桃娘
夏空蝉丸
第1話
今から十年ほど前、新入社員の僕が中国の駐在員になったのは理由がある。中国語が喋れたわけでも、英語の成績が良かったわけでも、商品知識があったわけでもない。ホント、しょうもない理由。ただ、部内で一番酒に強いという、本当にどうでもよい理由だった。
六月の中国は肌寒かった。北京の緯度が東京より高いからであろうか。海外旅行は修学旅行以来という僕は、ネクタイを弛めながらもワイシャツのボタンは全て閉めたままだった。翌日、現地法人の社長である総経理がホテルに迎えに来てくれた。
「同じ出向者として、君の活躍に期待する」
神経質そうに話す総経理は、まずは代理店との付き合い方を説明してくれた。そして、数日後に連れて行かれたのが、代理店の劉さんの事務所だった。
劉さんは、五十代の髪の毛がかなり薄い男だった。テカテカと脂ぎった額は、精力的な印象を植え付ける。これで、大柄であれば威圧感がある。しかし、小柄な彼は穏やかな表情をして、好印象を与えている。
事務所では横柄な総経理が、敬語を使い下手に出ていた。
商社である僕の会社の代理店。しかも重要な業務であるプラント販売を一手に引き受けている。その意味は理解しているつもりだったが、それにしても他の代理店の人間と比較して、格別の扱いに感じられる。
「折角だから食事に行きましょう」
中国人にしては流暢な日本語で誘われると、総経理は真顔になる。
「今日こそは、我々に払わせてください」
「いえ、駄目です。折角、日本から来ていただいた客人をおもてなししなかったら、中国の流儀に反します。総経理、私に、恥、かかせるです」
温和な表情をした劉さんの強い口調に、総経理は曖昧に返答することしかできない。
僕たち三人は、タクシーに乗り込み、近くの五つ星ホテルの中華料理店に入る。大部屋ではなく、特別に用意された個室は、中央に丸テーブルがあり豪華な椅子が並んでいる。当たり前のように一番奥に劉さんが座る。僕は総経理の隣、入り口から一番遠い場所に何も考えずに着座する。
「佐藤さんに来ていただいたので、友人呼びました。一緒でよろしいですか?」
劉さんに言われて僕は戸惑う。助けを求めて総経理を見ると総経理は同意する意味で頷く。
「勿論です」
僕の言葉に劉さんは嬉しそうに微笑む。人の心を和ませるコツを良く知っている。
僕と総経理が硬い表情をしたまま待っていると、劉さんの友人が続々と部屋に入ってきた。劉さんは立ち上がり、中国語で挨拶をする。大きな声で話をしている。しかし、総経理はともかく僕にはさっぱり理解できない。唯一、理解できそうな言葉がニーハオくらいだ。まず会話にはならないだろう。
気まずさを感じながらも、気楽な気持ちになっていると、劉さんが僕のことを紹介する。
「この方が
劉さんに紹介をされ、してもらう度に僕は立ち上がり頭を下げる。全員の名前と顔を記憶する。駐在員の務めだと頑張ろうとしたが、顔だけではない。中国語の名前を覚えることすら難しそうだ。僕は、自分の記憶力の少なさを呪いながら頭を下げ続ける。十人程度、招待客が全員集合したのか、
「堅苦しい話は短くして食事をしましょう」
と、劉さんが中国語と日本語で大きな声を出す。呼びつけた店員に何か命令を下すと、グラスが用意された。一般的なコップを一回り小さくした透明のグラス。中には透明のお酒が注がれる。
「
隣に座っていた総経理が、顔を近づけて小声で囁いてくる。最近では白酒にも色々あるらしいが、用意されているのはアルコール度数五十パーセントを超える酒だ。どんな味がするのか興味津々ではあるが、警戒心も高まる。僕は総経理に聞かされていた中国でのお酒を飲むときのルールを思い出していた。
最近の中国では、ビールで軽く自らのペースで飲むというのもあるそうだ。しかし、僕が総経理から聞いた昔からの作法だと、白酒というメチャクチャアルコール度数が高いお酒を乾杯しなければいけない。
乾杯とは、文字通り、空になるまで飲むということである。グラスを逆さにして酒がありませんよ。と見せるのが通例である。もし、ここで酒が残っていてテーブルを濡らすならば、もう一回注がれて飲みなおしである。
それだけならば、大したことは無い。乾杯しなければいいんだ。普通の人はそう考える。だが、甘い。とっても甘い。乾杯するのにも作法がある。とっても迷惑な作法で、乾杯する相手を指名できるのだ。逆に言えば、飲みたくなったら相手を指名して乾杯しなければならない。日本人が居酒屋で好んでいるスタイル、自分で勝手にチョビチョビ飲んだりするのは厳禁である。
しかも、指名されたならば、返礼するのが礼儀である。
例えば、『佐藤さん乾杯』と言われたならば、乾杯と言って空にしてから、『xxさん乾杯』とやるわけである。つまり、一回、誰かと乾杯したならば、必ず二杯分飲むということである。アルコール度数が五十パーセントの白酒をである。
とりあえず、大人しくしていれば指名されないだろう。僕はルールを聞いた時にそう考えたが、説明していた総経理は首を振った。全員で乾杯ってルールもあり、これをやられると全員が乾杯しなきゃいけない。これだけは、どうやっても避けることができないんだ。と、総経理は泣きそうな声で言っていた。
「このグラス、小さいですね」
しばらく飲んで歓談していた劉さんは、そう日本語で僕たちに囁いてきた。何を意味しているのか理解できずに曖昧に返事をすると、劉さんは鄧老師に向かって中国語で話しかける。何の提案に同意したのか、鄧老師が頷くと、すぐに店員に命令が下され、普通サイズのグラスが人数分用意された。
唖然としていた僕の前にグラスが置かれ、予想を裏切らずになみなみと白酒が注がれる。さすがに、学生時代に
ウイスキーのストレートと大して変わらないだろ? アルコール度数から考えればそうかもしれない。しかし、自分のペースで飲むことも許されない。このグラス一杯で終わりそうにもない。考えるだけで、とんでもないところに来たと途方に暮れる。
それが、その日の最後の記憶だった。次に意識を取り戻したとき、ベッドでスーツ姿のまま横になっていた。生まれて初めて記憶をなくしたことにプライドが傷つく。なんとか、翌朝起きて定時に事務所に出勤できたが、この時、僕がとんでもない粗相をしていないか不安で落ち着くことができない。モヤモヤした気持ちで、蒼ざめている総経理に訊ねる。すると、辛そうながらもにこやかに笑った総経理に、『今日からお前が劉さんの担当だ』と告げられた。
下戸に近い総経理と劉さんは、馬が合わなかったようだ。酒だけではない。考え方も相当の違いがあったと後に聞いた。それと真逆に、僕と劉さんは親子ほどの年齢差があったにもかかわらず、妙に話があった。一週間に二、三回、劉さんに呼ばれて食事に行く。そして、決まって劉さんの友人たちが毎回現れるのだった。僕をだしに友人という名の客を接待している。そのことに気づいたのは、それほど時間はかからなかったし、気にならなかったが、毎回劉さんの奢りであることだけは頭痛の種だった。
「劉さんとの取引はでかい。けどな、あまり深入りしないようにしとけ」
総経理の言葉が棘として心臓に深く突き刺さっている。それでも、毎回、美味しいものを食べることができ、記憶をなくせるほど酒が飲めるという誘惑に耐えることはできない。他に重要な仕事を与えられていなかったということもあり、呼び出される度に、僕は劉さんの指定場所に向かう。
「先日、野生のハクビシン食べましたよ。美味しかったよ」
「ええっ? ハクビシンって食べるの禁止じゃないんですか?」
「勿論よ。私だけで食べたら駄目ね。鄧老師と一緒。老師は共産党の偉い人、しかも太子党の血縁者だから大丈夫。今度、一緒に行くか?」
「よろしければ是非とも」
「佐藤さんは酒も飲めるし美食家、私と気が合うね」
「謝謝」
僕が頭を下げると、劉さんは嬉しそうに笑った。
「ハクビシンは今度だけど、今日は面白い食事したいね」
劉さんと一緒に、周辺で片手に入る大きなホテルに向かった。席に着くと、鄧老師他、共産党の関係者が多数招待されていると話され緊張してくる。
その僕の様子が気になったのだろうか、
「以前話したプラント建設の商談の件、今日決まるよ」
横にいた劉さんが、僕の気持ちを和ますべく小声で話しかけてきた。
「本当ですか?」
「五億元(約六十五億円)のビックプロジェクトね」
「えっ? 入札で四億元じゃなかったんですか?」
すぐに一億元抜いていると気づいて大声を出しそうになる。テーブルの下で、肉に爪が食い込むほど強く握りこぶしを作り自制する。大丈夫だ。まだ酒は入っていない。
「うち、一割しか取ってない。ほとんどキックバックの金」
ばつが悪そうに答える劉さんは、言い訳をする。彼の主張を全面的に信じるならば、本来四億元のものを五億元で買い取り、九千万元を鄧老師のグループで山分けするとのことだ。それが真実だとしても劉さんは一千万元(約一億三千万円)を手にするのだから悪くない商売だ。
「佐藤さんはうちの社員になったらいい。そうしたら、今よりいっぱい給料払える」
「謝謝。その言葉を感謝します」
僕が丁重に断っているうちに、客人は次々に着座する。いつもの通り、白酒で乾杯し、料理に舌鼓を鳴らす。北京ダックや小龍包を目立たないように食べていると、劉さんが店員を呼びつけた。
少しすると、店員は、ワイングラスに入れられたオレンジ色の液体を持ってきた。
「これ、何ですか?」
「まずは飲んでみてよ」
劉さんに勧められるままに飲む。甘い果実のような匂いが鼻腔を満たす。舐めるように一口飲むと、桃の味がした。甘いだけではなく塩分もある。口の中にねちっこく残るけれど、それでいて嫌味が無い。白酒のせいで水分を欲していた僕は、ためらいもなく一気に飲む。
「美味しいですね、何杯でもいけそうです」
「それは良かった」
「ジュースにしては癖があるような気がしますが、一体、何の果物のジュースですか?」
「果物じゃないよ」
劉さんはニヤリと嗤って答えない。気になった僕は、酒を飲んでいたこともあり、自制せずに食い下がる。しばらくは、僕との会話を愉しんでもったいぶっていた劉さんだったが、突然、嗤っていた眼を鋭くする。
「少女の尿。これが正体ね」
「尿……ですか?」
「そう、造っているとこ見てみる?」
劉さんが、鄧老師に中国語で話しかける。一次会である食事会を老師の言葉で締めくくると、一行は別の階にあるカラオケ店に向かう。
鄧老師と劉さん、僕だけが店員に案内されて、他の招待客と別のエレベーターに乗った。店員が取り出した鍵を使い封印されているカバーを開くと、地下を意味するB1、B2、B3の文字が出てきた。エレベーターでB3の地下に降り、細い通路の突き当たりの部屋、そこからさらに隠し部屋に入ると少女がいた。
歳は十歳前後だろうか。綺麗な黒髪をしている。やつれているが可愛らしい顔をしている。肌の色が薄く、白人より白い。子供服からから覗く手や首筋は、きめ細かい肌をしている。
店員が中国語で少女に話しかける。頷いた少女は五百ミリリットルのペットボトルの液体を飲み干し、スカートを捲し上げて白いショーツを脱ぎすてた。
「な、何が始まるんですか?」
「面白い事ですよ」
劉さんは慣れているのだろう。いつもの笑顔を浮かべている。
僕は逃げ出したくなった。この場から早く安全な場所に脱出したかった。しかし、ここで逃げ出すことは四億元のプロジェクトを不意にするのと同等に感じられた。
いや、違う。それは言い訳だ。
僕は魅了されていた。
少女の美しい肌に。
苦痛の表情に。
ずっと眺め続けたかった。
否定することはできない。
否定しようとも体は反応して、血潮がたぎって抑えることなんかできなかったのだから。
少女が便座があるかのごとく屈むと、店員はガラスのボールを少女の陰部の下に置く。待っていたかのように少女の秘部から勢いよく液体が噴出される。アワビが水を吐き出す様はとても美しい。初めて見る穢れなき体から生み出されるジュースは、甘い香りを辺りに漂わせる。最後の一滴がポトリとボールに落ちると、店員は何事も無かったかのように、ガラスのボールから中身を魔法瓶に移し替える。
「後は片づけだけ。お愉しみは終わりね」
鄧老師も劉さんも店員のことは無視して踵を返す。こんな場所で置いて行かれたくない僕は、少女に背を向けた。彼女はミルクを生み出すホルスタインとどう違うんだ? 叫びたくなる心を閉じながら、隠し部屋を出る。
「勃ったか?」
劉さんに言われて、言葉を失った。訊かなくてもスーツのズボンを見れば分かるはず。羞恥心で息が詰まりそうになる。
「鄧老師は、あれ見ないと駄目なんだ。持病の関係でバイアグラを飲むことはできないね」
ホテル三階にあったカラオケに到着すると、コンパニオンの女性が並んでいる。僕らを待っていたかのよう。鄧老師は、一人の女性を指名するとそのまま出て行ってしまう。
「どうしたの佐藤さん」
劉さんに言われて戸惑う。あれだけ一緒に飲んでいたのに、酔いつぶれることが多かった僕には、初めてのカラオケだ。少なくとも記憶に残っている範囲ではない。どうすれば良いか判らずに固まっていると、劉さんが指で女性を示す。
「好みの女の人いる?」
「いえ……」
答えることができない。ルールは内心想像できたが、まごまごして立ち止まったままだ。そんな僕の様子を見かねた劉さんに、軽くだが何回も背中を叩かれる。
「どうしたの? 彼女たち選んであげないと、首になって不幸になるよ」
そう言われて、僕は戸惑いつつ背が小さくて可愛らしい娘を指名する。
「佐藤さんは、さっきの少女、よっぽど気に入ったね」
「さっきの少女の名前は?」
「桃娘(トウニャン)」
「桃娘ですか……」
「あれ見て我慢できないじゃない? 店員に部屋案内させるよ」
「でも……」
「お金? 今日のここは、鄧老師の奢りだから気にせず愉しむといい」
僕はカラオケから追い出され、指名した女性と店員にリードされてホテルの一室に連れ込まれる。
中国語のほとんどできない僕は、女性との会話に不安があった。しかし、部屋に入った途端、全てが吹っ切れた。女性を引っ張っていき無理やりベッドの上に押し倒す。
文句を言っているだろう口を噛みつくように塞いで舌を押し込んだ。抵抗する彼女を力づくで征服する。ざらざらした舌の感触に苛立ち、無理やり服をはぎ取ろうとする。
動物のような呼吸を繰り返しながら首筋に噛みつくと、彼女は僕に逆らうことが無駄だと知ったのか、全ての力を抜いた。
おもわず顔を上げ、彼女の表情を見る。
大きな瞳で天上を見ていた。涙が溢れ出すと河のように頬を流れていく。
ああ……、嘆息して仰臥する。僕の体は怒張していたはずだったが、いつの間にか萎えていて、その夜はついに脈打つことは無かった。
■ ■ ■
一か月後、僕は本社でビッグプロジェクトの受注を発表してから中国に戻ってきた。
建前上は総経理が受注したことになっているが、事業部だけではなく、人事部にも僕の活躍が報告されているとのことだ。そのことを聞いて、有頂天になっていた。自分自身が優秀な人間だと自惚れていた。
「佐藤さん、おめでとうございます」
携帯電話にかかってきた劉さんの声に、顔がほころぶ。
「いえ、全て劉さんのおかげですよ」
嘘ではない。本心からそう思っていた。僕はただ酒を飲んでいただけなのだから。
「来中のお祝いしたいけど、今日は大丈夫?」
「
先月と同じ顔触れで食事をすることになった。劉さんや鄧老師が今回のプロジェクトからどれだけお金を引き出しているかは知らない。コンプライアンスに触れる様な事をしているのは明らか。だから、僕は細部にタッチする気はない。ただ、受注できて利益を出せればいい。そのためには、接待に付き合うくらいなんでもないことだ。
白酒を飲みながら、肉料理を楽しむ。北京料理には美味しい肉料理が多い。その一例が北京ダックであるが、今回饗されている料理も絶品である。柔らかくそして甘い肉。経験したことのない味に魅了されていく。
「これには、コラーゲンが含まれてるよ」
劉さんに渡されたスープの中に入っていた丸い物。丸くてクラゲのようにコリコリしている。魚の目玉だろうか? だとしたら、かなり大きな魚だろう。それとも、これが噂していたハクビシンだろうか? 太子党血縁者の鄧老師がいる今日は、法律で禁止されている動物を食べたとしても逮捕される可能性は無い。ある意味、美味い物なら何でもありだろう。そう考えながら、満腹になるまで食べ続ける。
「佐藤さん、どうでした? 今日の料理?」
「凄く美味しかったです。また、食べたいですね」
「機会があれば、ただ、中々、用意するの難しい。後は、カラオケを愉しんでよ」
カラオケの言葉を聞いて、一か月前のことを思い出した。尿のジュース。白い肌の持ち主。記憶の中に鮮明に蘇る。
「桃娘、見に行ってもいいですか?」
「見たいの?」
「ええ、何となくですが」
「いいよ」
劉さんと僕は、先月と同じように地下室の隠し部屋に入った。しかし、そこにいた少女は、前回見た肌の白い少女ではなく、くすんだ肌の色をした少女だった。
「桃娘、いませんね」
僕が劉さんに話しかけると、劉さんは首を振った。
「いるじゃない、そこに」
「でも、もっと肌が白くて……」
「あれ、桃娘とは、桃と糖分だけを与えられて、甘い尿を出すようになった女の子たちのことよ。以前に佐藤さんが見た桃娘はさっきいたよ」
劉さんは下卑た視線で僕を見ると、ニヤリと嗤った。
終わり
桃娘 夏空蝉丸 @2525beam
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