第2話 予感
年が明け、金色の光で東京の街並みが包まれる頃、神崎直人は『渡辺事務所』に向かっていた。凛とした朝の冷たい空気はむしろ心地がいい。街のざわめきを背に足を止め、ゆっくりと深呼吸をしてみる。柔らかな陽光が直人の顔を撫で、まるで新しい始まりを暗示しているかのようだった。
「明けましておめでとうございます」
地上七階建てのビルの最上階にある事務所に足を踏み入れると、種類豊富な観葉植物が目立つ。一時期、異様なまでに植物が増え続けた時期があったが、今では大分落ち着いている。
「明けましておめでとう、神崎君」
事務所にはまだ
「ずいぶんと早い出勤ね」
「僕が一番乗りと思いましたが、足立さんにはかないませんでした」
「ふふっ、今日は大事なお客様が来るからしっかりね」
「はい!」
直人がこの探偵事務所で働き始めてすでに四年半が経った。最近では任される仕事内容も以前に比べて重要度が高くなってきている。数か月前には偽名を使って、実際に潜入調査も試みた。
──まあ、ピエールには最初から身元がバレていたみたいだけど──
去年の秋に大学生の素行調査の際に知り合った、直人とは種類の違う能力を持つ天才、ピエール・ブランシェを思い浮かべた。今頃、ピエールは何をしているのだろうか?
──あれ? 最初から身元がバレていた?
直人は一瞬、自分の考えに違和感を覚えたその時、
「明けましておめでとうございます」
思考を遮るように、
「明けましておめでとう、平岡君」
「明けましておめでとうございます、平岡さん」
平岡もこの事務所での勤務歴は長い。聞くところによると、自ら渡辺社長に積極的に売り込んだのが始まりらしい。張り込みや尾行が得意で、渡辺社長が重宝している部下だ。
「今日は確か、〝鎌倉の爺さん〟の面会が朝一番にあるんですよね」
平岡の切れ長の眼が、渡辺社長がまだ出勤していないことを捉える。
「少し遅れるみたいだけど、面会には間に合うから大丈夫よ」
そう云うと、幸恵は机の上にあったファイルを拾い上げ、
「予備知識として、神崎君に教えておこうかな、ふふっ」
含み笑いを浮かべた。
「そっか、神崎はまだ、あの爺さんと対面したことなかったか」
平岡も口元に微かな笑みを浮かべている。
「渡辺社長がいない間に、是非教えてください!」
二人の勿体ぶる様子に、直人も思わず笑みを漏らした。
「勝手に〝鎌倉の爺さん〟って呼んでるけど、本名は
「鎌倉にお住まいなのですか?」
あだ名が〝鎌倉の爺さん〟なら、鎌倉在住の人物なのだろう。幸恵は頷くと、
「お住まいは披露山庭園住宅だけど、工房が鎌倉にあるのよ」
そう云って、直人が事務所に入社する前の話を始めた。
鎌倉の爺さんこと、西園寺重光が初めて渡辺事務所を訪れたのは七年前、次男の離婚騒動の依頼がきっかけだった。その際、重光は渡辺の仕事ぶりに感銘を受け、その後も何かある度に渡辺を頼るようになった。
「西園寺さんはウチの事務所のお得意様だったのよ」
「えっ、過去形ですか?」
披露山庭園に住む顧客がいることに感心していた矢先、過去形だったことに焦り、思わず聞き返した。
「ええ、最後は渡辺社長が振ってしまったの」
幸恵が困った顔をすると、平岡が抑えきれずに大きな声で笑いながら付け加えた。
「途中から、西園寺さんも渡辺社長と世間話がしたくて事務所に通っていたからな。まあ最後は、渡辺社長も堪忍袋の緒が切れたというか……」
平岡の話によると、愛犬が食欲不振に陥った原因を探るペットフード調査が、重光の最後の依頼になったらしい。ちょうど直人が入社する直前のことだったという。
「事務所に来る暇がったら、さっさと犬を獣医に連れていけ!」
幸恵は眉間にしわを寄せ、渡辺の口調を真似て叫ぶと、笑いを誘った。
「あははは、それは依頼というよりも、確かに世間話ですね」
「オレは平和的でいいと思うけどな」
三人が昔話で賑わった頃、ようやくオフィスの扉が開き、渡辺叡治が姿を現した。一斉に空気が引き締まり、新年の挨拶を交わして渡辺を迎える。
「明けましておめでとう! 今年の抱負とか言いたいところだが時間がない! 幸恵さん」
「はい!」
返事とほぼ同時に、幸恵は手元にあるファイルから書類を取り出した。
「西園寺様に確認したところ、朝の九時半の予定で問題ないそうです。さらに、今日は非常に重要な依頼であるため、弁護士を同行されるそうですので、その件は問題ないとお伝えしてあります」
「あの爺さんが事務所に来るのは四年半ぶりだな。久しぶりに昨日電話で話したが、体調を崩して、ついこの間まで入院していたそうだ」
「まあ、それはお気の毒……って、もしかして西園寺さんの重要な依頼とは……」
幸恵は嫌な予感がしたのか、眉を上げた。
「いよいよあの爺さんも引退する気になったようだ。詳細は本人が説明するだろうが、俺は息子二人の調査依頼だろうと予想している」
「次男の方は七年前に調査したのを覚えています。少々放蕩息子でしたが……」
平岡も眉を顰め、七年前の依頼を思い返していた。
「少しどころか、重症だ。俺は助けたくなかったが、依頼だったから仕方ない。でもあれが精一杯だった」
そう云うと、渡辺は直人に七年前の件を簡潔に説明した。西園寺重光の次男夫婦が離婚沙汰になった際、重光は渡辺に調査を依頼したのが始まりだった。結局、次男が妻を殴ったのが離婚の発端だったことが調査で解ったが、重光に泣かれてしまった。
「時に事実は残酷だ」
渡辺は仕方なく、次男の事業を夫人に分与しろと助言した。最初は次男も事業を手放すことに納得しなかったが、渡辺が繰り返し説明することで、一定の理解を得たらしい。子供もいなかったため、特に揉めずに離婚が成立したという。
「弁護士を連れてくるとなると、遺産相続の話でしょうか?」
依頼人の予備知識を事前に頭に入れながら、直人は披露山庭園に住む西園寺重光という男を想像した。遺産相続、鎌倉の工房、そして二人の息子の存在。しかもそのうちの一人は妻に手を上げたという痛い過去がある放蕩息子だ。嫌な予感でしかない。
「嫌な予感しかないですね」
平岡が直人の気持ちを代弁するように呟いた。
「そろそろ爺さんが到着するころだ」
渡辺がオフィスの時計に眼を向けると、ちょうど九時半を回ったところだった。
「そういえば渡辺社長、絵葉書がスイスから届いています」
「俺宛に? 神崎宛じゃなくて?」
「事務所の住所しか記されていませんでしたので、社長に渡しておきます」
幸恵はそう云うと、一枚の絵葉書を渡辺に差し出した。
「チューリッヒ……26.12.2024」
渡辺は消印を確認したあと、そのまま直人に葉書を手渡した。
直人は渡辺から葉書を受け取ると、隅々まで目を通してみた。差出人もメッセージも書かれていないが、ヨーロッパの街並みから覗く朝日が美しく納められている一枚の絵葉書だった。直人は渡辺に絵葉書を返すと、
「朝日は暗闇の後に訪れる希望の光です……」
なんとなく、ピエールの身に何か良いことが起きたのだと、予感がした。
メメント モリ 星乃夜衣 @hosino8
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