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純文学プラットフォーム構想

1)文体の決定権
 文体(スタイル)は自分自身の理想(イデー)にしたがって決定してゆくのが純文学です。語彙の選択・比喩表現の頻度はその理想の色合いに応じて、独自の進化を遂げてゆきます。にもかかわらず表現が伝達可能性・可読性を失わないのは、文法が守られているからです。
 文体(スタイル)を読者の需要にしたがって決定してゆくのは一般文芸です。読みやすさに配慮することで語彙・比喩表現は退潮し、独自性は失われてゆきます。

2)理想の追求と見えてくる全体像
 理想(イデー)を実現するのに、日常言語では足りないことが多く、スタイルを確立してゆく過程においては、あまたの歴代作家のスタイルに当たり、古きをたずねる必要が出てきます。文献をこなしてゆくなかで、純文学の全体像がぼんやりと見えて来ます。すなわち、自分自身の理想(イデー)が具体化されるところの文体(スタイル)を把握するとともに、純文学全体の理念(イデー)を把握します。

3)純文学とは何か、以前
➀「Aが何かはわからないが、自分はAをやっている」と何ぴとも言うことはできない。
➁自分自身の理想(イデー)だけを述べると、純文学全体は個人主義的に散開する。
➂「今までの純文学とは何か」を述べ合い、純文学の全体像を確認する必要がある。
 以上の三点を当然のこととして踏まえている方は次に進んでください。

4)純文学とは何か、のための叩き台
 よき議論の土台を提供するために、まずは四つの要件を提示してみました。
 純文学とは何か、で意見が分かれるのはここからです。時に3)➁の時点ですでに袂を分かっている人物との意見の対立は、「純文学全体の理念-純文学全体の理念、の対立」ではなく、「純文学全体の理念-その人物にとっての理想、の対立」にすぎません。

5)文学はなぜ承認欲求や自己顕示欲の産物ではないのか
 文学的衝動は、自分のなかから他者を生み出そうとする衝動、であると考えます。
 自分のなかから生まれたはずの文字の排列が、まるきり自分が書いたものとは思われないほどに、よそよそしく見慣れない他者として、目の前に屹立しはじめます。そのとき作者は作品という他者からの反作用を受けます。文字という無機的なものは、作者の内側を流れる血潮よりもまず文法という他律に忠実であり、文字にこめられていた作者の個人的な内臓の温度が文法によって冷却されて、作者の制禦をはなれてゆきます。推敲中のある時点から文字の排列はすでに他者であり、ならべてひろげてみるといよいよ作品は他者にしか見えません。文学的衝動がひとえに目論んでいる収穫は、文字の排列から受ける反作用であり、新たに立ち上がったこの他者を介して、作者は自分自身の現実の意味を変更しようとします。

6)純文学品評会の存在意義
 文学的衝動の産物をなぜ他者に読ませようとするのでしょう?
 新たに立ち上げた他者にはまだ背中がないからです。
 真っ正面からの眺めしかもたない作品は、背中側から眺めている読者にどう映っているかという報告を受けることで背中が付け加わり、いよいよ立体的な他者として完成します。かくして自分のなかから他者を生み出すという企ては、読まれてその報告を受けることを俟ってはじめて完成を見ます。
 したがって「純文学品評会」は背中側からの眺めを報告する場です。半面しか塗られていないスタチューのもう半面を塗り直すようなもので、依然として肝腎なことは、作品から作者がどのような反作用を受けて――読者からの報告をえてさらに立体感をまし加えた作品から作者がどのような反作用を受けて、現実の意味を変更してゆくかです。

2件のコメント

  •  突然のコメントにて失礼いたします。

     この度自主企画に参加させて頂いた折、こちらのノートを拝見させて頂き大変興味深いご意見でしたのでご挨拶申し上げました。
     本文でもおっしゃられている「純文学とは何かが分からないのに、純文学を書くことはできない」とのご指摘は的を射ており、純文学としての定義や規範というものが定立されるべきだろうと確かに思われます。もっとも、全ノートでも掲げておられます要件や、私自身これまで他の論者による純文学の定式に接しても、どうにも腑に落ちない感覚を覚えることが多く(おそらく要件自体に論者ごとのばらつきがあるためでしょう)、一方要件によってジャンル分けするというのは他ジャンル(推理小説、SFやら)にも見られるものですから、したがって自身の柔軟性の欠如かと省みていたところです。
     本ノートを拝見して一番に抱いた考えは、(朝尾さまが意図されたものでないかもしれないという点にご容赦頂くと)純文学というものがスタイルというよりむしろ思想・イデオロギーに近いものだということであります。
     もちろん本文のご指摘の通り文体という外観が用意されていることは、純文学として高く評価されるべきものであるでしょう。一方で本文で繰り返し強調されているのは純文学全体を俯瞰・確認することの重要性であり、また同時に「自分自身の理想」、いわば個人のアイデアに淫すること、作品における個人主義の先行や独善を批判しておられると解釈するところであります。
     自分の理解では、ここにいう「純文学」で求められるものは、おそらくスタイルといった外見の遵守より先にまず文学というものの発展の歴史を尊重しているかどうかであるように思われます。文学といったひとつの文化の過去や伝統への造詣なくしてスタイルの模倣は成らないということでしょう。そのような観点からみるとスタイル・要件の定立というのは、武道や芸事などの「道」における反復修練、あるいは禅宗の座禅のように、形から入り本質を掴み取ろうとする営みに近しいと考えます。
     加えて文学そのものの持つ歴史、現代を生きる我々からしてまったく縁遠い彼らへの敬意といった態度は、ちょうど「5)文学はなぜ承認欲求や自己顕示欲の産物ではないのか」でも述べておられます「他者の精製・関心」に繋がるものと推察することもできます。
     前段のイデオロギーという表現につきましては、手前味噌のようですが純文学に対して期待されるこれらの姿勢というものが「保守思想」とパラレルに考えられるものだと思い至ったためであります。すなわち古典的保守思想の観点に立てば、彼らは「更地」の上の存在(ホッブス的にいえば自然状態、いわば人間の裸の本性、理性ですが)というものから始まる思弁的手法に信をおかず、実践感覚や蓄積された経験を重視し、既存の権力・政治体制への一定の依拠を要求するように、純文学もまた言語という歴史的道具に対して畏敬の念を抱き、その文脈の連続性を重視しているように感じられます。
     言語・文字というものはこの点まさしく人間により発明された道具であるからして、裸の文字そのものに価値や意味を付与するものは道具として使用する人でありまたは文脈であり、その積み重ねである歴史そのものであるでしょう。本文における純文学のあり方というものは、言語というものが一層自由かつ拡散的に用いられる現代に対し、言語・文字の生来的性質を踏まえその限界を確認しながら、枠をはめ定義しようとする「逆風」的な力強い試みとして受け取らせて頂きました。

     長文・駄文になり恐縮ですが、上記の個人的な理解が本稿の趣旨に沿っているかどうかはともかくとして、大変参考にさせていただくべき興味深い、刺激的な論説でした。深く感謝申し上げます。
  • 三月さん

     はじめまして。朝尾と申します。
     ちょうど僕の叙述を、全く異なる言葉を用いながら、鏡写しのように叙述し返してくださいました。とても気持ちのよい切り返しであり、おかげでこのノートは受け手のいない領野を真ッ暗三宝にさ迷わずにすみ、救われたように思います。御礼申し上げます。
     純文学がスタイル等、外形的特徴によって判断されるものであるよりも、むしろ思想・イデオロギーに近いというのは、全くその通りであります。そしてその思想・イデオロギーは須らく歴史に紐づけられて考えられるべきだというのも、全くその通りであります。

     個人的なイデー … スタイル < 全体的なイデー … 歴史

     キリスト教会の司牧のあり方を僕は参考にしております。
     キリストの父なる神、というイデーを把握することが教会の目的です。しかしイデーはつねにひたすら「思惟せられ信ぜられるべきもの」であり、イデーが形や質量をともなってこの世に現れることはありません。十字架・宗教画・彫刻・聖遺物はいずれもイデーそのものではありません。

     個人的なイデー … 宗教芸術 < 神のイデー … 聖書

     イデーそのものを押戴きたいが、視認可能な形で行なうことはできないので、代わりに聖書を押戴きます。
     なかでも純福音という教派は、「証し」の時間を主日礼拝ごとに持つらしいです。平信徒が自分の上に主が働かれた時の体験を語り、≪我々の間に≫主がおられる、という共通認識を醸成することが目的です。≪自分の上に≫働かれている主が≪あなたの上にも≫働かれているという認識は、独善的なイデーに耽ることを防止し、イデーを≪我々の間に≫置き直します。証しの言葉に独善的な兆候が見られれば、司牧者が諭しに入ります。
     終末は近いとされた一世紀ごろの初代教会の信仰は、現代においても信仰の手本とされます。初代教会の使徒たちが書いたとされる書簡が、数多く正典に収められているのは、それらを通して、後代の人らが神のイデーを正しくのぞき込むためであります。

     神のイデー - 純文学のイデー
     聖書 - かつての作品群
     証し - 純文学の全体像を述べること
     宗教芸術のスタイル - 執筆のスタイル

     お察しのように、僕は至極単純なことしか述べておりません。
     ≪枠をはめ定義しようとする「逆風」的な力強い試み≫とありましたが、ここにあらためて注意を促しておきたいと思います。
     僕は≪枠をはめ定義しよう≫とは全く以て述べておりません。純文学の要件を揃えよう、という大それた試みの手前に踏みとどまっております。要件を揃えることは到底望むべくもないから、まずは共通のものを押戴こうではないか、直接的に歴史(=聖書)=かつての作品群を押戴いて、間接的にイデーを押戴こうではないか、と述べているまでであります。
     某が「私は神を知った」と言いました。しかし某は一度も聖書に触れたことがありません。どうして某が抱いた神のイデーが「キリストの父なる神」であると同定することができましょう。よこしまな異教の神であるやも知れません。
     我々が押戴いているものが同じ純文学のイデーであることを外形的に確認するには、まずめいめいがかつての作品群を押戴き、ついで要件を示して、少なくとも、たとえ要件は違えど、同じかつての作品群を押戴いていることを確認することをもって、それに代えられるのでないかと思うからであります。

    〇何かわからないことをやっていると言うことはできない
    〇個人的なイデーのみを述べると、分裂する
     身勝手な神概念をのべて教会が異端者だらけになる
    〇純文学の歴史を概観する
    〇純文学全体の要件(歴史認識)を述べる
    〇要件(歴史認識)を述べることにより、少なくとも、歴史は共通であること及びその歴史にある程度通じていることをお互いに確認する
    ✕要件(歴史認識)を揃える

     さしあたって、お互いに歴史を認識していることを確認できればそれで十分であり、それ以上を求める必要はないと考えております。

    ✕スタイルで示す
    〇要件で示す

     また、スタイルのみで示しますと、自作を指さして「これが私の純文学だ」という言明が出てくるでしょう。しかし純文学は到達不可能なイデーである(したがってかつての如何なる作品も純文学というイデーそのものではありえない)とここでは理解しますので、つねに「あの」「あそこの」などという遠称を伴なって指さす必要があります。
     「純文学は私に先行している。ここではなくあそこにある」という宣誓を、お互いに要件を示し合うことで取り付けることができるのではないかと考えます。

     それにしても、
    ≪形から入り本質を掴み取ろうとする反復的な営み=スタイル・要件の定立≫
    という表現はみごとであります。僕自身の経験をもずばり言い当てられたような、図星を突かれたような感じがします。本質を掴み取ろう、の一言はちょうど、読者に訴求しよう、というフレーズと著しい対照を示しています。まことにその通りです。
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