不在の錬金術師

鍵崎佐吉

賢者の石

 何重にも施錠された古い金庫の奥、おそらく銀製だと思われる長方形の箱の中にそれは入っていた。一見するとルビーのようにも見えるその赤い石は、まるでずっとこの時を待ちわびていたかのように静かに輝きを放っている。この手のひらに収まるほどの小さな石の中に、太古から続く数えきれないほどの執着と欲望が封じられている。そう考えた時初めて、この仕事を引き受けたことを少しだけ後悔した。

「……形状、色、その他の特徴も文献と一致しています。まずこの石で間違いないかと」

 石を手にした女は淡々とした調子でそう告げる。随分あっさりしたものだな、と思うが俺にはその判断を覆すだけのものは何一つない。

「では、これが……」

「はい。賢者の石、ということになります」

 それは俺たちがもう引き返すことのできない場所まで来てしまったことを意味していた。


 事の発端は三か月前、陛下の持病が悪化しついに侍医団が根本的な治療は不可能だと判断したことに始まる。いくら一国の王といえど不死身でいられるわけではないのだから、それ自体は致し方ないことだ。だが陛下より十五も若い王妃にとってはそれは受け入れがたい現実であった。彼女はあらゆる手段で陛下を生かし続けることを望み、それはついに医学の範疇を超えた部分にまで踏み入った。

 王宮の宝物庫の管理という責任がある割には退屈な仕事を任されていた俺に、突然ある命令が下されたのは先月のことだ。曰く「宝物庫に眠るという賢者の石を探し出し、それを用いて霊薬エリクサーを精製せよ」とのことだ。はっきり言って正気を疑うような命令だったが、協力者として王立図書館から専門家が派遣されると聞いて俺は少し興味を覚えた。その専門家というのはいったい何者なのか。まさか錬金術などというものが実在するとでもいうのか。命令である以上どのみち拒否権などないのだが、そういった好奇心がわずかに俺のやる気を刺激したことは否定できなかった。


 そしてその協力者がやって来ると言われた日、俺の前に現れたのは魔女や学者ではなく一人の女だった。

「王立図書館から来ました、司書のソフィア・ウィングフィールドです」

「司書……ですか」

「ご不満ですか?」

「ああ、いえ、そういうわけでは」

 二十代後半くらいだろうか、爽やかな名前に反して女の雰囲気は暗い。顔立ちはそう悪くないのだが、その長い黒髪と笑みの欠片もない硬い表情が何か近寄りがたいものを感じさせる。

「ええと、ウィングフィールドさんは——」

「呼びづらいでしょうし、ソフィアでかまいません」

「……ソフィアさんは、錬金術の心得があるのですか」

「いいえ。ですがそういった古い文献の管理を任されていますので、相応の知識はあるつもりです」

 つまり彼女も錬金術などというものの存在を確信しているわけではないのだ。もちろん現代にはそんな神秘主義者はほとんど残っていないだろうが。結局のところ俺たちはこの面倒で馬鹿げた仕事を押し付けられただけの下っ端役人に過ぎなかった。


 しかし賢者の石らしき宝石は現にこうして見つかってしまった。そうである以上、我々もできる限りのことはやらなければならないだろう。

「それで、この石をどうすればいいのです?」

「最終的な目標はエリクサーの精製ですが、まずはこの石が本当に特別な力を持っているか試した方がいいでしょう」

「具体的にはどのように?」

「錬金術はその名の通り、金を生み出すための技術です。本物の賢者の石であれば、当然それも可能なはずです」

 彼女はそう言うと石を銀の箱の中に戻し、俺の方へ視線を向ける。

「これ、持ち出してもよろしいですか?」

「え、いや、ここにあるものは全て王室の所有物ですから——」

「その王室からの要請でこれを探していたのでしょう? まさかここに実験室を作るわけにもいきませんし」

 どうも彼女は本気でエリクサーを作る気でいるらしい。確かにそれが成功すれば大変な功績ではあるが、はっきり言って乗り気はしない。彼女の言うようにそもそもが王室からの要請であり、俺がここの管理責任者である以上さほど問題はないだろうが、かといって協力的になるだけの理由も見出せそうになかった。

「……ちなみにどこへ持っていくつもりで?」

「図書館です。資料はそこにありますし、私にもある程度の裁量が与えられています。実験をするなら最適な環境かと」

「しかし万が一紛失や盗難にあってしまえば、それが本物かどうかにかかわらず責任問題に発展しかねません」

 それだけのリスクを負ってまでやる意味がある仕事なのか、と暗に問うたつもりだった。その意図を理解したのかどうか、彼女は表情を変えることなく告げる。

「ではあなたも一緒に来てください。実験の結果を保証する人間が必要ですし、その方が報告の手間が省けます」

「え……」

 そういうことではないのだが、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。彼女の言葉に圧はなかったが、それだけに譲歩や妥協の余地も見出すことはできなかった。


 王立図書館は王宮から徒歩で行ける程度の距離しか離れていない。それでもここに立ち入ったのは今日が初めてだ。そもそも特定の芸術や学問に無縁な者はおよそ用のない場所なのである。その広大な敷地と荘厳な建築に反して、中には数えるほどしか人が見当たらない。そんな静寂に包まれた空間の中を彼女は迷いのない足取りで歩んでいく。そしてある扉の前で立ち止まると、古めかしい鍵を取り出してその扉を開けた。

「どうぞ」

 そう短く告げた彼女に続いて俺は部屋の中に入る。その窓のない部屋の中にはガラス製の実験器具や見慣れない形をした壺などが整然と並べられていた。

「これが錬金術の実験室、ですか」

「ここに残された文献を元に可能な限り再現してみましたが、予算の都合上当時の最高の環境には一歩及びませんでした」

「へえ、今より昔にこれより良い設備を用意できたんですね」

「錬金術の最盛期には各国の王侯貴族が大々的に援助をしていたようですから。この賢者の石はそういった研究の最も輝かしい成果と言えるでしょう」

 彼女はそう言いつつ銀の箱から賢者の石を取り出し、鉄製のビーカーの中へと入れる。これからその錬金術の実験とやらが始まるのだろうか。彼女は取り出した手帳に目を落しながら淡々と喋り続ける。

「ここには錬金術に関する多くの資料が残っていますが、残念ながらその信憑性はあまり高くありません。錬金術師を騙る詐欺師や一部の神秘主義者が書いた偽書も混ざっているからです」

「それはどうやって見分けるのです?」

「実際に試してみてこの目で確かめるしかありません。陛下の容態を考えるとあまりゆっくりしていられませんが、こればかりはしょうがないです」

 まあ向こうとしてもそこまで期待しているとも思えないので、仮に成果が上げられずとも罰が下るようなことはないだろう。そう自分に言い聞かせながら俺は部屋の片隅の椅子に腰を下ろす。どうも妙なことになってしまったが、要はここでこの女の実験を見守っていればいいのだ。風変わりな暇つぶしだと考えればそこまで悲観する必要もない。そうして失われた錬金術を再現するという途方もない実験が始まったのだった。


 使命が与えられたからと言って普段の仕事をまったくやらなくてよくなったわけではない。朝はいつもどおり王宮に足を運び、一役人としての仕事を終えてから図書館へ赴く。彼女は大抵例の実験室にこもって何やら複雑な作業をしている。それについて解説や進捗を聞きながら、一時間ほど実験の様子を眺めて家に帰る。彼女は住み込みで働いているようで、プライベートな時間を除くとほとんどこの場所にいる。いったいそれほどの熱意がどこから湧いてくるのか甚だ疑問だが、手を抜かれるよりはマシかと思いやりたいようにさせている。しかし彼女のその熱意は今のところ報われる兆しはなかった。

「……では、現状では金どころか何の化学的反応もしめしていない、と」

「そうですね。とはいえまだ残された資料の三分の一ほどの検証が終わっただけです。諦めるには早すぎるかと」

「まあ、それはいいんですけどね」

 彼女は落ち込む様子もなく平然と実験を続けている。最初こそいくらか興味を引かれはしたが、こうも変わり映えがしないとさすがに俺も色々と飽きてきた。次第に図書館へ足を運ぶ頻度も落ち、いつもと変わらない日常に戻っていく。所詮錬金術などただの夢物語でしかなかったということか。そう考えると少しでも期待した過去の自分が馬鹿らしく思えてくる。彼女はきっと今日もあの実験室でただの石ころを煮たり焼いたりしながら難しい顔をしているのだろう。そんな彼女がどこか哀れに思えてきたので、久々に図書館に様子を見に行くことにした。


 扉には鍵はかかっていなかった。部屋に入ると案の定そこには彼女がいて、しかしその様子は以前とはいささか異なるものだった。部屋の中央には木製の作業机があり、彼女は右手に金槌を持ってそこに向き合っている。その視線の先には、見紛うことのないあの赤い輝きがあった。

「おい、まさか……」

「ああ、いらしたんですね。危ないので少し離れていてください。これからちょっと石を割ってみようと——」

「やめろ!」

 顔を上げた女の目に動揺の色が浮かぶ。それは初めて垣間見えた彼女の人間らしい部分だったのかもしれないが、今はそれどころではない。

「あんた正気か? 何度も言うがこれは王室の所有物なんだよ。偽物でも一向にかまわないが、勝手に壊されると俺の責任になる」

「ですが——」

「もういい、こんな馬鹿げた茶番に付き合ってられるか」

 俺は石を奪い取り、そのまま図書館を後にした。


 宝物庫とは名ばかりの骨董品の集積場で俺はその石を眺めていた。その深い赤は血の色のようでもあり、夕焼けに照らされた海のようでもある。形はほぼ完全な球であり幸いどこにも傷はついていない。いっそのことあの女にこれを壊させた方が良かったかもしれない、と今になって思い始める。そうすれば少なくともこの件にこれ以上関わらないで済んだはずだ。こんなもののために時間を犠牲にしたり、あれこれ心配して余計な気苦労をするなんてそれこそ馬鹿げている。あの時、なぜあれほど感情的になってしまったのか自分でも理由はよくわからない。ただこの代り映えのしない日々の中で何かしらの変化を望んでいたのは確かだ。それこそ鉛を金に変えてしまうような、そんな劇的な変化を。

 ふと背後から人の気配を感じる。こんな場所にわざわざやってくる人間なんて一人しかいない。今さら態度を取り繕う気にもなれず、俺は横目で彼女の表情を眺めやる。いつもと変わらない不愛想な顔に、今は少しだけ別の何かが混じっているような気がした。低い声で、しかしはっきりと女は告げる。

「……先ほどはすみません。配慮が足りませんでした」

「まったくだよ」

 女は俺の語調の変化にやや戸惑ったようだが、それでも怯むことなく言葉を続ける。

「今後は石を傷つけるようなことは控えます。ですからどうかもう一度、実験をさせてください」

「……ずっとわからなかったんだ。なんであなたはこんなものにそこまで拘る? 本気で自分が錬金術師になれるとでも思ってるのか?」

 女には動じた様子はない。ただまっすぐ俺の目を見つめて、そしてゆっくりと語り始めた。

「本心を言えば、私は錬金術とか賢者の石とか、そんなのはどうでもいいんです」

 その言葉の意味を瞬時には理解しかねる。それは今までの彼女の言動とはかけ離れたもののように思えたからだ。そうであるならばなぜそこまでこの仕事に執着するのか。当然の疑問に対して彼女は淡々と答えを示す。

「王妃が錬金術の再興を望まれるまで、それらにまつわる資料は学術的価値の低い取るに足らぬものとして扱われていました。事実、そのほとんどは偽書や妄想を書き連ねただけのものでしょう。しかし現に賢者の石が存在している以上、そこに真実が含まれている可能性も生まれた。最悪、全てが偽書でも構いません。私はただそれを確かめたいのです」

「……では、錬金術など存在しなくてもいいと?」

「はい。私はあくまで司書ですから」

 変わった人だ、と改めて思う。しかし彼女もまた得体の知れない神秘主義者などではなく、自らの仕事に忠実な一人の役人なのだとわかった時、その印象が変化していくのを自分でも感じていた。

 俺は彼女に歩み寄り、赤く輝くその石を手渡した。

「くれぐれも扱いには気を付けてください」

「……感謝します」

 彼女の微笑みは思ったよりも自然で美しかった。


 それから一月が経った頃、ついに陛下は崩御した。悲嘆にくれる王妃をよそに、我々はもろもろの業務に忙殺されることになる。大半の者が予想していたことだとはいえ、国葬から皇太子の戴冠式まで為すべきことは山ほどある。ようやくひと段落着いた頃には誰もが錬金術のことなど忘れていた。実際エリクサーを必要としていた陛下が既にこの世を去ったのだから、これ以上そんな御伽噺を追いかける必要もない。だがそもそも彼女の目的は錬金術の再現ではないのだから、いまだ孤独に実験を続けていてもおかしくはない。そしてあの石を回収する責任のある俺も、この一件を忘れてしまうわけにはいかなかった。


 相変わらず図書館は閑散としていて静けさに満ちている。為政者が死のうとも歴史は決して歩みを止めることはなく、歴史を司るこの場所も変わることはない。本棚の奥にそっと佇むその扉にはやはり鍵はかかっていなかった。いささか不用心なようにも思えるが、邪な企てを持った者はそもそもこんな場所には来ないかと思い直す。

 部屋自体は以前訪れた時とほとんど同じだ。やはり彼女は俺が本来の仕事に追われている間も実験を続けていたらしい。部屋の隅に置かれた寝椅子の上で、彼女は仮眠を取っている。一瞬妙な誘惑にかられるが、やはりこの場所にはそういう邪な考えは相応しくない。起こすのも気が引けるので部屋の中を見渡してみるが、目的のものは見当たらない。机の上には謎のガラス製の器具が所狭しと置かれており、何らかの実験が行われたのであろうことが推測できる。その中の一つに俺はふと違和感を覚える。それはごくありふれたガラスの容器で中には透明な液体が入っている。その液体の中に、どこか見覚えのある輝きを放つ粒が沈んでいた。古来より人類を魅了してきたその輝きは、ここでは何よりも重大な意味を持つ。

「砂金……」

 俺の声に呼応するかのように背後から物音が聞こえる。振り返れば彼女は体を起こしながら少し寝ぐせのついた髪を撫でていた。

「……ああ、そろそろ来る頃だと思っていました」

「ソフィアさん、これは……!」

「はい。間違いなく本物の金です。この研究室で、賢者の石を触媒に鉛から精製しました」

 喜びというよりは安堵に近い表情で彼女は言った。

「どうやら錬金術は実在するみたいです」


 銀色の箱を金庫の中に戻し、俺は何重にも鍵をかける。再びあの石が輝きを放つのは何十年後か何百年後か、それは誰にもわからない。しかし確かに言えることは、今この場にはその力を望んでいる者はいないということだ。

「しかしエリクサーとやらも作ってみなくてよかったんですか?」

「正直に言えば多少の未練はありますが、そちらは金とはわけが違います。本当に不老不死の霊薬なのかは疑わしいですが、作ってしまった以上は試してみないといけませんから」

「陛下があと少し踏ん張って下さればいい実験台になったんですがね」

「……あなたも意外と言うことが辛辣ですね」

 そう言って苦笑を浮かべる彼女を見ていると、この仕事もそう悪くなかったなと思う。結局錬金術に関してはその詳細を公表することなく我々の胸の奥に留めておこうということになった。陛下が亡くなった以上もう報告の義務はないだろうし、そんな事実が明らかになったところで世の中に混乱を招くだけである。この世界に錬金術など存在するべきではないのだ。かつての賢者の石の所有者もそう考えたからこそこの石を封印したのだろう。

「色々とご迷惑をおかけしました」

「ああ……まあ、でも、終わってみればなかなか楽しかったですよ」

「そう、ですか」

 軽く一礼して部屋を去ろうとする彼女の背中を、ほとんど無意識に目で追ってしまっていた。

「あの」

 俺の呼びかけに彼女は立ち止まる。振り返ったその顔に浮かぶ表情には、少なくとも戸惑いは含まれていない。

「良ければ今夜、食事でもしませんか。……その、実験の成功祝いということで」

 誰にも知られぬ偉業を成し遂げた不在の錬金術師は、少しはにかむように微笑みを浮かべた。

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不在の錬金術師 鍵崎佐吉 @gizagiza

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