6位 ちいさな帰還/三月
難読。
誤読の可能性が大きいが、一応、評者の目に見えてきたところを報告する。
評者はカタヤマ・ヒロ=僕として読んだ。起点となるのは駅と喫茶店。この二つの場所は、冒頭と終盤の二度にわたって現われる。とくに、冒頭の喫茶店と終盤の喫茶店を、一闋の場面を分割して描いたものとして読んだ。
交差点を急いでわたるカタヤマを、喫茶店の店内から眺めているのはカタヤマである。厳密には、(披露宴あとのお祝いをかねた)新校舎見学後のカタヤマが、新校舎見学前のカタヤマ自身の《幽霊に似た影(今の人影)》をつかのま目の端にとらえている。カタヤマが新校舎見学に参加したのは、同窓の《彼女》とこれをしおに再会するためであった。が、《彼女》は新校舎見学に僕=カタヤマが来ていたことにも気付かなかった。見学が終ったころを見計らって《彼女》と喫茶店で待ち合わせたが、そこで《彼女》が宮下と交際していたことを打明けられる。
《途中でブローチの彼女と彼女と話していたもうひとりに久しぶり、と声を掛け、二人はともに含みのある、きっと単に上手くないだけの微笑みを返してきた。》と、
《久しぶりというと彼女は口角を上げた。次に彼もその真似をした。だからぶっきらぼうに見えてもあれでちゃんと喜んでると彼女はどこか自慢げにそう言った》という記述からこのように読んだ。
学校の同級生の披露宴当日。披露宴に呼ばれていない面々は、披露宴を終えたあとの新郎新婦がかつて共に机を並べた教室に来るのを、今か今かと待っている。僕=カタヤマは、同級生だった筈の新婦が誰なのかも把握していない。いちばん仲のよかった宮下につれられて、化学実験室におもむき、そこでこれから新郎新婦を前に、スクリーンに大写しにされるであろう《オープニングムービー》の試写に付き合わされる。
新郎新婦を急劇に近づけたのは、新婦がまだ看護学校の学生をしていて、研修先からの帰途、モールの駐輪場で覆面の男二人に襲われたとき、たまたま新郎からの電話が鳴ってとっさに彼に通報を依頼し、難を逃れたという一件だった。ところで、ここに永々と挿入されている《カタヤマという名のその少年》が自転車に乗って遠出をするという話は、おそらく、実際にスクリーンに投影されているのではなくて、僕=カタヤマの脳裡においてのみ投影されているのではなかろうか。新郎からの通報をうけてモールに駆けつけた巡査のうちの一人に、僕=カタヤマはそういえばきつい調子で声をかけられたことがあった――こういう想起をかなめにした、僕=カタヤマ自身による万華鏡の投影ではなかったか。
すると、僕=カタヤマが喫茶店を出て《彼女》と別れてから、あらためて《海に向かう》ことを期したのは、学生の頃、自転車に乗っての逃避行の終着点であったあの《ひとまず自転車を預けて》きた海にもう一度立ち帰るためではなかったか、と考えられる。
――
非常に読みづらい。
・誰なのかが明記されていない。《彼女》が誰なのかもわからない。語り手が誰なのかさえ明記されていない。
・店、駅、坂など、そこを起点として何度も場面が展開されている重要な場が、抽象名詞でもって指さされており、見過されやすい。
・読点が節約されており、またそのせいか知ら、大事なことと大事ではないこと、重大事と瑣末事とが同じ継ぎ目のなさできびすを接し、同一面、同一の旋律に埋め込まれている。したがって、主旋律がいずこにあるのか判然としない。
・鍵括弧がない。
・《路線》とだけあって、人はただちに《バス》を連想するか?
・化学実験室で映像を下見していた筈なのに、なぜ見終わったとき二人は体育館にいたのか?
・体育館の裏手にまわり込もうと、非常口を出た先がなぜ駅のプラットフォームなのか?
――
《しきりに開閉する自動扉》、吐き出される人たちと、何度舌で挵っても歯間にはさまっていてとれない昼食の残滓、という、見えているものと口もとの感覚とのシンクロは見事。
また、試写が終ってからの宮下の発言は、小説の構造自体を小説内において批判するメタ発言にも聞きなせる。
(以下、訂正案)
今の人影はついぞ見間違いだ→やはり見間違いだ
壮大たる敷地→壮大な敷地
右手に海を構えた→右手に海を控えた
被りを振った→頭(かぶり)を振った
まあ会おうといい彼女と別れた→また会おう
7位 雪原の煙/100chobori
狩猟をなりわいとする少年が、尾根近くに居を卜している。なぜ麓に住まないのかはわからない。麓に住めないいわれがあるのかもしれない。
貨幣経済の余沢が遠く及ばない山里。少年の得物は猟銃ではなくて弓。しかし秋冬から春先にかけて、猪が一頭獲れれば、当分食うには困らず、雪室があるのだろうか芋の蓄えで通年をすごすことができる。物が欲しければ、余計に仕事をする。そんな物々交換の時代の仕事のありようが描かれている。
少年はあじけのない芋を今日も煮ながら、ぐつぐつ煮えてくる鍋の底で笑いころげている芋たちの様子をみて、食欲ではなく、入浴の欲求をおぼえている。食べ物よりも住環境の方に関心が向かうところに少年の特徴がある。
少年は風呂に入りたさに、自分で食べるわけでもない猪を三十頭狩りはじめる。弓の扱いは日に日に巧みになって《猪を仕留める間合いはさらに濃密なものになった。》ところが三十頭を仕留め終わって、ドラム缶ほどもある大きな鉄の鍋を尾根近くの住まいまで運び上げる道すがら、猪に襲われて右手を負傷し、入浴中うかつにも裸体をさらして雪原に下りたところを、またもや猪に襲われて絶命してしまう。
鼓動、上がる血しぶき、猪の蹄の音のリズム、山道を踏み分けてゆく跫音のリズム、雨が氷をまじえやがて雪にかわるまで白屋の壁を打ちつづける軽やかなリズム、など、しきりに少年の体内に脈打ってやまないもの、ホメオスタシスと外界の自然とが同期している場面が見られる。
――
全体がかすんだような、うらさびれた印象。葉を落した条枝のひしめく冬山が舞台であるからだけではない。論理的に動きがぎこちない。
もう少し、その状況に即した言葉があるのに、それを使っていないように思われる。たとえば、《血と錆で赤茶けた槍を先に付けた矢を弓に合わせ》は《血と錆で赤茶けた鏃をそのままの矢を弓に番え》とできる。《右手が後ろの木の枝に当たり》とあるが、当たっているのは《右の肘》ではないか。《ゆっくりと右手で弓を引き》《右手を後ろに引っ張った》の《右手》などはとくに力感がこもっていないので《貝殻骨をひらいてきりきりと引きしぼった》などとしてもいい。《矢はまっすぐ猪の胴体に突き刺さった》《猪は僕の体を前足で踏みつけながら》《僕の体から吹き出る血は》における《胴体》《体》も具体的にどこなのかがぼかされている。ために画面の抽象度が高い。すべて平易な言葉から複雑な場面をつくり上げようとしても限界があるだろう。
全体を通して接続助詞「と」の用法が気になる。《Aが――すると、Bが――した。》《Aが――すると、――した。》という形が多い。「と」は主に「…とすぐ/…すると同時に」という意味だが、本編では継起する時の関連性がうすい場合がある。また、ただ単に二つの動作を並列させるときにも用いられており、「と」を「時」に置きかえた方が適切な箇所もある。いくつもの論理性の微妙なちがいを「と」という言葉一つですませてしまっているのが、粗さの印象につながっている。
(以下、訂正案)
裏打ちした→裏打ちされた
両手両足→前後の肢
赤黒く渇いて→赤黒く乾いて
今日みたいにもらってきてばっかり
狩りを覚えてばかり
もらってきてばかりの芋の皮→…たばかり
繰り返しのリズムは少し位の間違いになら→繰り返しのリズムの、少し位の間違いになら
使い続けてきたものよりも段違い→使い続けてきたものとは段違い
猪がその光を捕らえた→猪をその光が捕らえた
目を反らす→目を逸らす
とっさにかわそうとしたが、僕は右腕を噛まれた→とっさにかわそうとしたが間に合わず、僕は右腕を噛まれた
8位 100Mbpsの孤獨/藤井 鋭
あまりいいとは思わない。
ポエティックに仕立てている点では《高校のころの友だち》と何ら変わりがない。《わたしってなんだろうな》《わたしって何者?》という問いに真剣さは感じられない。
この掌編自体が、自己演出のポエムに冷たい一瞥を加えていそうに見えながら、実はその対をなしているにすぎない。仮面が飛び交っている空間を見下ろす位置にまで高まったまなざしが、永く留まれずに「わたし」のもとに降りて来て、「わたし」を酔わせる酒を醸しているにすぎない。寒空に高まって行って"素面になる"のではなく、"酔う"ことが目的で一時批判的(素面)になっている感がある。あるいは「酔いのなかで自分だけは醒めている」と詠んでいること自体が一種の酔いに他ならないような――ポエムを批判する文章自体がポエティックであるという――パラドキシカルな循環に陥っていると言える。であるから、自己演出に辟易しながらしかもその様式だけは踏襲している対句表現にすぎない。つまり自己演出するグループを向うに回さなければできない自己演出の一種だということである。
9位 沈黙と姉/八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
雰囲気はあるが、腑に落ちない点が多い。
一審、二審の経過がわからないが、最高裁においてなぜか原審に紐づけられることなくいきなり主文が有罪判決に及んでいる(控訴審、上告審の判決には棄却/原判決破棄の二つしかない)。もし高裁の下した死刑判決が支持されるなら、上告は棄却されていることだろう。またもし高裁の下した懲役刑判決が覆されるなら、最高裁は破棄自判せずに高裁へ審理を差し戻すだろう(最高裁は法律審であり事実じたいを争う場ではないため、差し戻さざるをえない。また、仮に破棄自判が行われたとしても、下級審が積み重ねてきた事実認定だけで判断できる場合であり、且つ、判断を被告人にとって有利な方向に変える場合に限られている)。第二審の何を不服として、被告・検察のどちらが上告したのか。単に地裁とすべきところを書き誤ったのか。
「私」は被告・荒木田の手にかけられた元夫の遺族として傍聴席に列なっている。荒木田は後回しにされる主文までを粛々と聞き終えて退廷する。「私」と荒木田との接点は元夫だけではない。14、5歳の頃熊に襲われて亡くなった「私」の姉の同級生であり、現場を最初に発見したのが荒木田だった。その姉の葬儀に参列してくれた荒木田の、当時の少年の面影を、退廷してゆく男の横顔にかさねて「私」は見ている。
雪の日。食い荒らされた姉の亡骸の上に雪の”静寂”が落ちていた。これを見て荒木田は、静寂が生をも死をも公平に領していることを会得する。それから真ッ白な雪の上に散乱していた真ッ赤な姉の体の各部位をあつめて、今まで着て来た雨具に包み、それを自分の胸の前で、だっこするように抱え込んだ。姉の《項垂れた頭の重みを肩で感じ》つつ山道を下りて行った。どうやらそうして荒木田は、荒木田に内緒で他の男とも関係していた姉の罪の重さというものを、胸で量っていたらしく思われる。荒木田は長じて多くの殺人を行うが、それはまるで荒木田が自ら莫大もない罪を抱えこんで重たくなりたがっていたかのようである。まるで抱きかかえた時の姉の亡骸の重さに、憧憬を抱いていたかのようでもある。
とはいえ、"静寂"が生死の上に等しく臨んでいることから、どうして殺人を思いつくのか。《とても公平に人を殺した》とある。静寂もまた公平である。荒木田が”静寂”そのもののように振る舞いたいのであれば、"静寂"が人を生から死へと追いやらずに傍観しているように、荒木田も傍観していればいい筈である。また、最初荒木田の犯行の手口は、幼い子供が《足元の虫でも踏みつけるかの如く》何らの思想的色彩を帯びない気まぐれなものであった。だがそれが、発覚していないだけですでに罪を犯しつつ生きている者へと、標的が移ってゆく。この経過が、ひとり"静寂"に呑み込まれたという事案だけでは、説明できていない。《遺体なき殺人》についても、字面に一度あらわれたきりで、何ら具体的に描写されていない。
――
「――、そう、――」という言い回しが、何を念押ししているのかわからない。
《「極めた」。仏とは。経典とは。人間とは。》とあるが、何を極めたのか。
《広大な面積に点在する集落》とあり、実家近くは山が深そうなのに、なぜ実家暮らしでない大学生が近くのアパートに住んでいるのか。
《その罪を考えながら。/いや、罪というものを考えていたのかもしれない。》とあるが、これだと「いや」が何を否定しているのかわからない。そもそも罪とは何か、ということを考えていたのか?
――
彼の実家は……三男坊であった。→文意不通
長男は厳格に育ち、やがては寺を継ぎ、→長男はやがて寺を継ぐべく厳格に育てられた一方、
近道である片道一時間以上の→片道一時間の余もかかるがそれでもまだ近道の
顎がぞげ落ちた顔面→そげ落ちた
「静寂」は。生にも死にも。唯一、公平なのだと。→唯一、が文意不通
忸怩たる→「残念、遺憾、憤ろしい」という意味ではなく「自ら恥ずる」という意味であるから不適
彼の罪を根幹は、→彼の罪の根幹は
10位 天の栫~宵待ちの螢~/熊掛鷹
描写=客観性が不完全である。このことがいかに、作者の中に、表現されなかった像(イマージュ)が残存していることを物語っているかが、よくわかる好個の例である。
目をつぶっていても、"自分が"頭を俯けたり、"自分が"手のひらをこすり合わせたり、"自分が"うんと一つ腰を伸したり、"自分が"しゃがみこんだりする、という動作は記述することができる。主観からは主観自身が動作しているさまを、鏡を介しでもしなければ、自分の手許よりほかに見ることは能わないが、にもかかわらず主観自身がかくのごとく動作していることを確信している。いわば内的感覚の確信に基づく記述である。そうした盲目の内的感覚からの類推で、他者が動作しているさまを、主観が像(イマージュ)として思い浮かべるから、作品世界のなかにあらわれる人物のすべてが一つの内的感覚によって統握され、動作させられる。作品という胎内においてすべての人物が同一の感覚神経につながっている想定下で、作品自体が思い浮べる盲目の像(イマージュ)にしたがって人物が動作しはじめる。この人物たちを動かす神経(操りの糸)は作品自体のそれである。するとあたかもすべての動作に"見られている"という側面が欠落する。なぜならすべての人物が盲目であるから。且つ、主観自身もまた目をつぶってこれを思い浮かべており、盲目であるから。像(イマージュ)の世界にはこれを見返すまなざしが具わっていない。
像(イマージュ)のなかで、盲目の主観が、自分があたかも動作しているかのように他者の動作を内部から規定するとき、そこにはもはや動作の記述(内的感覚への確信)しか残らない。他者の動作がどう見えているか、という側面が欠落するのは、他者の動作をおのれ自身の動作として動作しているからであり、ここでは動作しているおのれ自身の外貌が欠落することの必然性に等しい。
自己親和的な像(イマージュ)の世界において他者をそこにすべてがつながっているところの内的感覚から引きずり出し、言語表現において揺曳する像(イマージュ)のあいまいさから他者を救い出すこと――きちんと外貌を具えた他者の外化と固定――、そしてその後は像(イマージュ)の世界に対し名残惜しい一瞥をも与えないという意識上の操作が必要だろう。
動作が外貌を欠いているばかりでない。物と物とのあいだには距離感が欠けている。
《灯籠の油は細く、杉の呼吸は深い。》
どこにある灯籠を指しているのか、どの株の杉の梢の呼吸が深いというのか。もし《杉》というのが、あたりを覆っている杉叢の茫漠とした総体を指して言っているのだとすれば、勢い、《灯籠》という言葉までが、灯籠の茫漠とした存在感を指していることにもなりかねない。物を「俺」の目を通して見ている感じがきわめて稀薄である。物が一定の場所を占めていず、普遍的に漂っている。それは《揺れる》という表現があまりに多用されていることからも窺える。香煙、蠟燭、山、月、枝、影、風、石畳、法衣の裾などが、前後のわきまえもなくただ漂っている。どちらがより近く、どちらがより遠くにあり、近くにあるにしても手の届きそうな近くにあるのか、そうでないのかが全くつかめないのは、要は「俺」の手もとすら髣髴として浮かんで来ないのだから、当然である。
中心概念がややもすると比喩化してしまっている。「祈り」「灯」「語り」等の概念は、社会通念上のそれらにはない独特のニュアンスを含んでおり、本作におけるthematicな中心概念である。しかしその中心概念を比喩に用いるとどういうことになるのか?
直喩はふつう、喩えるものが、喩えられるものよりも既成概念の色合いが濃く、その誰でも聞けば同じものを思いえがくだろう歴史的な同一性に依存している。しかし、中心-周縁という関係性から見れば、焦点化されている喩えられるものがより中心に近く、喩えるものは、それ自体他の修飾をうける必要がないという意味で、周縁に位置する。喩えられようとするものは、できるだけ多くの他の概念との境を接して多角的な被修飾の機会を得ようとするため、中心に移動すると考えられる。喩えられる必要がない単純なものであればあるほど、周縁のなかでもより外がわにそれは位置づけられる。つまり、本来であれば中心に位置しもっとも被修飾的である筈の(「祈り」等の)言葉が、外がわにむけて比喩的に働きかけているのだ。これにより、中心にあったはずのものがその周囲にあるものの譬えに用いられて脱中心化し、中心概念の空洞化を引き起こしている。そこに向かってすべてが殺到する修飾-被修飾の関係の頂点――もっとも修飾をうけるべき中心概念が、外を志向することによって、みずからの求心性を打消している。これはテーマの消失を意味している。
この小説は、「祈り」という言葉をしばしば比喩に用いることによって、テーマを喪失しているのではないか。
――
※追って加筆する
※順位は2026年01月17日まで暫定的に変動します。