翻訳さん。Short Story 『見返り』
南村知深
前編
駅から学校までの寒い冬の道のりを身を縮めながら無心で歩き、校門をくぐって教室に入ったところで私はほっと息をついた。エアコンが吐き出す暖気に包まれ、凍てついた肌が生き返っていくような充足感に小さく体が震える。まったくもって暖房サマサマである。
窓際の自分の席に通学カバンを置いて教室後部のロッカーに向かい、マフラーを外してコートを脱ぐ。それらを小さく丸めて雑に投げ込むと、ぐるりと室内を眺め回した。
と言っても、私の視線はほぼ一点で止まるけれど。
教室の
「おはよう、上有住さん」
「お、おはよう、ございます。リ……
声をかけると彼女は驚いたように顔を上げて、おずおずと挨拶を返してくれた。人見知りな性格ゆえか、声をかけられることに慣れていないのが丸わかりのリアクションだった。
もっとも、教室ではあまり話さないようにしようという取り決めを私が破ったことのほうが意外だったのだろう。思わず
クラスメイトだから挨拶するくらいは普通、と言ってしまえばそれまでなのだが、私と彼女が恋人同士だということをクラスには秘密にしているので、あまり親しげにするとそれがバレてしまうかもしれない。だから普段は一定の距離を保つようにしているのだ。
それをわかっていながら声をかけたのは、
そう思いつつ彼女の席の後ろを通り過ぎる
「リッちゃん、おはー」
「はよー、リッちゃん」
「お二人さん、おはよー」
自分の席に戻ったタイミングで、友人の
「ちょっと聞いてくださいよ、リッちゃんトコの奥さん」
「誰が奥さんだ。
「あ、そうか。奥さんは
「そういうのはいいから。話したいことがあるんでしょ、ユキノ?」
周りにクラスメイトがいる中であまり
お察しの通り、ケイとユキノは私たちが付き合っていることを知っている。それを秘密にするし応援もすると言ってくれる、なんとも理解のある
……たった今それが破綻しそうになっていたけれど。
「そうそう。さっきケイと電車に乗ってたとき、正面に座ってたおじさまが読んでいたスポーツ新聞に載ってた記事なんだけどさー」
言ってユキノがケイに目配せすると、うん、とケイがうなずいた。
「プレゼントを贈るときに見返りを考えるか? って話題だったんだけど、リッちゃんはどう思って……つっ……!」
唐突に話を切り、眉根を寄せたケイは少しうつむいて口に手を当てた。
「どうしたの、ケイ?」
「……唇が割れた……いてて……」
「あー……」
今日はかなり寒く風が強かったし、天気予報で火災に注意と言われるほど空気もカラカラに乾燥しているらしい。駅からここまで歩いてきたなら唇が乾いてしまってもしかたないし、しゃべった途端に割れるのもさもありなんだ。
私は家を出る前にリップクリームを塗っていたので大丈夫だけど、ケイがそれを
「今朝は慌ててたからリップ塗るの忘れてたよ……。持ってくるのも忘れたし」
「私持ってるよ、ケイ。これあげる」
ユキノがポケットから薬用のリップクリームを出し、それをケイに渡した。それをまじまじと見つめていたケイだったが、ハッとしたように首を振る。
「いや、大丈夫だよ。舐めときゃいいし」
「塗っといたほうがいいよ。新品だから気にせず使って」
「……そう、ありがと。お昼にココア奢らせていただきますねー」
「ほんと? やった」
「冷たいのでいい? コールドにする? それともア・イ・ス?」
「全部同じじゃないですか! 温かいのでお願いします」
お決まりのギャグにきちんと乗ってくれたユキノにグッとサムズアップしてから、ケイはほっとしたような、残念がっているような、なんとも言いがたい顔で遠慮がちにリップクリームのキャップをはずし、かさかさの唇に薄く塗り伸ばした。
……なんだろう、その仕草が妙に色っぽく
いやいや、私にはミカという大切な
よからぬ意識を追い払おうとユキノに視線を移す。……が、目はどうしても唇に向いてしまうらしく、健康そうな血色のいいそれを見つめてしまった。
「ユキノは……ちゃんとケアしてるみたいだし、大丈夫そうね」
「何言ってるの、リッちゃん。私、何も塗ってないけど?」
「え……でも、めっちゃツヤツヤじゃん」
薄い桃色に光沢を
何もしないでこの状態になるものなのだろうか。
そんなことを思っていると、ユキノはとんでもないことをそのツヤツヤの口から放った。
「うーん……お弁当に入れる『からあげ』が余ってたのをつまみ食いしたからかな?」
『
思わず私とケイが同時にツッコミを入れる。
というか、食べたあとに歯磨きとかしてないのか、この子は。
……まあ、いつも通りというか、ユキノらしいというか……追及はやめておこう。
「で、なんだっけ? 今日のユキノのお弁当のおかずはからあげって話だっけ?」
「違うよ⁉」
「え? さっきお弁当にからあげ入れたって言ってたでしょ。違うおかずなの?」
「
「わかってるよ。ジョークだよ。ちょっと落ち着け、ユキノ」
軽いおふざけにエキサイトしたユキノの頭を撫でてやり――なんだかケイの目つきが怖いのでそっとユキノから離れ、本題について考える。
「見返り、ねぇ……」
まったく考えないと言えばウソになるだろう。例えば、ミカに何かをプレゼントして喜んでもらえたら嬉しいけれど、その『嬉しい気持ち』を『見返り』と呼ぶのなら、無意識であれなんであれ
「やっぱり贈る側は何らかのリターンを期待するでしょ。それが
「リッちゃん的にはどんな見返りが欲しい?」
「うーん……」
ケイの問いを受けて思わずミカを見てしまう。ミカなら何を贈っても喜んでくれるだろうし、「ありがとう、リコ」と私の大好きなあの天上の声を聞かせてくれるだろう。そこに笑顔があれば最高だが、それ以上を望むのは贅沢が過ぎるというものだ。
「喜んでくれればそれで。別に何かして欲しいとか、お返しが欲しいとも思わないし。プレゼントを喜んでもらえて嬉しい、って自己満足で終わるかな」
そう答えると、二人はあからさまに不満げな顔で眉根を寄せ、示し合わせたようにシンクロしながら失望のため息をついた。
「つまらん! 非常につまらん! もっと面白いことは言えんのかね?」
「ねー。予想通りすぎて面白くない。
「お前ら……」
好き勝手放題に言い放つ二人の脳天にチョップを落とす。
その様子を見ていたミカが、周囲に気づかれないように笑っていた。
「…………」
ふとそのとき、ミカはどうなんだろう? と思った。
何かの機会で私にプレゼントを渡すとき、ミカは私に何かを求めるのだろうか。
普段から私に対して何かをして欲しいとあまり言わないから、そんな彼女の姿が想像できない。
求められれば全力で応えるつもりだし、私にできないことは言わないだろうけれど、じゃあ何を求められるかと考えると……何も思いつかなかった。
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