翻訳さん。Short Story 『見返り』

南村知深

前編

 駅から学校までの寒い冬の道のりを身を縮めながら無心で歩き、校門をくぐって教室に入ったところで私はほっと息をついた。エアコンが吐き出す暖気に包まれ、凍てついた肌が生き返っていくような充足感に小さく体が震える。まったくもって暖房サマサマである。

 窓際の自分の席に通学カバンを置いて教室後部のロッカーに向かい、マフラーを外してコートを脱ぐ。それらを小さく丸めて雑に投げ込むと、ぐるりと室内を眺め回した。

 と言っても、私の視線はほぼ一点で止まるけれど。

 教室の中央列まんなか最後部うしろの席で机に突っ伏すような姿勢のまま、ひたすらノートに文字を連ねている一人の女子生徒。いつも外国の小説を和訳しているので、クラスメイトから『翻訳ほんやくさん』と呼ばれているかみありすみだ。相変わらずのねこで、いくら言っても直らないようだ。


「おはよう、上有住さん」

「お、おはよう、ございます。リ……浅茅あそうさん」


 声をかけると彼女は驚いたように顔を上げて、おずおずと挨拶を返してくれた。人見知りな性格ゆえか、声をかけられることに慣れていないのが丸わかりのリアクションだった。

 もっとも、教室ではあまり話さないようにしようというを私が破ったことのほうが意外だったのだろう。思わず浅茅律子わたしを『リコ』と呼びそうになったうえに、どうして、と言いたげな目で私を見上げている。

 クラスメイトだから挨拶するくらいは普通、と言ってしまえばそれまでなのだが、私と彼女がだということをクラスには秘密にしているので、あまり親しげにするとそれがバレてしまうかもしれない。だから普段は一定の距離を保つようにしているのだ。

 それをわかっていながら声をかけたのは、つややかな長い髪に覆われた彼女の猫背が理由だ。姿勢が悪いと目も悪くなるし体にもよくない。大切な彼女カノジョにはすこやかでいてほしいと願うのは当たり前だろう。

 そう思いつつ彼女の席の後ろを通り過ぎるさいに丸まった背中を軽くポンと叩くと、澄香ミカはハッとしたように姿勢を正した。私が話しかけた理由を理解してくれたようで何よりだ。


「リッちゃん、おはー」

「はよー、リッちゃん」

「お二人さん、おはよー」


 自分の席に戻ったタイミングで、友人の白川しらかわケイと東藤とうどうユキノが揃って登校してきた。二人はそれぞれマフラーとコートをロッカーに詰め込むと、勢い込んで私の席の前と横を陣取った。


「ちょっと聞いてくださいよ、リッちゃんトコの奥さん」

「誰が奥さんだ。リッちゃんわたし浅茅律子わたしだよ」

「あ、そうか。奥さんは上有住ほんやくさんだったね。ごめんごめん」

「そういうのはいいから。話したいことがあるんでしょ、ユキノ?」


 周りにクラスメイトがいる中であまり声高こわだかに私とミカの関係をしゃべられると困るので、慌てて話の方向を変えた。

 お察しの通り、ケイとユキノは私たちが付き合っていることを知っている。それを秘密にするし応援もすると言ってくれる、なんとも理解のあるがたき親友たちである。

 ……たった今それが破綻しそうになっていたけれど。


「そうそう。さっきケイと電車に乗ってたとき、正面に座ってたおじさまが読んでいたスポーツ新聞に載ってた記事なんだけどさー」


 言ってユキノがケイに目配せすると、うん、とケイがうなずいた。


「プレゼントを贈るときに見返りを考えるか? って話題だったんだけど、リッちゃんはどう思って……つっ……!」


 唐突に話を切り、眉根を寄せたケイは少しうつむいて口に手を当てた。


「どうしたの、ケイ?」

「……唇が割れた……いてて……」

「あー……」


 今日はかなり寒く風が強かったし、天気予報で火災に注意と言われるほど空気もカラカラに乾燥しているらしい。駅からここまで歩いてきたなら唇が乾いてしまってもしかたないし、しゃべった途端に割れるのもさもありなんだ。

 私は家を出る前にリップクリームを塗っていたので大丈夫だけど、ケイがそれをおこたるのは珍しい。


「今朝は慌ててたからリップ塗るの忘れてたよ……。持ってくるのも忘れたし」

「私持ってるよ、ケイ。これあげる」


 ユキノがポケットから薬用のリップクリームを出し、それをケイに渡した。それをまじまじと見つめていたケイだったが、ハッとしたように首を振る。


「いや、大丈夫だよ。舐めときゃいいし」

「塗っといたほうがいいよ。新品だから気にせず使って」

「……そう、ありがと。お昼にココア奢らせていただきますねー」

「ほんと? やった」

「冷たいのでいい? コールドにする? それともア・イ・ス?」

「全部同じじゃないですか! 温かいのでお願いします」


 お決まりのギャグにきちんと乗ってくれたユキノにグッとサムズアップしてから、ケイはほっとしたような、残念がっているような、なんとも言いがたい顔で遠慮がちにリップクリームのキャップをはずし、かさかさの唇に薄く塗り伸ばした。

 ……なんだろう、その仕草が妙に色っぽくわくてきに見える。

 いやいや、私にはミカという大切な彼女カノジョがいるんだ。目移りはよくない。

 よからぬ意識を追い払おうとユキノに視線を移す。……が、目はどうしても唇に向いてしまうらしく、健康そうな血色のいいそれを見つめてしまった。


「ユキノは……ちゃんとケアしてるみたいだし、大丈夫そうね」

「何言ってるの、リッちゃん。私、何も塗ってないけど?」

「え……でも、めっちゃツヤツヤじゃん」


 薄い桃色に光沢をまとったユキノの唇は乾燥とは無縁そうで、リップグロスを塗ったようにつやめいている。

 何もしないでこの状態になるものなのだろうか。

 そんなことを思っていると、ユキノはとんでもないことをそのツヤツヤの口から放った。


「うーん……お弁当に入れる『からあげ』が余ってたのをつまみ食いしたからかな?」

げ油なのそれ⁉』


 思わず私とケイが同時にツッコミを入れる。

 というか、食べたあとに歯磨きとかしてないのか、この子は。

 ……まあ、いつも通りというか、ユキノらしいというか……追及はやめておこう。


「で、なんだっけ? 今日のユキノのお弁当のおかずはからあげって話だっけ?」

「違うよ⁉」

「え? さっきお弁当にからあげ入れたって言ってたでしょ。違うおかずなの?」

からあげそうだけど! お弁当の話そうじゃなくて、誰かにプレゼントを贈るときに何か見返りを考えるかって話だよ、リッちゃん!」

「わかってるよ。ジョークだよ。ちょっと落ち着け、ユキノ」


 軽いおふざけにエキサイトしたユキノの頭を撫でてやり――なんだかケイの目つきが怖いのでそっとユキノから離れ、本題について考える。


「見返り、ねぇ……」


 まったく考えないと言えばウソになるだろう。例えば、ミカに何かをプレゼントして喜んでもらえたら嬉しいけれど、その『嬉しい気持ち』を『見返り』と呼ぶのなら、無意識であれなんであれ皆無ゼロとは言えない。


「やっぱり贈る側は何らかのリターンを期待するでしょ。それが物品モノ金銭おカネか、贈った相手の笑顔か……人によりけりだろうけど」

「リッちゃん的にはどんな見返りが欲しい?」

「うーん……」


 ケイの問いを受けて思わずミカを見てしまう。ミカなら何を贈っても喜んでくれるだろうし、「ありがとう、リコ」と私の大好きなあの天上の声を聞かせてくれるだろう。そこに笑顔があれば最高だが、それ以上を望むのは贅沢が過ぎるというものだ。


「喜んでくれればそれで。別に何かして欲しいとか、お返しが欲しいとも思わないし。プレゼントを喜んでもらえて嬉しい、って自己満足で終わるかな」


 そう答えると、二人はあからさまに不満げな顔で眉根を寄せ、示し合わせたようにシンクロしながら失望のため息をついた。


「つまらん! 非常につまらん! もっと面白いことは言えんのかね?」

「ねー。予想通りすぎて面白くない。猪突猛進ちょとつもうしんなリッちゃんらしいとがったナイフのような答えが欲しかった。ガッカリだよー」

「お前ら……」


 好き勝手放題に言い放つ二人の脳天にチョップを落とす。

 その様子を見ていたミカが、周囲に気づかれないように笑っていた。


「…………」


 ふとそのとき、ミカはどうなんだろう? と思った。

 何かの機会で私にプレゼントを渡すとき、ミカは私に何かを求めるのだろうか。

 普段から私に対して何かをして欲しいとあまり言わないから、そんな彼女の姿が想像できない。

 求められれば全力で応えるつもりだし、私にできないことは言わないだろうけれど、じゃあ何を求められるかと考えると……何も思いつかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る