第二章

第1話 プロローグ 聖カトリーヌ

 漆黒の空に雪が静かに舞い、クリスマスの雰囲気がチューリッヒの街全体を柔らかく包み込む。時折、湖から冷たい風が吹き抜けるものの、街は温かい光で彩られ、街角のクリスマスマーケットは活気に満ちている。


 そんな街角の賑わいとは対照的に、この小さな医療施設の中は静寂に包まれていた。時を忘れた患者たちにとって、聖なる日も普段と変わらぬ一日でしかない。ピエール・ブランシェは施設の中でも別格に整えられた部屋に足を踏み入れると、ベッドで安らかに眠る女性の顔を眺めた。自分と同じ髪色だが、彼女の髪には所々銀色が混じっている。


「ジョワイユ―ノエル、ボー」

 背後から声が聞こえ、振り向くと、医療器具を抱えた中老の女性が部屋に入ってきた。

「ジョワイユ―ノエル、エルザ」


 ピエールのことを今でも親しみを込めて「ボー」と呼ぶエルザは、かつて彼の乳母としてブランシェ家に仕えていた女性だ。二十年前、ピエールの母親がチューリッヒの大学病院に入院した際、エルザは彼女の世話役としてチューリッヒに移住するほど、ブランシェ家と深い関わりを持ち続けている。


「今日はクリスマスイヴだから、早く家にお帰り、エルザ」

「何を今更、貴方もカトリーヌ様も私の家族よ。それに今夜は奇跡を信じてるから」

 エルザは優しく微笑むと、静かに寝息を立てている女性を見詰め、

「ジョワイユ―ノエル、サントカトリーヌ」

 眠りを妨げぬよう、そっと祈りを捧げた。


 カトリーヌが収容されている認知症専門施設は、チューリッヒ大学病院から歩いてすぐの場所にある。外装からは医療施設に見えないが、彼女を含めて三人の患者が長期に渡って入院している。エルザ以外にも優秀な医療スタッフや研究員は配置されているものの、この施設の内部事情はすべて厳密な秘密保持の下に管理されている。なぜなら、この施設に入院している三人は通常のアルツハイマー患者ではないからだ。彼らの脳細胞は破損していないし、視覚や運動系の神経も問題なく機能している。ただ、思考や感情を動かす〝記憶〟だけが真っ白に消えている。


「お父様はお変わりなくて?」

「シチリアで楽しく暮らしているんじゃないかな」

 十年前に組織の役職を退任した父親を思い浮かべると、自然に態度が素っ気なってしまう自分がいる。

「お兄さんたちは? この間、妹さんがご結婚なさったのでしょう?」

 エルザは医療器具をトレイに並べながら尋ねた。

「ええ、義妹は今年の春にオーストリア人の実業家と結婚しました。義兄たちはルーマニアの研究所に……何やら多額の支援をしているようですが──」


 首都ベルンに本部を置く組織とは別に、父がオーストリアで設立した財団がある。カトリーヌが入院しているこの施設も、財団の支援によるものだ。現在、財団の理事長を務めているのは長男だが、父の裏の姿であった〝組織〟の存在自体を義兄たちは知らない。だから、なぜ十七年前にこの認知症専門施設が設立され、財団が〝誰〟を保護しているのかさえ、彼らは解っていない。財団は血縁によって運営されているが、父が長年関わってきた〝組織〟は実力主義だ。叡智は与えられるものではなく、自ら求め、扉を叩かなければならない。そして父は、その扉を守る門番だった。


 ──どうせ、アメリカの国防省や研究機関が関与している研究に、義兄たちは手を出しているのだろう──


 義兄たちの代になって、財団の方針が変わりつつあるものの、父も彼らに地位を譲った以上、口を挟むことはしない。


「戦争でどれほど兵士を殺しても〝本当の死〟というものを、まるで理解していない連中だからね」

「パァルドン?」

 エルザが点滴の調整をしていた手を止めた。

「独り言さ。気にしないで、エルザ」

 ピエールは端麗な顔に微笑みを浮かべた。


「本当に大丈夫なの? こんな高濃度のエンドルフィン誘導体なんかを……」

 心配そうな表情を浮かべながら、エルザは小瓶を慎重に持ち上げた。


「体内で過剰に反応しないよう一週間、少量でも持続的に投与していたから大丈夫」

「ええ、ここ一週間はカトリーヌ様も気分が優れていて……でも、急激に濃度を上げるなんて、何かあったら……」

「たとえ何かあっても、これ以上最悪の事態になることもないさ」

「まあ、確かに……」

 そう呟くと、エルザは静かに目を閉じているカトリーヌの腕に点滴を取り付け始めた。


「新年早々、南米のウルグアイに行かなければならないから、その前に実験成果を確認したいんだ……」

「ついこの間、日本から帰ってきたばかりなのに……向こうも貴方に色々なことを押し付けてくるわね」

「自分が組織に提案したんだ、仕方ない」


 ピエールは自身の特殊能力が、今ではそれほど特別なものではないことを理解している。現代の技術なら、ピエールの能力に代替できるものがある。今はまだ、引退したとはいえ父が健全であるからこそ、この施設も自分の身も保証されてはいるが、その先のことはわからない。


「でも、私の運命の光に日本で出逢えたからね。世界を周るのも悪くない」

「まあ、貴方の運命の女性ファム・ファタル? 私もカトリーヌ様も、貴方が幸せになることを一番に願っているんですから」

「フフフ、内緒です」

 勘違いをしているエルザを訂正せずに、ピエールは端麗な顔に含み笑いを浮かべた。


 ピエールはカトリーヌの血液解析に応じて、少量のエンドルフィン誘導体をここ一週間投与し、今夜は値を三百倍に上げての実験に踏み切った。神崎直人かんざきなおとは生還時にエンドルフィンの濃度が通常の八百倍も測定された。だが、流石にそれほどの値で実験することは躊躇う。


 カトリーヌの腕にゆっくりと流れ込んでいく溶液を見詰めながら、

「できることなら彼女を、故郷のストラスブールに移したい」

 もう一度、アルザス地方の景色を母の記憶に刻みたいと願った。父を説得するためにも、この実験で一定の成果を得る必要がある。


「もちろんです! 私も三人でアルザスに戻りたいですわ」

 エルザはモニターに映るカトリーヌの心拍数を注視しつつも、声には胸が締めつけられるような感動が滲み出ている。


 最初は特に何も起きない。だが点滴が終わって数分後、まるで永遠の眠りから覚めたかのように、カトリーヌの瞼がゆっくりと開く。すると、薔薇の花弁が朝露に触れたかのように、カトリーヌは静かに表情を動かした。


 エルザは息を飲んだが、ある程度の表情の動きは、ここ一週間の実験で確認できている。問題はその先だ。もし何らかの変化が表れたとしても、それは一時的なものだろう。果たして、濃度を上げることで、二十年もこのような状態の人間に劇的な変化が生じるのだろうか?


「気分はいかがですか? マダム」


 気を取り直すと、ピエールは優しく語りかけてみた。すると、カトリーヌは優雅に上半身を起こし、周囲に眼を向けると、枕元の椅子に腰を下ろしているピエールに視点を定め、

「長い夢を見ていたようだわ、ピエール」

 確かな口調で告げると、優しく微笑んだ。


「聖カトリーヌ!」


 エルザは反射的に驚きの声を上げたが、慌てて両手で口元を覆った。母子の会話を邪魔しないよう興奮を抑えているが、瞳が喜びで震えているのは隠せない。


「なぜ動揺しているの? あなたが私の息子ピエールだってことぐらい判るわ」


 それは二十年ぶりに、自分の名前を呼んでくれた懐かしい母の声だった。ピエールの美しい頬を一筋の涙が静かに伝うと、溢れ出そうな熱い感情を覆い隠すように、目頭を手で押さえた。そんなピエールを優しく包み込むように、カトリーヌは手を伸ばしてピエールの柔らかいダークブロンドの前髪に触れた。


「まさか貴方が長髪にするとは、想像してなかったわ」


 確かめるようにカトリーヌの指が、無造作に束ねたピエールの髪で遊ぶ。思わず、ピエールも笑いがこみ上げた。


「ジョワイユ―ノエル、ママン」


 それは奇跡が舞い降りた一夜の出来事であったが、同時に希望を胸に秘めた始まりでもあった。


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