第3話

 ところでスタバは人生初だった。店内は暖かく、都会的で洒落ている。窓が大きく、陽気な音楽が静かに流れている。「ありがとうございまーす」と繰り返す、輝く店員の笑顔!

 華やかにホイップが盛り上がるフラペチーノを受け取り、るるは震えた。高かった、お金が足りてよかった。

 コーヒーの機械の空気音、店員の機械的で明るい声。まばらな客は大人びて、それぞれ自分の事だけを気にしている。紙ストローをヂューと啜って、るるは窓際の席で頬杖をついて、さざめく人の声を聞いている、そんな夢を見た。

 ――目覚めると本当にスタバにいた。席で眠ってしまっていた。人の話し声が心地良い。紙ストローがグズグズに溶けている。ここになら、居ても良いのかもしれないと思った。お昼の弁当はトイレで食べた、暗くなるころに店を出た。


 それから毎日スタバに通った。二日目は文庫本と、長いパーカーをリュックに入れて行き、駅のトイレで着替えた。プリーツスカートの裾は見えるけれど、私服と言えなくもない。

 帰りはやや遅くなり、駅前の路地のネオン看板が灯っていた。夕靄ゆうもやの中、店の閉じた戸を背にして、仄白く中年の女が佇んでいる。髪がヘロヘロで、目が落ちくぼんで影になって表情はわからない。

 風に乗って塩素の臭いがした。るるが駅へ急ぐのを、女はじっと見送る。何だろう、寂しそうな大人って、少し怖い。


 三日目は、初めてソファ席に座った。まだ少し緊張する。コーヒーと本を写真に撮る、本って意外と可愛い。それでも日に日に不安は強くなる。これからどうする? 働く? 来月にはお金が無い。


〝こんにちは、保健室からのお便りです! 季節の変わり目の、体調管理のポイントを解説します――〟


 新着LINEのポップアップが光った。何となくスタンプで返信をすると、ややあって返事が来たので驚いた。


〝こんにちは、養護教諭の佐伯です。体調不良ですか? 学年、クラス、学籍番号、氏名、用件をどうぞ〟


 悩んだけれど、サエちゃんにできる話も相談も何も無かった。


〝匿名希望一年です。サエちゃん、お久しぶりです。学校近くの崖に出る幽霊知ってる?〟

〝ああ、山間のホテルで殺された女の霊が落ちて来るみたいな話? くだらない迷信です。生徒は自分のすべきことに集中なさい。体調が悪いなら保健室へ来なさい〟

 サエちゃんは全てを切り捨てる、懐かしかった。罪悪感をココアと一緒に飲み干す。


 奈子と再会したのは四日目だ。るるは窓際の席でウトウトしていて、西日で目が覚めた。いつもの店員が、ブラインドを閉じている。

 枯木が風に揺れ、葉が落ちる。遠くを車のライトが流れていく。薄明るい駐車場へ、軽自動車が入ってきた。㈱A×企画、車体に社名が入っている。ぼうっと目で追っていると、助手席のドアが開き、奈子が出てきた。

 見慣れた奈子の長い髪が、車のライトで真っ赤に染まる。瞳にも赤が射し込んだ。運転手は男だ、異様に頭が大きくパースがおかしい。疲れ切った顔、不健康そうで目が暗い。表情がおぼろげ――店員がブラインドを閉じて見えなくなる。

 るるは夢見心地でぼうっと眺めた。現実? でもそういえば、この周辺にスタバは一店舗しかない。


 ドアが開き、奈子が平然と入って来た。姿勢良く一人で足早に、そして近づくと奈子の顔はいきなりくすんだ。顔中にニキビが散って、いつもの顔より目鼻が小さい。


「アプリで注文した溝口です」


 でも確かにこの声だった、心がざわつく。声も忘れていた。店員が微笑み、商品を渡す。奈子は大股であっけなく遠ざかる。


「ぁ、の……溝口さん!」


 かすれた声が出た。奈子が立ち止まり、振り返る。揺れた髪の毛先が縺れていた。奈子は眉をへたらせた怯えるような顔で、睨んだ。……あの奈子が?


「――すみません、誰ですか?」

 るるは顔が真っ赤になった。


「すすみません伊東です伊東るる、同じクラスの。前にあの一回、一緒に帰ったことが……そっそれで」


 あぁ。と奈子が嫌そうにさえぎる。肩をすくめた。まぶたが不自然に震えている。


「もう関係ないんで。あたしもう学校辞めたし。彼氏と結婚するし? 超幸せに二人暮らしして、そのうち頑張って三人とか四人になるんで。あたしのこと、みんな羨ましいって言うんで。クラスの藤原、あのうるっさい女にそう伝えておいてください。じゃ」



 冷気が流れ込む。ドアが開いていた。奈子が出て行く、車の流れる淡い光の紗幕へ消える。



「――……でも藤原さんは多分奈子の事どうでも良くて、崖に奈子の幽霊が出るって、笑ってたよ……」



 るるの声は小さく震えた。テーブルはカップの結露が広がり、鏡の光沢がある。紙ストローはグズグズだ。奈子なら何て返事をくれるかな、お前に言われたくない? あたしの気持ちはどうなるの? るるは奈子の連絡先も知らない。SNSのアカウントは、以前クラスの子が偶然見つけて広めただけ。

 店内は商業的に華やかだ。どこまでも明るく無関心。みんな何になら興味があるんだろう、少なくとも、私や奈子の気持ちは重要なものじゃない。


 110番に電話した。押した瞬間に繋がって焦る。画面にポップアップが出て光った。〝位置情報共有中〟


『事件ですか、事故ですか』――低い女の声、婦警だ。

「ぁ、……じ事件? 女子高生が……蹴られて、男と住んでて、ゅ、誘拐? 未成年だし、誘拐かも」

 言ってどっと汗を掻く。鳥肌が立った。何を言っている?

「で、でも私は、気持ちが悪い。生理的にどうしても無理、気持ち悪いんです」

『落ち着いてください。その女性は今現在、蹴られていますか』

「あ。いえ……今は別に、すみません……」

『男性と、その女性の情報を詳細に教えて下さい』


 るるは誰かに止められたくて辺りを見た。どうしよう、間違えてる。奈子の気持ちはどうなる?


 婦警は年齢と場所、車にあった社名、暴力という、わかりやすい事だけ聞きだした。るるの気持ちには、涙声にも、何も言ってくれなかった。


『よく通報してくれました。情報提供、ありがとうございました』


 婦警はるるの気持ちではなく、行為を肯定した。最後に名前を聞かれて、偽名を名乗って切った。


 心と身体、自分の全てにざらついた違和感がある。どうしよう、間違えた。これは正しくない、優しくもない。何やってるんだろう。両手が震えてしばらく止まらなかった。



 冬の空の暮色は窓の外に一気に迫る。しばらく動けずにいたけれど、最後に紅茶をテイクアウトで受け取り、逃げるように店を出た。帰ろう。

 違和感で吐きそうだけれど、まず帰ろう。家は安全だ。

 次に安全なのは? きっと保健室だ、サエちゃんがいる。


 駅前は山の影が近い。暗い空気が包む黒い崖で、女の子の幽霊が泣いている。でも振り返らなければ、目が合わなければ大丈夫。違和感も恐怖も不愉快も罪悪感も、怯えもダメな自分も全部見ないで、気付かない振りをしてやり過ごす。いつまでそうしなきゃいけないんだろう、きっと毎日だ。

 でももしそれができれば、できるようになれば――……? 行く道はどこまでも黒く包まれている。


 家に帰ると、血相を変えた母親が飛び出してきて、抱き締められた。


「るる、どこ行ってたの‼ 学校から連絡があって、びっくりしたのよ!! もうあんまり心配させないで‼」


 金切り声をあげて振り切り、自室に飛び込んで鍵を掛ける。鞄を床に投げつけると、中身が飛び散ってマフラーが出てきた。

 制服の袖で涙を拭って、マフラーを鞄に戻そうと持ち上げる。ふわりと柔らかい。

 るるが例え毎朝巻いて行ったって、きっと誰も大して興味が無い、るるの大好きなお気に入りのマフラー。

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秋の終わる静かな なんようはぎぎょ @frogflag

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