後編

 その日の放課後、私はいつものように第二図書室にこもっている澄香ミカのところへ足を運んだ。普段は誰も来ない場所なので、二人きりの密会にはもってこいだ。


「や、ミカ。今朝はごめんね、話しかけちゃって」


 書架の奥にある事務机でフランス語のアマチュア小説を和訳しているミカの横顔に声をかけると、慌てたように椅子から立って頭を下げた。


「いえ、姿勢を心配してくださったのでしょう。すみません、いつも律子リコに注意されているのに、なかなか直らなくて。気をつけますね」

「うん。お願い」


 幼児をあやすようにぽふぽふと頭を撫でてやると、ミカは耳まで真っ赤にしながら少しうつむいて口をぱくぱくさせていた。

 今朝、ケイの唇が乾燥で割れたところ見ていたせいか、無意識にミカのそれに目が行ってしまう。今日みたいに空気が乾いた日にもキスすることはよくあるが、少なくともかさついていたことはなかったな……とか考えてしまった。


「……どうかしましたか?」

「ああ、ごめん。真っ赤になってるミカが可愛くて見惚みとれてた」

「またリコはそういうことを……」


 恥ずかしそうにしつつぷんすかと頬をふくらませ、スネたように顔を反らす。そういう仕草も可愛いなんて反則だと思う。


「そういえば」


 それを誤魔化すためか、ミカは椅子に戻って話を変えた。

 私も近くの椅子に落ち着き、聞く態勢を取る。


「今朝、白川さんたちと何を話していたんですか? あまりにも見事な手刀が入ったので思わず笑ってしまったのですけれど」

「ああ、プレゼントに見返りを期待するかって話でね……」


 ケイの唇割れのエピソードも含め、かいつまんで今朝の話をする。

 ミカは興味深げにうなずき、垂れ下がったおくれ毛を掻きあげつつ、


「リコはどう答えたんですか?」


 ケイと同じように訊いてきた。

 なので同じように答える。


「私は喜ぶ顔を見られるだけでいいと思ってる。物的な見返りはあんまり考えないかな」

「相手が誰でもそうなのですか?」

「え? あー……そうか、それを考えてなかったね」


 言われて初めてそれに気づく。プレゼントを贈る相手と言われて真っ先に思い当たったのはミカだったから、見返りに考えがいかなかったのだろう。

 改めてその他の相手を思い描くと、親友二人ケイとユキノ、家族、それ以外……と続く。ミカの指摘で、優先順位というか、私との関係性によって見返りを求める可能性があると気づかされたが――


「私が贈り物をするのは身近な人くらいしかいないし、それならやっぱり見返りは『笑顔』かな。ミカの場合、それに加えて私の大好きなその声で『ありがとう』って言われると見返りとしてはこの上ないし」

「そう、ですか。無欲なのですね、リコは」

「……?」


 私の答えがおかしかったのか、苦笑するようにミカはそう言った。しかし、そのかすかな笑みは「私は無欲ではないですよ」と言いたげなだった。


「その言いかたじゃ、ミカは見返りを求めてるように聞こえるんだけど。それも、私みたいなさいなことじゃない、もっと具体的な感じの何かを」

「そうですね……」


 手元のノートに視線を落とし、しばし……いや、結構な時間を黙するミカ。私には読めないフランス語の文章をぼんやりと見つめている。

 その長考からどんな返答が出るのかと待っていると、ぽつりとささやくように口を開いた。


「友人や家族なら、リコと同じような感じです。さほど親しくない方への贈り物でも似たようなことを考えるでしょう」

「うん」

「でも、相手がリコなら、しっかり見返りを考えていますよ」

「私?」


 意外な一言だ。

 繰り返しになるが、ミカは私に対して何かをして欲しいというようなことをあまり言わない。そんな彼女が私にだけは見返りを求めていたと……?


「ところで」


 らしくない言葉で沈黙していた私に、また話を変えるようにミカは言った。


「先ほどのお話ですけれど、白川さんは大丈夫だったんですか?」

「ん? ああ、二人ともあれくらいのチョップでダメージを受けるようなヤワな鍛え方はしてないから」

「どこの格闘家ですか。そうではなく、唇のケアです」

「ああ、そっち。リップ塗ったから大丈夫だと思うよ」

「そうですか。リコも気をつけてくださいね、この時期は乾燥しますし」

「うん。この前ミカがくれたリップ、ちゃんと使わせてもらってるから」


 言って、ポケットに入れていたそれを取り出す。

 唇の乾燥を防ぐだけではなく、かすかに色がついているおしゃれ寄りのアイテムで、ミカが私によく似合う色を見つけたからとプレゼントしてくれたものだ。それを使っているという前提でよくよく見ないとわからないナチュラルな色づきなので、校則にうるさい教師に見つかることもない。


「ケイほどじゃないけど私も乾きやすいから必需品だし、ミカが私のために選んでくれたものだからありがたく使わせていただいております」

「それはよかったです」


 嬉しそうに笑んで、ミカは私をじっと見つめる。

 その表情には私に何かを求めているような気配はない。ただ私が喜んでいるのが嬉しいと思っている、それ以外のが見えない。

 しかし――ミカは私からの見返りを期待していると言う。

 それはいったい何なのか。


「ねえ、ミカ。リップを私にプレゼントしたのも、何か見返りを期待してのこと?」

「そうですね。数あるものの中からそれを選んだのは、私にとって大きなリターンがあるからです」

「それは私が喜ぶ顔とか、感謝の言葉とかじゃないんだよね?」

「ええ、違います。あなたの笑顔や言葉は他のものをプレゼントしてもいただけると思いますが、これはそれだけじゃないんですよ」


 ふふ、と不敵に笑い、ミカは続ける。


「これなら、じゃないですか」

「……?」


 どういうこと?

 首を傾げて見せても、ミカはただ微笑んでいるだけだった。答える気はないらしい。

 そうして困惑している私を差し置いて、ミカはフランス語文の和訳を再開した。事務机に置いたタブレット端末とノートに視線を落とし、猫背を気にするようにしながらカリカリとノートにペンを走らせる。

 私はその横顔と、ときおり垂れた後れ毛を掻きあげる仕草を見つめ、じっと考える。


「んー……」


 ミカの考えていることを『翻訳』するのが私の役目ではあるが、これはなかなかに難しい問題だ。

 プレゼントにリップクリームを選んだ理由。笑顔や言葉だけではない見返り。そしてミカが言った「少しずつ返してもらえる」の意味。

 これらが示す答えは――なんだろう。

 私の頭はそれほど回るようにはできていない。一万一千回転までキッチリ回せと言われても回ってくれないのだ。


「…………」


 考え事をしながらなんとなくリップクリームのキャップをはずし、唇に滑らせる。しっとりと柔らかい感触は、薄く塗るだけでもしっかりと唇を守ってくれているような安心感があった。単なる色付きリップファッションで済まさず、実用性にも優れたこれを選択セレクトしたミカのセンスを褒め称えたい。

 この部屋は湿気が大敵の古書が多いので、夏場は除湿器がフル稼働しているし、冬場は常に換気扇が作動していて外気と同じくらい空気が乾燥している。それに今は暖房も入っているため余計に体からうるおいが飛んでしまうのだ。それを補うべく水分は図書室という性質上持ち込めないし、やはりこの時期、この部屋ではリップケア用品は必須と言えよう。

 おそらくミカはそこまで考えて私にこれをプレゼントしてくれたのだろうが……当の本人はちゃんとケアをしているのだろうか。もし不十分なら私が塗ってあげなければ…………って、そうか。


「あー、ね」


 何の脈絡もなく唐突に、以前誰かから聞いた話を思い出し、おそらくミカはと同じことをしているのだと気づいた。

 そうとわかれば話は早い。


「ミカ」

「はい?」

「部屋の空気が乾いてるけど、大丈夫?」


 訊くと、ミカは自身の唇に軽く触れて、我が意を得たりとばかりに目をすっと細めた。


「……そうですね。少し乾燥していますね」

「そっか。じゃ、ケアしないとね」


 言って私は、ミカの顎を少し持ち上げて――

 ん……とミカの口から甘い吐息が漏れ、私の耳を撫でていく。いつもよりも長めにしているせいか、どんどん触れているところの温度が上がっていくようだった。私の唇に塗ったリップクリームが溶けて、ミカに移りそうなほどに。

 ややあって顔を離し、はぁ、と熱っぽい吐息とともにミカの口元に視線を落とす。

 思ったとおり、私と同じように彼女の唇が薄く色づいていた。


「ちょっとは返せた?」

「ええ」


 私の言葉に、ふふ、とミカは嬉しそうに上気しながら笑顔を見せた。



 『フランス人は彼女に口紅ルージュをプレゼントする習慣がある』と誰かから聞いたことがある。それはデートを重ね、その口紅をつけた彼女とキスするたびに少しずつそれが返ってくるからだ、という理由らしい。

 聞いたのは随分前のことだし、それを教えてくれた人も誰かから教わったと言っていたので、それが本当かどうかもわからないし、今でもそんな習慣があるのかは知らない。

 ただ、フランス語の物語を和訳しているミカがそれを知っていて、真似をしたとしてもおかしくないだろう。

 まったく、回りくどくもしゃれたことをするものだ。



「ねえ、ミカ」

「はい」

「もらったリップの半分くらいは返そうと思うんだけど、いい?」

「…………。何回するつもりですか……」


 消え入るような小声で呟きながら、ミカは盛大に紅葉もみじを散らしてうつむいてしまった。

 その後ろから愛おしい背をぎゅっと抱き締めて、真っ赤になった耳元で私はそっと答える。



「何度でも」





       完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

翻訳さん。Short Story 『見返り』 南村知深 @tomo_mina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画