1日分の感情

紅りんご

第1話

 漆原武雄は最近の風潮が嫌いだった。数年前から勢いを増してきた健康ブーム。睡眠、食事、運動、様々な観点から長生きできる身体を目指そうと謳う文言や商品が気に障った。でも、それらを摂取することで順風満帆な生活が送れる人もいるだろうと考えて溜飲を下げてきたのだ。

 ただし、これだけは駄目だ。武雄が昼に使う職場近くのコンビニエンスストア、その入り口付近の棚には栄養ドリンク類が並んでいる。つい、今日もその列の中央に陣取った紙パック飲料を睨みつけてしまった。もはや日課とも言える行動だった。パステルカラーで色分けされたそれらは『1日分の感情』シリーズの商品だ。黄色の『1日分の喜』、赤色の『1日分の怒』、青色の『1日分の哀』、オレンジ色の『1日分の楽』、他にも思い当たる感情の名前を冠したドリンクがびっしり並んでいる。武雄はこの商品を避け続けていた。

 ちょうど2年前、海外の大学の研究結果から、健康のために1日に感じた方が良い感情の量が公表された。そこから感情を摂取できる食品が一般に浸透するまではそう時間はかからなかった。子供から老人まで、健康被害が確認されていないこともブームを後押しした。今では、体調が悪い時に飲んだり、役者が役作りのために飲んだりもすることも普通になった。飲むだけで自然とその気分になることができる、という特徴から精神に不安を抱える人が愛飲しているとも聞く。武雄が働く市役所でも飲んでいる職員を見かけることがある。消化器から成分が吸収されて脳に作用するらしいが、そんな成分が本当に存在するのか怪しいものだ。今のところ、健康被害は聴かないようだが、それでも武雄には受け入れ難かった。武雄は『1日分の楽』を手に取る仏頂面のサラリーマンを横目に、菓子パンの棚へ向かった。

 三色そぼろ弁当と申し訳程度のサラダを手に列に並ぶ。前には先ほどのサラリーマンが並んでいた。そっと覗き込むと、手には『1日分の楽』と野菜ジュース、そしてバランス栄養食のブロックタイプがあった。この男はとことん自分と考えが違う人間だ、と武雄は恐れ戦いた。食事の醍醐味みたいな物がごっそりと抜け落ちたような、味気ない食事だと思った。ただし、それが悪い訳では無い、と思い直してしばらく並んでいた。それから数分経って、ようやく武雄の番が回ってきた。弁当を温めてもらっているのを待っている間に会計を済ませる。普段なら、その後は待つだけだ。しかし、今日に限っては、店員が背後の棚からちょうど両手で抱えるくらいの大きさの箱を取り出した。抽選箱らしく上部には丸い穴が開いていた。


「700円以上購入されたお客様には、このスピードくじを引いていただいてます。」


 店員はそう言って、箱を武雄の方へと突き出した。どうやら、引いたくじによって様々な商品と交換できる、という類のものらしい。別に何が当たったところで困ることはない。武雄は何の気なしに箱の中へ手を突っ込んだ。二、三回底の方を手でまさぐった後、一枚を掴んで取り出した。くじは名刺より少し一回りくらい小さい厚紙で、右端から左端まで切り取り線が続いていて捲ることができるようになっていた。そろそろ弁当の温めも終わる頃だ、さっさと済ませてしまおう。武雄は雑にそのくじをめくって、内容を見ること無く店員に手渡した。


「おめでとうございます。ええと、『1日分の楽』と交換になります。」


 店員は慣れた口調でそれだけ言ってレジを出て、入り口付近の棚から『1日分の楽』を取ってきた。あまりに突然のことだったため、武雄は展開に追いつけていなかった。ただ、店員がレジに戻ってきた辺りで、断ろうという気持ちが湧いてきた。


「あ、あの……」


 レンジの音がけたたましく鳴った。店員は即座に振り向き、武雄は口に出す機会を失った。弁当を取り出した店員は瞬く間にレジ袋にサラダと弁当、そして『1日分の楽』を詰めて武雄を送り出した。


「ありがとうございましたー。」


 気楽な声とは対照的に、武雄の心には暗雲が立ちこめていた。生きている間、ついぞ交わることは無いと思っていた物がこの手にある。いつもより少しだけ重い袋が気分まで沈み込ませていた。どこかに捨ててしまおうかとも思ったが、手放してしまうのは何だか惜しい気がして、職場に戻ってからは鞄の中に隠し持っていた。

 午後の業務は最悪だった。窓口に来た老人には懇切丁寧に説明した後に「税金泥棒」と罵られ、提出書類に不備があると指摘した中年男性には襟元を掴まれた。毎朝、丁寧にアイロンがけしているシャツは洗濯直後のように皺がついてしまった。それでもこんなことはよくあることなのだから、と何となくで流してしまえれば良かった。武雄はどちらかという大人しいタイプで、怒鳴られると萎縮して何も言い返せないタイプだった。もちろん、いつもは職員として言い返す必要はない、と自分を納得させてきた。

 しかし、今日は終業後になってもイライラとした気持ちをどうにも抑えられなかった。気持ちが急いていたこともあってか、駅に向かう広い歩道の何も無い所で躓いてしまった。辛うじて転倒は免れたものの、武雄の手にあった鞄は弧を描きながらアスファルトに叩きつけられた。閉じていたチャックが衝撃で開いたのか、中に入っていた荷物が少し飛び出していた。その中に見慣れないものがあった。それは『1日分の楽』だった。


「そういえばもらったんだったな。」


 他の荷物を広い終わった後、最後に『1日分の楽』を手に取った。200ml程度のそれは、こうして夜道で手に取ってもよく映えるパッケージをしていて、この世のものではないように思えた。だがその瞬間、飲みたいという気持ちに駆られたのも事実だった。手放せない内に、別に自分で買ったものではないし試してみるだけなら、という気持ちがどんどんと膨らんでいった。そしてついには震える手で紙パックにストローを突き刺して口に含んだ。吸ってみると、オレンジ色の液体がすぐに昇ってきた。そこで止めてしまおうかとも思ったが、どうにも好奇心が止められなくてついに一口飲んでしまった。

 オレンジやグレープフルーツ、パッションフルーツをミックスしたような味だった。これまで抱えていた警戒心がバカバカしく思える程、何でもない普通の飲み物だった。これといって明確な効果が現れたわけではないが、飲む前に感じていたようなどうしようも無い怒りはどこかへ消えていた。その代わりに前向きというか、穏やかな気持ちが広がっていく気もした。これでは効果があったのか、無かったのかよく分からない。武雄は肩透かしを食らったような気分になったまま、家路へとついた。

 翌日の昼、コンビニのレジに並ぶ武雄の手には三色そぼろ弁当とサラダに加えて、『1日分の怒』が握られていた。今までこの商品を手に取らない姿勢を貫いてきた武雄は心の中で散々その行為を正当化していたが、実際商品の効果が気になってやまないのだった。昨日は楽だったから効果が分かりにくかった。だから、今回は怒を試してみよう。武雄はコンビニを出て早々に『1日分の怒』を飲み干した。身体中に何か、熱いものが広がっていく気がした。

 しばらくの間は効果が発揮されることは無かった。出番が訪れたのは、窓口に昨日の中年男性が現れた時だった。この男は武雄の胸ぐらを掴んだものの、書類の不備はどうにもならず昨日は帰宅していた。今日はその書類を持ってきたということなのだろう。武雄は他の人間に仕事を任せたい気に駆られたが、こんな暴力男を若い職員に任せるのも気が引けて、結局武雄は男の案内を始めた。昨日は書類に印鑑が押されていなかったために受理できなかったが、今日は既に押印されていたので案内はスムーズに運んだ。         

 だが、また問題が起こった。昨日はあった住民票が今日は無かったのだ。男の話を聴く限り、帰宅後に書類を出した時、住民票を取り出したまま戻すことを忘れてしまったらしい。つまり、このままでは受理することはできないのだった。そのことに加えて20番窓口で住民票を発行していることを伝えたのだが、男は聴く耳を持たず、先に手が伸びてきた。またも襟元が分厚い手に握り、男の方へと引き寄せられる。


「住民票は昨日確認しただろが。昨日確認できてない書類を今日は持ってきたんじゃ。それで何とかせえよ。そもそもここで手に入るんなら、お前が住民票持ってこいよ。」


 ドスの効いた、低い声だった。


「いやぁ、そう言われましても。」


 男の顔が近いので視線を前に向ける訳にもいかず、適当に彷徨わせながら男をなだめる言葉を探した。落ち着いてください、申し訳ございません、少々お待ちください、様々な言葉が頭を過ったが、実際に口から出たのは意外な言葉だった。


「うっせぇんだよ。足りないって言ってんだから、ピーチクパーチク言ってねぇで、早く取ってこいよ!!」


 思いのほか、大きな声が出ていた。慌てて口を閉ざした時にはもう遅く、周囲の窓口で応答していた職員と市民が息を殺したのが何となく分かった。目の前の男も突然豹変した武雄に驚いたらしく、手を離してすぐに20番窓口の方へと姿を消した。それからの手続きは不気味な程順調に進み、その1日は何のクレームも無く1日が終わった。他の職員達も武雄を遠巻きにするだけで、話しかけてくることは無かった。失ったものもあるように思えたが、得たものもあった。『1日分の怒』の効果は間違いないと確信できた。今までの人生であれほど声を荒げたことは無かった。あの瞬間、止める間もなく激しい怒りが飛び出した。その後はすぐに怒りが収まったものだから、まるであの瞬間だけ感情を借りてきたような気分だ。これまで怒りというのは気分が悪くなるものとばかり思ってきたが、一瞬だけ怒ったからか、心晴れやかなものだった。全身に元気がみなぎるような、得も言われぬ感覚があった。

 翌日、また翌々日と、武雄は毎日のように『1日分の感情』シリーズを購入していた。もちろん抵抗感はずっとあるものの、あの時の快感が忘れられないでいた。自分の感情を拡大し、豊かにしてくれるような期待さえあった。直に機嫌が悪い市民には怒よりも楽や喜を飲んでから対応した方が良いことにも気がついた。先に飲んでおくと、どれだけ悪態をつかれても心が負に振れてしまうことが無かった。対して休日は、あえて『1日分の退屈』を飲んでから遊びに出かける。そうするとそれまでの何倍も楽しむことができた。そうしていつの間にか、武雄にとって『1日分の感情』シリーズはお守りのようなものになっていた。

 ある日、またも昼休みにコンビニを訪れた武雄は異変を感じ取った。いつも『1日分の感情』シリーズが並んでいる棚が空になっていて、「入荷待ち」と書かれた白い紙が貼り付けられていた。後から知ったのだが、その日から徐々に全国的に『1日分の感情』シリーズの出荷が止まっていたらしい。なんでも、新商品の追加と既製品の改良だとか。出荷を止めてしまえば多額の損害が出るだろうに、意欲的なことをするものだ。そこまで考えてから、武雄は全くイライラしていないことを自覚した。今日は『1日分の信頼』と『1日分の好感』を買おうとしたのに、入荷待ちだった。今までなら、購入しようと思ったものが買えなかったら、少しは心が乱れたものだった。だと言うのに、まるで怒り方を忘れてしまったかのように心はしんと静まりかえったままだった。

 その日は1日、ぼうっとしていた。仕事に支障は出なかったが、何をしても何の感情も湧かないのだった。退屈といった感情もどんなものだったか思い出せない。当然、文字や感情の意味は分かるのだけれど、自分の中で再現することができないのだ。ただそこには空虚な空間が広がっているだけだった。これで不安も焦燥感も湧いてこないのだから始末が悪い。武雄にはもはや病院に行こうという強い意志が湧くことも無く、帰路についた。

 翌朝、起床し洗顔を済ませた武雄は久しぶりに『1日分の感情』シリーズを飲んでいない時の自分の顔を見た。そこにはどこかで見たような仏頂面があった。しばらくその顔を見つめた後、既視感の正体が分かった。この顔は初めて『1日分の楽』を手にした時コンビニにいたサラリーマンと同じだったのだ。彼もどこか無気力で表情の抜け落ちたような顔だった。あの日はそういう人なのだろうと思っていたが、今こうして自分の身に起きると悪い想像をしない訳にはいかなかった。それでも動かない心を抱えたまま、武雄はキッチンの冷蔵庫まで歩いていった。中には入荷停止前に購入した『1日分の感情』シリーズのストックがたんまりと詰まっている。その山から『1日分の安心』を取り出して口に含んだ。薄桃色の液体が半透明のストローを昇って口の中へ入り込んでくる。瞬間、頬が緩んでいくのを感じた。それまで空っぽだった心がいつも以上に満たされる感じがした。昨日は残業が長引いて寝るのが遅くなったのだ。きっと昨日感じた空虚さも疲れが溜まっていたせいだろう。そう考えながら、幾つかの飲料を取り出して保冷バックに入れてから鞄へと詰め込んだ。出荷停止がいつまでかは分からないけれど、ストックもあるし暫くは持つだろう。武雄はすっかり安堵して、天気予報でも見ようとテレビを点けた。ちょうどCMに入った所らしく、テレビの画面に大きく『1日分の感情』シリーズとお馴染みの俳優が映った。どうやら、新商品のCMらしい。

 父親に扮した俳優は、朝の準備中に『1日分の怒』を手に取って飲んだ後で「間違えた!!」と言って怒り出す。そこに子役が現れて、何やら白い紙パックを手渡した。それを飲んだ俳優からは怒りの感情がスッと消えて、虚ろな表情へと変わる。それから更に『1日分の楽』を飲んで楽しそうな笑みを浮かべ出し、先ほどの白い飲料をこちらに見せつけて言う。


「急な気分転換の時も『1日分の虚無』があれば一安心!」


 大きく映し出された俳優の目が、さっき鏡で見た自分の目と似ているような気がして、武雄はまだ残っていた『1日分の安心』を一気に飲み干した。

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1日分の感情 紅りんご @Kagamin0707

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