• 現代ドラマ
  • 歴史・時代・伝奇

【自主企画】第二回寸評(Ⅰ)

-/★/★★/★★★(四段階評価)
15作品/平均点1.26
作品名/作者名(敬称略)

★★
1位 梨子割(なしわり)/つるよしの
 一人称的三人称の典型。こういう書き方が近頃は多い。
 良太郎にあくまで付き添い、彼の心情を代弁している地の文はほとんど良太郎による一人称的な語りと見分けがつかない。この地の文は、良太郎がもっている認識以上のものをもっておらず、彼の認識の限界に一致している。そんな地の文が良太郎を取巻いている状況のどうにもならなさ(道理)を説いているのだが、良太郎の外部に働らく力の整理を彼の内部で行なっているに等しいので、結局、彼に解る範囲のことで、彼自身の都合に沿って状況が整理され、理窟づけられてゆく。ここには全く外部を固定する客観的な力が働らいていない。
 純然たる外部の力(モメンタム)が不在である。モメンタムには道理も含まれるが、この「~という状況であるから…せざるを得ない」という判断がしかも主観的な都合に充ちている。主観を取巻くどうにもならなさを主観自身が自らの都合に沿って理窟づけているから、運命の力に"抗っている"というより、自分自身(作品自体)が差し向けてくるものに対し自分で"妥協し折れ合っている"奇妙な独り相撲のような印象を受ける。
 運命の迫力を感じない。
 良太郎に艱難を差し向ける運命が存在するためには、地の文は良太郎の心事を括弧に入れて彼と距離をおき、彼の知らない情報をも高みから網羅しつつその全体に含まれる南画中の一人物として彼のことを取り扱わなければならない。
 この種の地の文は、時代を映すざらついたテクストたりえない。良太郎の心事から離れられない文体は、何を描こうにも良太郎の心事を経由して立ち現われ、主観性が伝染した浮動的で不明確な稜線をしか結ばない。
《我慢の限界だった》《心は完全に動転していた》と地の文が述べている。これはつまり「たった今、自分は冷静さを欠いている」と冷静さを欠いている筈の本人が冷静に述懐しているようなものである。たった今理性の垣根を飛び越えつつある主観が、同じ口で、尚も状況を合理的に説明しようとしている、あるいは合理的に説明しようとするくらいには理性的であるという矛盾を生じており、順序から言って、「動転し冷静さを欠いている」と述懐する冷静さが前者をすぐさま否定してしまっている。これでは本当に彼が動転しているのか疑わしくなる。
 およそ良太郎の心事を括弧に入れてもう一度これを客観視する(地の文が良太郎を批判する)必要があるだろう。
――
※追って加筆する

2位 渦をまいた湯葉ののった青皿と小魚たちの踊り場/かいまさや
 梅雨明け間近に風邪を引いたのだろうか。「私」は納屋の二階に住まっていると書かれているが、もしかすると風邪がうつらないように隔離されているのかも知れない。
 すでに七月の半ばか、何となく窓の外が青みがかっていそうなうそ寒い印象をうける。外が雨とは一言も書かれていない。何ものかが屋根をほとほとと、次第にせわしなく音訪ってきていて、それで目が覚めた。何となれば、音がするだけで、実際にその姿を目にしてはいないから、雨と表現するには不適というわけだ。その音が結ぶ影像は、ぴちぴちと撥ねる魚鱗であり、丸まっちい紡錘形をした稚魚の群。トタン屋根の上に水揚げされ、勾配をすべって、軒下に落ちてゆくさまに異ならない。
 無聊をかこってラジオの抓みをひねると、聞えて来たのは最初は明瞭な人語であったが、微睡のあいだで不明瞭ながさついた音に変る。音が結んだ魚という影像が、夢の中では群をなして、一本の銀色の襷のように青い海にひらめく鰯の大群となり、それが青い皿に渦を巻いている湯葉の印象へと翻訳されたのだろうか。ラジオの音が円卓中央の回転台をひきずり回す音に化けて出て、湯葉ののった皿を遠くへ運び去ってしまう。
 熱に浮かされた身のまわりの寂しさを、想像の豊かさが埋めに来た体験が叙されているように思う。憾むらくは本文が短いことである。
 人間的尺度が解体されてしまったあとの言語のような使われ方をしている。人体の寸法に合わせてドアが設計されるように、言語も人間仕様の筈だが、まさにその尺度を失ってしまったかのような、非中央集権型の言語の使われ方だ。人間的でないことのために人間的な言語が使役されるにあたって、まるで寄生地主が解体されて小作農が大勢生まれるように(言葉がそれ本来の持主のもとへと償還されるように)言語が細分化されて、不馴れな未踏の地を埋めるべく軮掌している。
――
蝉たちがかなりはじめた→がなりはじめた

3位 リストカットの神様/蒔文歩
 一文々々が短くて、まるで、水を一度掻くごとに首をのけ反らせて息継ぎをしているかのような乱調子。口語に近く、小説の文章としてなっていない。
 リアリズムは口語体をもって現実の転がりの捷さを模すことではない。文章はテンポの表現に向かない。テンポを表現しようとしているのであれば、映像を意識しすぎている。映像の下位互換であり、文章独自の表現の領域を開いているとは言い難い。
 生から解放されて窓外に身を乗り出してしまう少女を描くかたわら、計らずも彼女を生から解放してしまった同級生の苦悩が伴走しているという対位法的な構成は評価できる。さらには群がる蜂の、どこからともなく響いてくる低音のような女子生徒らのおしゃべりが、ひときわ低く、変わらぬ調子で流れつづけている。彼女たちが泣いたり笑ったりすることに、生物学的な意味以外のいかなる意味もないが、その無意味なさわがしさが確実に二人の相異なる少女の神経を蝕んでいる。
 自傷を欲するにいたる心理を描けているか? 本作はそれへの多少の手引きを示しているように思う。しかしながらこれが純文学であるならば、そこを追究せずにはおかないであろう。
 成長段階のみずみずしい皮膚こそ、自傷の餌食になりやすい理由がわかるような気がする。何となく傷を誇りたい年齢ではある。成長に対する否定の意志、あるいは成長そのものに対する恐怖というものを各々がおぼえていて、それを各々ちがった仕方で解消させているのではないか、とも考えられる。
 また、自室で麻縄がちぎれてまたしてもこの世に転落した少女が、母親でも教師でも生徒でもない何者かに向かって叫んでいる。とりわけ少年少女は、与えられた環境から飛び立つこともならず、与えられなければ生きることはできないが、与えられることによって殺されてもいる。そのことを本能的に感じている。それがよく表されているように思う。
――
 冒頭、《少女漫画のヒロインには程遠い地味な見た目》とある。人生に先立って漫画があってしまい、漫画が何かしらの指標を人生に与えるという構造が、現代の異常性である。なんとなれば、人生に先立って何かしらの指標を与えてきたのは、嘗ては純文学であったからであり、純文学は漫画が人生に先立っていることを批評せねばならない。しかし本作ではこの構造を受け入れてしまっている。にもかかわらず本作が純文学であることなどありうるのであろうか?

4位 琥珀色の海/酒囊肴袋


5位 ミゼラブル・アンリ(原題:金色の春)/沖 夏音

※順位は2026年01月17日まで暫定的に変動します。

7件のコメント

  • 朝尾羯羊様
    上述に関する感想。
     今迄の純文学にある静粛さは、ある種の神的素養を秘めた壁材であったと感じます。筆者は時間をかけて壁を築き、出来上がった壁の向かい側から匿名多数の読者が群がりをつくる。作者も読者も同じ壁を見てはいるが、向かい合った壁面は誠に様子の異なっているに違いない。読者の探求心は、その壁の材質や形態からある程度の作者像を偶像的に描き出し、その壁の向こうの神的像を夢想することしか叶わない。このような部屋のうちで、一片の隔たりを以て相手を夢想するその空白にこそ、一方的な純粋性を見出すのが我々でありましょう。
     一方で、一般文芸は生物です。書き手は生物を、自分の仮面をつけて生み出せます。作者読者の両者を挟んで自由に蠢いて、自然の流局にさしかかれば、その姿や生態を変容させて生き永らえる。無論我々であれ、生物を錬成することで自らの手から独り歩きをしはじめる何者かを作り出すことは可能でも、他者の愛撫や言葉によって様々に成り変わってしまう愛しき姿に絶望と失意を抱かざるを得ないでしょう。得てして、読者が複数に群がれば、書き手は圧倒的なマイノリティです。必要性のあった空白も、書き手の意図と関係なく、すぐさま生物の足跡や肥大化した部位によって埋められて純白性など失われてしまいます。その様なリスクを以ても、私はこのプラットフォームで新たな生物と神の融合を夢みているのかも知れません。
  • かいまさん

     自分のつけた仮面に引きずり回されることと、自分自身のデスマスクを壁にかけて日がな一日これに直面しつづける孤独に耐えることと、どちらの方が耐えやすいか。僕は後者を選びましたので、せめて孤独には耐えねばなりません。
     純文学はその仕組みとして、作者個人の赤肌=恥部の露出が含まれている。読者はこの露出を見て生真面目になる。とっさの生真面目さに起因した得手勝手な偶像が作られる。
     しかし作者が今度は自分自身の偶像化を目的に据える。露出はいたって生真面目に受けとられる。だから打算的な露出を計画する。得手勝手な偶像を抱かれる前に、偶像の抱き方を誘導する――自身の偶像化の具にまで純文学がおちぶれる。
     三島は学習院時代、自分は公家と武家を遠い先祖にもつ、と偽り(『花ざかりの森』において)、また終戦後婚約を破談にされた痛手を、自分がゲイだったから踏み込めなかった、というナラティヴに書き替えて(『仮面の告白』において)登場しました。しかし後年石原慎太郎との対談で、小説家は卑怯だ、行動がない、などと言ってのけます。僕には、小説家が卑怯なのではなく、単に、小説を自身の偶像化に用いた三島自身が卑怯だったようにしか思われません。
     この発言は訂正されるべきであり、三島が陥ったジレンマが、僕には文学史上の負の遺産のように映ります。
     “必要な空白”とは、時間的に必要なへだたりのことではありませんか?
     それはおよそ、印刷物の運搬が伝達のスピードの限界を決めていた時代においてのみ、可能なへだたりだったように思われます。多少の露出も、時間的なへだたりが必ず作者-読者の間に割って入って、それどころか露出を卑近にせず却って神聖化しました。
     しかし現代の時間的へだたりはゼロであり、必要最低限のへだたりすら純文学は確保できず、露出は単に一瞬で消費されるだけの卑俗なカミングアウトとしか見なされません。純文学の仕組みをナイーヴに現代にそのまま移植してくると、むしろただの晩稲なインフルエンサーに近づいてゆくほかない。
     もし人が、文字を介したインフルエンサーとして身を立てたいと考えるなら、芥川賞をはじめ、数多くの懸賞がその門戸を開いています。僕は計画的露出による自己演出を一心に悪く思っているわけではありません。健全な動機だと思います。
     とはいえ僕は、先の三島が陥ったジレンマにかんがみて、文字を自己演出のために役立てたくないという忌避感を強く抱きました。仮面を外向きに(読者の側に向けて)つけることをやめ、自分のほうを向いていて到底自分の顔とは似ても似つかない般若面を作る方に、転向せざるをえませんでした。
     また”純文学が可能だった時代”のあのへだたりを、現代において醸成するべく、僕は嘗ての時代の作品群を経由して文字が現れてくる時の‐はじめから文字が経年劣化しているかのような‐あまりに腹案のまま時が過ぎたために成稿した時すでに文字が古びてしまっているかのような‐文字を思い浮かべて練り始めた時から実際に書き起こすまでの作業の長々しさで、件んのへだたりを稼ごうとしているのかも知れません。外側に自然に広がっていたあの時代の時間的隔意を、自分のなかで経させることで、成稿の文字をすでに古びさせ、純文学に必要な空白を備え付けようとしているのかも知れません。
     畢竟、嘗ての時代の純文学をそのままやると、現代ではインフルエンサーになります。露出を卑近なカミングアウトにせぬために、別様の仕組みが考え出されなければなりません。それがつまりは、即時性を強く感じさせる私語を閉め出し、時間的隔意を互いに自覚的に演出するという構想(純文学PF)に結びついてきます(文字を時代横断的に用いることではじめから小説を古びさせるという手法もこれに含まれる)。
     純文学の流儀をそのままやるとインフルエンサーになることを僕は認めます。ですので、僕が述べている純文学の構想は、奇ッ怪なものと言わねばなりません。純文学PFの要諦は時間的隔意の演出。現代においては稼ぐことのできないへだたりを、嘗ての作品群を巻き込むことで確保する。嘗ての作品群がずらッとならんでいる時間的水平線に今出来の自作を投げ込むという様式。すべてが早いようでもあり且つ遅く、今出来のようでもあり且つ古く、即座に送られてきたようでもあり且つはるかな昔日から送られてきたような、時間的な遠近感を失った場を、まずは皆なで意図的に醸成しようという突飛な構想です。≪生物と神の融合》という表現は正しいです。生きている我々が、死んだにもかかわらず生き永らえている純文学とごっちゃになり、攪拌されようというわけですから。
    ――
    御企画「文学の蟲」の成果はいかほどでしたでしょうか。
    一方的な善意をもって寸評を書くことはやはり草臥れます。純文学のイデーを信ずればこそ、僕もやっていられますが、必ずしも参加者が同種のイデーを心に抱いているはずはなく、裏切られます。僕自身の利益になるかぎりでやろうと考え直しました。やはり人間は互いに利用し合う限りにおいてしか、安定した関係は築けません。
  • 追伸

    AIが創作者の地位を脅かすことについての議論はさかんに行なわれるが、純文学とは何か、についての議論は一向に行なわれません。この一事を以てしても、彼等にとって純文学がいかに"どうでもいいもの"に過ぎないかがわかる気がします。実に嘆かわしいことです。
  • 朝尾様

     三島のジレンマについて。恥ずかしくも、三島に関しては、作品でしか彼を知らなかった私からすると、石原慎太郎氏との対談などで自身の創作方針と矛盾するような発言をしたと、当初あまりぴんと来ませんでした。私考からは、『仮面の告白』は自然主義由来の私小説に虚構を落とし込んで壁の仮面性を活用する、という見事なたくらみに感じておりました。しかし一方で、その仮面は三島自身が見繕った品です。彼自身について、性の倒錯と云う仮面には何を素材としていたか、何を語りたかったのか、という点に於いて寧ろ注目していました。
     『花ざかりの森』の偽証は、自己神話化と云う純粋性の偽りと文学性を等価にすり替えたと捉えています。それは嘘の完成度が高いほどに、誰しもが嘘を神話ときき誤るためであり、当時の日本浪曼派に於いて謳われた貴族復古の時局に則したように感じられます。この2作品の違いは、前者が内面と云う本人のうちにそのものの素材があって、自らの仮面と対話するのに対して、後者は生まれと云う先天的で不変的な齟齬であり、本人の「こうありたかった」と云う二度と変わらない机上の空白へのロマンであったと感じます。
     私は石原慎太郎との対談内容を読んだわけではないですが、私なりに三島の傾向から、行動に先立って己の文学があった様に察しています。決して三島の擁護を試みているわけではなく、『仮面の告白』は、三島が私文学と云う機能を活かして、自身の同性愛の形象を明らかにするために自らの仮面と対峙し、対話を試みたと云う行動に則った過程と結論であると捉えられるやも知れません。また一方で、『花ざかりの森』では、自身の解消、解決しきれない出生と云う不変素を、文学の空白を用いて柔いでみたのではないか、と感じます。それは文学への冒涜と云うよりも、行動に文学を実践の場として先んじる三島の自己解決のひとつ空白として置かれたものである様に感じています。ですが三島に関しては、その自己解決の場への不信が、のちに「文学は卑怯」という自己嫌悪として噴き出したのではないかとも感じます。

     必要な空白について、時間的差異が大きくなればなる程に文学の神聖化へ加担してくれると感じる節があります。ひとつ少しややこい話やも知れませんが、言語とは長らく文法を除いては、語彙や言い回しが、それこそ生物のように常に変化し続けています。つまり、極端に時間の隔たりに数百年単位の誤差が生じるとすれば、新品に仕立てた作品も、封を解けば埃をかぶった古めかしい作品となっており、意図せずとも時代的・言語的価値、つまり新たな純文学として見いだされる訳です。つまり時間的空白がある限り、その当時の価値観から正しく読み取ることは非常に困難になるでしょう。極端な例ですが、時間的遠近感が不鮮明になる場合では、一長一短でもあると感じざるを得ない所存です。しかしながら、私は朝尾様の新たなPFへ非常に強い興味があります。それは疑似的に空白を演出することで、文学それ自体へ如何なる影響があるのか、朝尾様が仮説立てた様な変態が起こるのか、この奇天烈さが真新しいロマンとして印象づいています。

     自主企画の取組は、実は私情で生活に忙殺されてしまい、後半見事に失速しました。利害一致の関係でなければ、片方が一方的に損をしているということですから、当人がその構造に気づけば忽ちに崩壊させるでしょう。私も大して他者のナラティヴに興味関心はありませんし、語り口に目をみはって作者の正体をみやぶろうなぞとは考えてはおりません。しかし、ヒトなりに葛藤や苦悩があって、それぞれの形態に注いでいるのだな、と自分と全く異なるイデーをもつ作者様方へ感じることもありましたね。ここでは、前述の利害一致を実践していました。自分の植生に合う可食部だけをかいつまんで、たまにえづいたりしながらも、消化、反芻してより良い文字を産むことに努めました。これくらいの距離が文字通り、文学的な異世界に住む者同士の適切な空白であるかと思います。

     正直に本来、純文学とはどうでもよいことである方が正しいのか、と感じることもあります。それは純文学が作者の意図せず自然と生まれるもので、養殖の純文学よりも価値が認められ得るのではないか、と考えるためです。自然と樹になったリンゴを求めて、金属を錬金にかける様に、傍から見れば滑稽にうつる思索なのか、と無自覚に自覚する瞬間があるのです。私にとって、純文学に目的を与えた瞬間に、純文学が失われた気すらするのです。これはあくまで個人的な身勝手な愚考でありますが...。
  • かいまさん

     天皇は現在三代目であり、日本国の歴史を八十年とする共産党的な見方、戦前日本を壊疽の部位のように切り落として捨て去る歴史認識から、いい加減我々が覚めねばならぬように、戦前文学からはるかにさかのぼって記紀の時代までを――よしんばそこまで行かずとも、せめて”終戦によってあらゆるものが断ち切られているというバイアス”を突き破ってその先にまで及ぶ文学観をもたなければ、近視眼的になります。その瞬間その瞬間にウケるものを書くという態度に傾きます。僕は純文学の“目的”という言い方はあえてしませんが、おのがじし“主題”というものを持って臨んでいると思いますし、その“主題”を継続的に追い詰め深化させてゆく過程において産み落とされる作品の、轍のように見える連なりが、その人の文学的態度をはじめて決定づけると考えます。流行とは没交渉に、独自の主題を追い詰めてゆく人物の著すものはおしなべて時間的隔意を人に覚えさせ、時局から奇妙に浮いて見えるのではないでしょうか。
     僕の言い方がよくありませんでした。時間的隔意の演出というより、おのずから時間的隔意を人に覚えさせざるをえない“主題”の抱きしめ方とその継続的取組みが欠かせない、というべきところでありました。

     その瞬間にウケようとする気持ちを捨て去ること
              ↓
     主題を継続的に追い詰め、現代という制約から浮上
              ↓
     その場の時間的遠近感がおのずから狂いはじめる

     こんなプロセスを履んで、時代錯誤の場(PF)が醸成されます。
     ともかくも、純文学の歴史認識を拡張させることの大切さについて、僕はかいまさんの同意をぜひ取り付けたいところです。歴史認識は人の(文学における)行動様式を決定します。いかに現代における書く行為が、嘗ての時代と異なっているか、そんなことにさえ近視眼的であると気付けません。純文学を志す上で、我々に与えられている土壌がどう変質してきたかについて検証することそれ自体が、僕にはすでに純文学の範疇に思えます。純文学の土壌の変遷はやがて政治的・経済的変遷との密接なつながりをあらわにし、純文学を問うことがやがて時代を問う(批評する)ことになるからです。
     純文学を取巻く環境の変遷について考えることは、かいまさんにとって窮屈なことなのでしょうか。それを検証することが、かいまさんから純文学を奪うことにつながるのでしょうか。
    ――
     三島の二作についてのご見解も、お聞かせいただきありがとうございます。かいまさんは三島の文学による(ある種不純な)自己解決について大腹中に構えていらっしゃるみたいで、何だか面白いです。僕が難詰したので、かいまさんがバランスをとって下さったのかも知れません。
     トルストイやドストエフスキーについての批評が、まだかいまさんの筐底にひそかに眠っているようでしたら、お目にかかりたいところです。
  • かいまさん

     批評は時間のずれが生み出すものだと思います。
     たしかに発表から時間が経過すればするほど、作品は古びて、古典的色彩を帯びるにいたります。けれども、ちゃんとその中に批評機能が目覚めている作品というのは、発表時点ですでに時間的にずれているものではないでしょうか。
     流行の熱鬧を活写した場面があっても、作者は一歩身を退いて冷めている。この一歩が時間的なずれであり、熱鬧は作者によって反芻されることで古び、それを写し取った彼の筆致や批評の冷めたまなざしの方が却って新しくなる。
     後世、再読に耐える作品は、この批評の新しさが際立っていて、来たるべき世にも充分通じるから。つまり、その場の流行の新しさをも立ちどころに古びさせるほどの批評機能によって、古典と化し、後世じたいをも先んじて批評したものとして生き残るのではないでしょうか。
     批評機能をもたない作品は、時がたつにつれていよいよ”理解しがたい空騒ぎ”としか見なされなくなるのではないですか?
  • 朝尾様

     私情にかまけて、返事が大変遅くなり、すみません。

     私の純文学、将又、文学全体へ大きな見誤りがあったと省みます。実は元より私が史学生だったことが、余計な偏りに陥った所以やも知れません。

     史学科では主に、現存する史料の年代が遡れば遡るほど、当時の写本の数も比例して増幅してゆくと云う価値観に則っております。故に、現在名作と謳われる文学作品においても、例え当時の流行の荒波に立てて徒に刷られていたとて、それらが今の今までに湮滅せず現存すること、それ自体がある意味で名作たる所以であるとすら、私は早計にも誤認していたのでしょう。みすみす恥ずべき拙を露呈してしまい、失礼でありました…。

     勿論、私の考えは全くの的外れたものでもないのでありましょうが、然しながら矢張、朝尾様が御指摘される価値の普遍性の介在なくして、この期に及んで純文学と呼ばれうるものは在り得なかったでしょう。近視的に物事を測り、その大きな節孔には気がつかず、時の熱鬧に任せたままに、ことを終らせる。私にとって、これは非常に奇妙で不可思議な光景です。何が発端で群がりを成して、何が訳で熱意をいだくのか。流行りとはまさに、流行病の様でありますね。

     改めて、自身の早計や誤認をあらためて下さって、ありがとうございます。失礼な言葉の数々には、謝意が絶えません。朝尾様が見限りをもたずして、端正にご説明下さったことが、大きな助舟となりまして、また新しく、文学への憧憬と畏怖が思い起こされました。

     また私情が落ち着きましたら、筆をとりたく思います。朝尾様の御活動にも、良いご縁がありますことを心より祈念いたします。
コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する