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【自主企画】第二回寸評(Ⅰ)

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【エントリー】作品名/作者名(敬称略)
1〇雪原の煙/100chobori ≪卒読≫
2〇決死、花咲き乱れども/ノエルアリ ≪卒読≫
3 記憶の喫茶店/榊
4〇セイレーン/柚 ≪卒読≫
5〇リストカットの神様/蒔文歩 ≪卒読≫
6〇瞼と宇宙/サン* ≪卒読≫
7〇ちいさな帰還/三月 ≪卒読≫
8〇渦をまいた湯葉ののった青皿と小魚たちの踊り場/かいまさや ≪卒読≫
9〇沈黙と姉/八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)≪卒読≫
10〇短夜に生きる/十余一(とよいち) ≪卒読≫
11 天の栫~宵待ちの螢~/熊掛鷹
12 梨子割(なしわり)/つるよしの
13 琥珀色の海/酒囊肴袋
14〇100Mbpsの孤獨/藤井 鋭 ≪卒読≫
15 ミゼラブル・アンリ(原題:金色の春)/沖 夏音

-/★/★★/★★★(四段階評価)
10作品/平均点1.2

★★★

★★
1位 渦をまいた湯葉ののった青皿と小魚たちの踊り場/かいまさや
 梅雨明け間近に風邪を引いたのだろうか。「私」は納屋の二階に住まっていると書かれているが、もしかすると風邪がうつらないように隔離されているのかも知れない。
 すでに七月の半ばか、何となく窓の外が青みがかっていそうなうそ寒い印象をうける。外が雨とは一言も書かれていない。何ものかが屋根をほとほとと、次第にせわしなく音訪ってきていて、それで目が覚めた。何となれば、音がするだけで、実際にその姿を目にしてはいないから、雨と表現するには不適というわけだ。その音が結ぶ影像は、ぴちぴちと撥ねる魚鱗であり、丸まっちい紡錘形をした稚魚の群。トタン屋根の上に水揚げされ、勾配をすべって、軒下に落ちてゆくさまに異ならない。
 無聊をかこってラジオの抓みをひねると、聞えて来たのは最初は明瞭な人語であったが、微睡のあいだで不明瞭ながさついた音に変る。音が結んだ魚という影像が、夢の中では群をなして、一本の銀色の襷のように青い海にひらめく鰯の大群となり、それが青い皿に渦を巻いている湯葉の印象へと翻訳されたのだろうか。ラジオの音が円卓中央の回転台をひきずり回す音に化けて出て、湯葉ののった皿を遠くへ運び去ってしまう。
 熱に浮かされた身のまわりの寂しさを、想像の豊かさが埋めに来た体験が叙されているように思う。憾むらくは本文が短いことである。
 人間的尺度が解体されてしまったあとの言語のような使われ方をしている。人体の寸法に合わせてドアが設計されるように、言語も人間仕様の筈だが、まさにその尺度を失ってしまったかのような、非中央集権型の言語の使われ方だ。人間的でないことのために人間的な言語が使役されるにあたって、まるで寄生地主が解体されて小作農が大勢生まれるように(言葉がそれ本来の持主のもとへと償還されるように)言語が細分化されて、不馴れな未踏の地を埋めるべく軮掌している。
――
蝉たちがかなりはじめた→がなりはじめた

2位 リストカットの神様/蒔文歩
 一文々々が短くて、まるで、水を一度掻くごとに首をのけ反らせて息継ぎをしているかのような乱調子。口語に近く、小説の文章としてなっていない。
 リアリズムは口語体をもって現実の転がりの捷さを模すことではない。文章はテンポの表現に向かない。テンポを表現しようとしているのであれば、映像を意識しすぎている。映像の下位互換であり、文章独自の表現の領域を開いているとは言い難い。
 生から解放されて窓外に身を乗り出してしまう少女を描くかたわら、計らずも彼女を生から解放してしまった同級生の苦悩が伴走しているという対位法的な構成は評価できる。さらには群がる蜂の、どこからともなく響いてくる低音のような女子生徒らのおしゃべりが、ひときわ低く、変わらぬ調子で流れつづけている。彼女たちが泣いたり笑ったりすることに、生物学的な意味以外のいかなる意味もないが、その無意味なさわがしさが確実に二人の相異なる少女の神経を蝕んでいる。
 自傷を欲するにいたる心理を描けているか? 本作はそれへの多少の手引きを示しているように思う。しかしながらこれが純文学であるならば、そこを追究せずにはおかないであろう。
 成長段階のみずみずしい皮膚こそ、自傷の餌食になりやすい理由がわかるような気がする。何となく傷を誇りたい年齢ではある。成長に対する否定の意志、あるいは成長そのものに対する恐怖というものを各々がおぼえていて、それを各々ちがった仕方で解消させているのではないか、とも考えられる。
 また、自室で麻縄がちぎれてまたしてもこの世に転落した少女が、母親でも教師でも生徒でもない何者かに向かって叫んでいる。とりわけ少年少女は、与えられた環境から飛び立つこともならず、与えられなければ生きることはできないが、与えられることによって殺されてもいる。そのことを本能的に感じている。それがよく表されているように思う。
――
 冒頭、《少女漫画のヒロインには程遠い地味な見た目》とある。人生に先立って漫画があってしまい、漫画が何かしらの指標を人生に与えるという構造が、現代の異常性である。なんとなれば、人生に先立って何かしらの指標を与えてきたのは、嘗ては純文学であったからであり、純文学は漫画が人生に先立っていることを批評せねばならない。しかし本作ではこの構造を受け入れてしまっている。にもかかわらず本作が純文学であることなどありうるのであろうか?

※順位は2026年01月17日まで暫定的に変動します。

20件のコメント

  • 亜咲さん

     重要文化財に指定されている茅葺きの家屋が、大風のせいで損壊しました。見かねた人は、「茅葺屋根」という看板を掲げている屋根やを訪れました。ところが、工房に入ると、スレート葺きのための石板しか置いてありません。
    「茅葺屋根、直せますか?」
    「うちはたしかに”茅葺”をやっているけど、あそこの屋根は直せない」
    「どうしてですか?」
    「古いから。でも古いものを尊重し守ってゆくことは大事だ」
    「古い…でも仮にあたらしい茅で葺くにしても、そもそも御社、スレート葺きしかやってませんよね。どうして”茅葺屋根”なんて看板を出してるんです?」
    「うちのスレート葺きは”茅葺屋根”だからさ」
    「……はい?」
    「芸術的な葺き方で、みんなを感動させる屋根だから、そういうものはみんな”茅葺屋根”なんだ」
    「……」
     こうして茅葺の家屋はどんどん荒廃していきました。

     茅葺屋根が茅葺屋根であるために、純文学が純文学であるために、踏襲-批評-発展は譲れないところです。
     そして、純文学には何が必要か、ですが、御作「炎天下の化け物」でいえば、嫁姑関係に義妹をくっつけて異化しているところが純文学的だと僕は思いました。三者の関係が物語のためにひっぱり出されてきた、というより、それ自体を描くこと、且つ、典型的な嫁姑関係の外側を描こうとしている感じがありましたので。
     概念の通貨的交換をもって、スムーズに話を展開するのが”物語”であり、概念の外側(一般的な理解の外側)を描こうとするために場面が渋滞しがちになるのが”純文学”だというのが、第一回品評会でもちいた物差しです。僕は「炎天下の化け物」のなかにはそういう要素があったと思っております。

     品評会は3年先までゆるゆる続いてゆきますんで、いつでもご参加ください。で、「朝尾、さすがにそこちゃうやろ」っていうところがあったら、ズバズバ指摘して下さいっす。
  • 亜咲さん

     第一回にひきつづきご参加いただき、どうもです。参加に際して改稿もされたということで、どう変化したかについても着目したいと思います。

     かいまさんは「自分のための文学について」再考を促されたかもしれませんが、僕はそれと同時に「歴史にかんがみて文学の共通項とは何か」を考えることが大切だと思います。個人的な文学について語るのはともかくも、全体的な文学について語るには、多くの作品にふれつつ"自身の嗜好・好尚を一旦おさえて"その共通項を抽出してくる必要があります。

     僕が「純文学とは何か」で書いた要件も、やはり歴史から抽出してきたもので、個人的嗜好によらないかなり大本の部分にしか触れていません。

    「自分のための文学」のみを語ると、早晩「自由」「人それぞれ」という個人主義的散開に行き着く危険を相変わらずまぬかれませんので、「自分のための」と「全体の」文学を同時に語れるようになれれば、よいかなと僭越ながら思います。
  • 初めまして。まだカクヨム初心者なので拙い文章かと思いますが、短編で参加させていただきます。

    10月23日朝に投稿予定の作品「瞼と宇宙」での参加です。

    みなさまの作品も読むのを楽しみにしております。
    どうぞよろしくお願いいたします。
  • サン*さん

    はじめまして。朝尾です。
    なるほど「いいね!」ボタンを押してから、作品を登録するっていうパターンもあるんですね。先に「いいね!」ボタンを押されている方も、そういうパターンなんでしょうかね。

    ご参加お待ちしております。で、ぜひ他の方々が書いた物を読み比べてみてください。
  • はじめまして。

    初めての短編集です。
    よろしくお願いします。

    尚、アマチュアで文章は拙いですが、よろしくお願いします。
  • 私の作品は何処が駄目だったのでしょうか?
  • 無視しないでください!
  • もう結構です!
  • 辛島さん

     はじめまして。
     返信が遅れましたこと、お詫びします。
     エントリー作品は現在13作品で、手もとのメモにお名前を控えております。時間の合間をぬって順番に読みはじめたところです。いずれ辛島さんの作品も拝読する流れになっておりました。
     第一回品評会におきまして、参加作品の多くに寸評を書きましたが、必ずしも参加者の皆さんから何かしらのコメントをいただいたわけではありません。そういった具合に、作品を置いて行ってくだされば、2025年12月31日までには寸評を書いておきますよ、さながら《オートマティックに》と断ってあるとおり、ちょっとドライなコンセプトでやっております。
     ご理解いただきたいです。
  • 朝尾さま

    こんばんは。お世話になります。
    当方、エントリーを取り下げておりましたのに、昨日はわざわざ拙作にほしを付けに来てくださり、まことにありがとうございました。

    私は純文学とはまったく縁がなく、当該作も純文学ではないと確信しておりますが(従ってほしはゼロと想定しておりましたが)、意外な高評価に驚くとともに恐縮しております‥‥‥
    ちなみに朝尾さんの三要件や解体、異化等、当方にはちんぷんかんぷんでした。

    そんな奴がなんで来たのかといいますと、ちょっとした好奇心でした。
    どうも失礼いたしました。

    それでは。
  • 文鳥さん

     なるほど。
     興味本位で立ち寄ってはみたが、展示してある文学についての説明書きが、読んでも"ちんぷんかんぷん"なので、匆々に途中退場したということですね。そうとは知らず、僕は文鳥さんの作品を拝読して、さあて、これからどんな風に書評を書いたらいいかと腹案を練っていたわけですね。
     文鳥さんはおそらく、僕をあなどっているわけではないでしょう。ただ、漠然と文学というものをあなどっている気持が、僕には伝わってきました。そのことが僕には悲しいです。
     僕が対峙しているものが、そうした漠然と文学というものをあなどる姿勢を隠さなくてよい、あからさまに態度に出してよいという雰囲気そのものだということを、あらためて認識させられます。
     雰囲気を可視化していただいた点について、お礼を申し上げます。
  • こんばんは。

    いささか行き違いを生じたようなので、私のスタンスを説明しておきます。

    まず作品を引きあげた理由ですが、貴企画が自主企画募集のパネル内に作品の順位を掲示するものであると気づいたためです。
    投入した時点で、これをうっかり見落としておりました。
    あそこはかなり人目に付く場所であり、すなわちカクヨムの中ではある意味「公」の場所です。
    そこに作品の順位を掲示するということは、いってみれば、学校の門の外に生徒全員の成績順を貼り出すようなもので、賛同できかねます。
    それで心苦しくも作品を引き上げさせていただきました。
    (作品の順位付け自体好みませんが、ノート内であればぎりぎりアクセクタブルと思い、出しました)

    それから、好奇心という書き方が良くなかったですね。
    以下説明させてください。
    最近、ある方のノートを拝読したときに、貴方の書きこんだ議論を見たのです。それで貴方のノートに飛んで内容を拝読し、非常に興味をいだいたわけです。ちなみに、既述のようにそこに展開される純文学理論は、何度読んでも理解できませんでした。
    一方、私が書いている作品は、ごく普通の一般文芸だと考えています。ですが私には私なりのコンセプトがあり、それは作品がなんらかの感情あるいは思念・思考を読者にもよおさせねばならないということです。そのようなコンセプトで書かれた私の作品を貴方が読んだ場合に、いったいどのようなことを感じるだろうかと、これまた興味をいだいたわけです。
    そのために純文学ではないと確信しつつ作品を出してしまいましたが、たいへん失礼いたしました。
    ちなみに投入した作品は、私自身はこれ以上のものは二度と書けないだろうと考えているもので、いままで~賞等の企画に出したことはありません。それを今回出す気になったのは、ある意味、カクヨムという場に殴り込んできた貴方に対するささやかな挑戦であったかもしれません。

    以上です。星は返上いたします。


    それでは。
  • 文鳥さん

     ご返信ありがとうございます。
     僕が文学について述べた文章がちんぷんかんぷんであった"から"途中退場された、というのは僕の曲解でした。正しくは僕が"順位の公表を自主企画募集のパネル内で行なうことを予告していなかったから"でした。これはたしかに僕の落度です。
     仰るように、低く評価された作品が、延々とその順位を掲示されつづけるというのは、いい気持ちがしないことでしょう。★2を下回った作品については掲示しない等、やり方を変えてみたいと思います。
     また一方で、★の積算が作品名とともに掲示されている以上、当企画はもう一つ別の評価軸を生み出すことになり、クロスレビューとしての性格を帯びます。成績表を門前に貼り出すというたとえは、★という成績表が公然と貼り出されている現状からして、今更感があります。
    ――
     "ある方のノート"をきっかけとして僕の方に興味をもっていただいたとのこと。やはり書き込んだ甲斐はあったのかもしれません。そして僕が御作に対してどのような反応を示すのかにも興味をもっていただいたわけですが、興味をもった僕のノートを"ちんぷんかんぷん"と言ってみたり、どんな反応を示すのかと興味をもった僕の反応を、確かめる前に途中退場されてみたり、と、なかなか忙しいですね。
     挑戦と言うからには、ちゃんと反応を確認してからにしていただきたかったですが、仕方がありません。
  • 亜咲さん

     お気遣い、痛み入ります。
     順位付けについて、僕の他に評者がいれば、結果は全く変わってくると思います。ほんとうは複数の評者の採点から平均を出したいところなのですが、その場合は必ず「純文学の定義」「評価基準」を明確にした上で「すべての作品に寸評をつけること」までをしていただかないと、品評会の本旨に悖る気がしており……ちょっと骨が折れますんで。一応、協力者を探しておりますが、まだ構想の段階です。
     《上位にいる》と思われた作家が実はそうでもなかった、なんてことが、複数人体制でやれば起こりますんで、そっちの方がおもしろいと思うんですけどね。
    ――
     自衛官、警察官、官僚は国家というものを強烈に意識しているのではないか、と僕には思われます。その身を挺する国民国家というものが、つまらないもの(まして自分たちに唾を引っかけてくるもの)であってはならないので、勢い、国家に紐づけられた思想が育ってくるのではないかと思われます。
     僕の場合は、異文化に触れたとき、自分の国というものをいやでも感じさせられました。自国のありかたに対峙するというよりも、他国に対峙するにあたって、自国のありかたに向き合わざるを得ない、と言った方が剴切かもしれません。
     僕は外国に対するコンプレックスが人並みにありますんで、異国で自分のルーツを顧みた時、恥ずかしくなることが多かったです。今でもそうですが……特に日本の現代文学は、自分が拠って立つ基盤にしてはあまりに薄っぺらく、たよりなく、脆弱に感じられまして、およそそう感じた時点から僕は日本の古典文学にのめり込んでゆく傾向を強めながら、同時にやはり現代文学というタームに乗せられている自分を恥じるという、あんまりよろしくないstate of mindで今までやってきました。僕も自国を誇りたいが、こと文学に関してはそれができない。こんなような心境にたゆたいながら、僕も民族だとか国家だとかいうものに無意識裡に対峙してきたんじゃないか、などとも思われます。
     ですからして、個人の名誉にしかかかわらない形で何かものを書いている方を見ますと、僕はあまり、同胞意識を掻き立てられません。対峙すべき他国があって、そのためにわが国文化をかえりみる、わが国の文学をかえりみる、そうした意識をまるでもたない作家に出っくわしましても、何の感興も湧いてきません。ただ、そういった個人的な名誉心にとり憑かれて筆を執っている方々を見るにつけ、どんどんわが国の文学が廃れてゆくという焦燥感が募るばかりであります。
     僕は「文学」というとき他国に無意識裡に対峙していて、同じ方向を向いて努力する人たちを欲しているのですが、日本国内で賞を争うべく何かものを書いている方々が、まさに自分と同じ「文学」をしているんだ、とは、そういえば思ったことが未だ嘗てなかったのは、対峙しているもののちがいから来ていたのかも知れません。
    ――
     短篇集での参加、大丈夫です。今回も榊さんという方は短篇集での参加です。
  • 亜咲さん

     短篇の件、了解です。
    ――
     9月22日のお手紙では、やはり自分には純文学は肌に合わない、といった諦めの調子にお見受けしました。何となく僕は亜咲さんに、仕事は早いがせっかちだ、という印象をもっています(笑)≪精読は難しい≫と先にも書いておられましたが、咀嚼せずにいそいで読んでしまう癖がついているのかもですね。とはいえ、精読ができないということは、一文一文の機微にふれられず、ひるがえって自分が書く一文一文にも微妙なニュアンスがこめられない、ということになりますので、それは同時に、文学自体ができないということになりかねません。
    ――
     なぜ亜咲さんが純文学をやろうとするのか、僕は少し疑問に思っております。
     新川山羊之介さんが近況ノートで書いておりました。≪小説を書いていて楽しいと感じたことがありません≫≪基本しんどい≫≪「書かなければならない」という自分でも手がつけられない衝動があって≫――新川さんはこの衝動が≪承認欲求≫や≪自己顕示欲≫と同一視されやすいことに苦慮されているご様子でしたが、僕はこれは文学の萌芽であると思いました。
     この衝動が≪承認欲求≫や≪自己顕示欲≫とは別物であることを確信するまでに、新川さんも非常に永い道程を、あえぎあえぎ、これから進んでゆかざるを得ないでしょう。かく言います僕が、文学的衝動を≪承認欲求≫や≪自己顕示欲≫から完全に切り離せたのはつい最近です。
     文学的衝動は、自分のなかから他者を生み出そうとする衝動、であると考えます。
     自分のなかから生まれたはずの文字の排列が、まるきり自分が書いたものとは思われないほどに、よそよそしく見慣れない他者として、目の前に屹立しはじめます。そのとき作者は作物という他者からの反作用を受けます。文字という無機的なものは、作者の内側を流れる血潮よりもまず文法という他律に忠実であり、文字にこめられていた作者の個人的な内臓の温度が文法によって冷却されて、作者の制禦をはなれてゆきます。推敲中のある時点から文字の排列はすでに他者であり、ならべてひろげてみるといよいよ作物は他者にしか見えません。文学的衝動がひとえに目論んでいる収穫は、文字の排列から受ける反作用であり(断じて読者からの反応ではない)、新たに立ち上がったこの他者を介して、作者は自分自身の現実の意味を変更しようとします。
     次になぜそれを他者に読ませようとするのか。
     新たに立ち上げた他者にはまだ背中がないからです。
     真っ正面からの眺めしかもたない作物は、背中側から眺めている読者にどう映っているかという報告を受けることで背中が付け加わり、いよいよ立体的な他者として完成します。かくして自分のなかから他者を生み出すという企ては、読まれてその報告を受けることを俟ってはじめて完成を見ます。
     したがいまして品評会は背中側からの眺めを報告する場です。順位に本質的な意味はありません。半面しか塗られていないスタチューのもう半面を塗り直すようなもので、肝腎なのは、作物から作者がどのような反作用を受けて、現実の意味を変更してゆくかです。
    ――
     この観点からゆくと、どんな表現をするか(語彙の選択、比喩表現の程度)は、読者を起点として考えられるべきではなく、作物は作者にどのような反作用をおよぼすべきか、という作者個人の要請に依存します。どんなスタチューを自分のまのあたりに打ち立てたいか、を考えれば、どんな表現が必要かはおのずと定まります。
     やりとりをしておりまして、亜咲さんはどこか、上手くやろうとしている感じが拭えません。一般文芸から純文学までを扱えるご自身の力量を示そうとされている感があります。純文学“風”の表現を身につければ、他者からはそれが純文学であると認識されましょうけれど、その営為自体はあくまで“読者を起点とした一般文芸の範疇”を脱しておらず、純文学“風”どまりです。自分自身にどう見せるか、見せたいか、そして以て自分自身の現実の意味をどう変更してゆくべきかを考えることの方が本質的です。
     読者がたとえいなくとも、文学を必要としている人間は相変わらず書きつづけざるを得ません。亜咲さんは読者がいないところでも、文学をやりつづけることができるのでしょうか? というより、その必要を感じているのでしょうか?
  • 亜咲さん

     ≪精読ができない≫という点から話をはじめました。しかしそれが≪あえて精読しない≫≪あえて文章化しない≫という調子に変わっています。10月31日のお手紙にあった≪小説を精読することが非常に難しい≫との言葉が、≪精読に足る小説が存在しない≫という意味でしたら、精読に足る小説をさがして読むほかにありません。
     別段、WEB上の小説に限って読まねばならぬ理由はありません。カクヨムに≪精読に足る文章≫が存在しないと断言されるのであれば、尚更なぜ、WEB上の小説にこだわって活字にふれようとなさるのでしょうか。
    ――
     少なくとも、こうしたやりとりをしている限りでは、亜咲さんの文章には論理的な瑕疵が目立ちます。
    ≪なぜ精読できないのか?≫
    ≪カクヨムには精読に足る文章が存在しないからだ≫
    これでは理由になっておりません。そして読みとる力についても、それほど卓越したものをお持ちではないと感じます。僕は新川さんの近況ノートを拝読して、彼女の書く動機が承認欲求や自己顕示欲では“ない”と確信しているが、そのことに彼女自身が気付き確信するまでには永い道程を経ねばならないだろう、という趣旨で書きました。また≪読者がいなくとも書かねばならぬ衝動≫についてはすでに≪文学的衝動≫として書いておりますし、≪着地点≫については、こちらはまだご覧になっていないかもしれませんが、近況ノート「純文学四要件」のかいまさんとのやりとりで「2025年9月21日 09:02」時点に書いております。これについて別の言い方をしますと、自分の書いた文章から、自分が後日的に強い反作用を受けること(何か強い示唆を受けること-宗教的感情が私のがわにのりうつって来ること)が、僕が書いた物の着地点です。
     僕もやはりそれなりに言葉を尽くして説明して来ましたけれど、亜咲さんには何度か同じ説明をくりかえさざるを得ない場面がありました。対話が噛み合っていない感じが今もしております。

     (一般文芸の)執筆にかけてきた熱量と、純文学にかけてきた熱量が混同されて書かれているように思われます。「純文学とは何か」という問いを、ご自身が(一般文芸の)執筆に費やして来られた時間の密度で押し流そうとしてはいませんか? 僕が理解していただきたいことは、≪文学を考えれば考えるほど、まずは書いて読んでもらわねば≫とはならないことです。「純文学とは何か」という問いを一手に引き受け、永い時間をかけて深い沈黙のなかで思索してゆくこと――組み上がった理論の実践、理論の解体、組み直し、実践をくりかえす半永久機関たらんと欲することが、文学の本姿であること。
     僕が理解していただきたいことはたったこれだけです。そのことがわかっていれば、僕のことは苦もなくわかってくるのではないかと思います。

    追伸
    そもそも、精読する力とは、作者が着地点として願っているものをも見通す力ではないのですか? 僕の作物を読んで、僕が何を願っているのかを聊かなりとも感じ取れないというのは、あまりに易しいものをしか読んでこなかった弊害なのではないですか? 作物は何物にもまして雄弁に語っているのに、わからないから僕に直接訊くというのは、僕の作物を素通りして、ないもの同然に扱っていることとちがいますか?
    それはまるで、内容は読まずに裏表紙の数行のあらすじを読んでぱたんと本を閉じるようなもので、僕の作物があなたのなかに何らの示唆をも生まなかったのであれば、僕にはもういうべき言葉がありません。またその気力も湧いてきません。僕の作物が(どんなに小さな示唆であっても何一つとして)伝わらなかったのであれば、それ以外のところでいかなる言葉を費やしても、あなたには伝わらないと思います。
  • 今回、企画に参加させて頂きました榊です。

    企画が動くのは11月中旬頃かな!その頃に、ご挨拶しよう!と思っていましたら
    名前が挙げられていて『ビクッ』と、なり。
    「な、何か申請の手違いあったかな…」と変な汗をかいていた小心者ですm(__)m

    やり取りの内容は全部読み「手違いじゃなかった…よかった……」と安藤している最中です!

    私としては、こういった機会を設けて頂いたこと。
    また、評価(良し悪し)をして頂けることだけで……ただただ、ありがとうございます、という気持ちでいっぱいです。

    感想、自分の伝えたい事を書く、というのが苦手なもので…。
    遅くなってしまいましたが、
    企画の設立、ありがとうございます!
    また、作品に関してもよろしくお願いします。
  • 榊さん

    コメントいただきありがとうございます。
    正規のステップを踏んでもらってますので、ご安心を。
    企画設立じたいに「ありがとう」と言ってもらえますと、心やすらぎますね……

    すでに三名の方に引っ掻き回されてしまいましたが。
    僕もそれなりに★数やフォロワー数は気にしてるんですけど――と、こうやって口にするほど実際は気にしてないことが態度にあらわれていて、生意気に見えるのかもしれん、と自省している最中です。★数、フォロワー数が多いと、どうしても言葉の態度にあらわれてしまうのは仕方がないにしても、ああ、なめてるなぁってのがこっちにはよく伝わってきます。

    「記憶の喫茶店」は大きい作品なので、読む順番も、寸評の順番も最後(12月以降)になりそうです。
  • 大変丁寧に読んでいただきありがとうございました。
    ご指摘の課題についてもよくわかりました。
    なかなかうまくいかないですが、一度書いた文章に対しては、丁寧になおかつさめた目で見直すことが必要だと改めて思います。
    そして、読んで頂いた方には、読むことによって何かしら得られるものがあればと思います。そういう意味で特に気にしていることは「現代社会に対する問い」や「人間のあり方への視線」などです。
  • 100choboriさん

     コメントいただきありがとうございます。
     第一回の「バスを待つ」では、平易な言葉を小股に敷きつめて勘どころに寄せてゆくリアリズムの表現(最大公約数的な表現)が光っておりました。枯山水における岩山のような比喩のダイナミックさとはうらはらに、堅実です。
     そのリアリズムに期待して読むと「雪原の煙」は童話に近い感じがしました。
     たしかに少年の動作の逐一、鍛冶屋の動作の逐一……二人が意地の張り合いをしたり、かと思えば新しい矢を与えて少年を応援したりと、読者にふしぎに思わせる描写は多いです。が、論理的なぎこちなさがひび割れた大地のように動作と動作のあいだにすき間をつくっており、ふしぎに思う心がすべてそのすき間のなかに回収されてしまいました。
     なぜふしぎなのか。論理的にぎこちないからだ。ここで読者の関心はストップしてしまいます。
     すべてがなめらかに破綻なく進行しているのに、不可解な点が残る――これでしたらそこに注意が向きますが、関節(論理)がへんな方向をむいている人形の動作の何がふしぎなのか――関節(論理)がへんな方向をむいていることがふしぎなだけだ、となります。
     論理的ななめらかさは、作者が欲しいと思っている点に読者の注意を向ける上でも必要ではないか、と思いました。
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