきりしなかつた。これがその二人目である。思い人はいつも前髪をごっそり、片側のピンで留め、頭のてっぺんまで
彼女はある夏の日の光景を背負つて、端座していた。田舎屋敷は北向きの畑に面して
彼女は正座の膝を崩さず、せっせと繕い物の針を動かしている。彼女の
「信濃。こういう子を嫁さんに貰わんといかんぞ」
横合いから照れ臭そうに父が云つた。繕い物とはボタンの外れかかつていた父の着古しのシャツである。今し出掛けようとする父の綻んだ袖口を見るに見かねて、彼女が申し出たのだつた。
糸切歯が白く光つて、ぷつんと糸の切れる音。
「はい、どうぞ」
そのかすかな声音には不思議なもどかしさがあつた。信濃は頭が
「いやあ、ありがとう。これは感心なお嬢さんだ」
このお世辞はどちらかと云うと不器用な信濃の母を、その場にいない母をちょっと
とまれ思い人とは、亡くなつた父が何の気なしに彼に与えた暗示であつた。
父に云われたからその子を好きになつた。あやふやなゆえに明快な根拠を明快なゆえにあやふやな根拠とすり替えたこんな好意の持ち方は、単なる彼の自己欺瞞であつたのだろうか。ところが信濃にあつてはそれが実際だつた。むしろそれ以外に、彼が人を好きになる方法はなかつたのかも知れない。あやふやなゆえに明快な根拠―――訳もなくその子に惹きつけられる心の動きよりも、彼はその子を好きになることの必然性の方を愛していた。つまりはその子よりも、必然性の方を愛していた。父の暗示が、その子を好きになる充分な根拠を与えた。
頭上をまあるく切り取つた杉は
蛇口を捻ると、滑りの良すぎるハンドルは横に辷つて、多量の水を
その子と
信濃は水遣りの演技も忘れて彼女を迎えた。真下にすとんと落とした
泳いでいるその手を取つてやろうと思つて、
「どうしたの✕✕✕。今日は自転車は?……なんか怖いものでも見たの?」
雷がひッきりなしに轟いて自分を追つて来たのだ、と彼女は絶え絶えな
「ほんとうに、雷だったの? 僕はそんな音、まだ聞かないけど」
「わかんない……でもずッと鳴ってるの、今だって、ほら……」
つられて耳を澄まして見たが、彼女の苦しげなみだれた呼吸のほか、何物も聞こえなかつた。
「まだ、鳴ってる?」
「うん。なんか太鼓の音みたいな、
初戀の效用 朝尾羯羊 @fareasternheterodox
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