2.

 それは週末を迎える朝方のことだった。

 窃盗容疑で逮捕状が出ていた40代男性が遺体で見つかった。

 遺体に切り傷やあざなどの外傷はなし。死因は明確には不明だが、おそらく凍死。だが、不審死でもあった。


「……」


 息を呑むような目の前の光景に、捜査員らはただ呆然としていた。その美しく儚く残酷な姿に言葉が見つからないのだろう。

 そんな埃が舞うリビングを埋めるように造形されていたのは、結晶石のような氷塊だった。ゴツゴツとした歪な形、明かりを照らすと部屋中を青く反射して不謹慎ながらも美しい。残酷なものほど美しいとはよくいったものである。


「妙に冷静ですね」


 楠は結晶石から目を離せずにいた。

 その美貌に見惚れているのか、残酷だと心の底では悲観しているのか、はたまた犯罪者だからといって割り切っているのか、彼女もまた冷静であった。


「……窪田さん、何か知ってるんですか?」

「なんでだよ。知ってるわけないだろ」

「……そうですよね!ただの窓際公務員ですもんね!」


 楠には見合わない真剣な顔つきは、いつの間にか消え、これまで通りの生意気な後輩へと戻った。一年に数回しか見ることのできない彼女の真剣な顔には思わず鼻で笑ってしまう。

 ハンディライトの明かりを消し、楠に一旦車へ戻ろうと声をかけると突然、ピコピコピコと誰かのケータイが鳴った。


「楠、ケータイ鳴ってんぞ」

「あ……よく分かりましたね」


 特徴的な着信音に脳がすぐに楠のものと判断した。これでも一年半近くはコンビを組んでいるので、彼女の性格や悪い癖は大体理解しているつもりだ。


「窪田さん、鈴木係長からです」

「えー……」


 つい先ほどグローブボックスへとケータイを投げ入れたのを思い出した。楠を経由して電話してきたのだ。


「ちょっと、私の携帯なんで流石にでてくださいよ」


 楠が差し出す青いスマートフォンを渋々ながら受け取った。


「あの、今忙しいんで、その、説教とかは後でにしてくれます?」

『説教?何の話だ』

「え?」

『え?』


 ケータイを耳にあてながら楠に顔を向けると、イェイ!とどっかの女子高生のごとく目の横でVサインをしていた。


「このクソ野郎が……」


 視線で睨みつけながら小言を吐く。


『何の話かは知らないが、公安の黑田警部補がお前に会いたいとうちの署を訪ねた。午前10時に名古屋駅構内にある喫茶店αで待っていると伝言も預かっている。そこは他の奴らに任せて、お前はそっちを優先して行きなさい。ただし、余計なことは口にしないように』



 指定された名古屋駅構内にある喫茶店αを訪れると、まだ10時前だというのに店内はどこも満席で賑わっていた。


「久々だね。窪田くぼた 謙一けんいちくん」


 突然、聞き馴染みのある声が鼓膜を振動させた。

 振り返ると、黒いスーツに黒いコートを身にまとった、長身でやや細身の男が俺を見下ろしていた。



 男に促されるまま椅子に腰をかけると、少し沈むような感触が尻に伝わった。さすが、喫茶店の椅子はどっかの西の署のものとは比べ物にならないほど座り心地が良い。そして、喫茶店の象徴ともいえる木で作られた床や柱はどことなく安心感があり心が落ち着く。

 しかし、せっかくの和やかな雰囲気も、向かいに座る黑田くろだ 和義かずよしという男の存在によって掻き消されていた。


「それで、用件はなんです?」


 自分から話を切り出した。

 この男から一刻でも早く離れたいという気持ちが、無意識と前に表れていた。


「早速だね。まずはコーヒーでも……」

「それはお構いなく。こちらも仕事が立て込んでいて、手短にお願いしたい」


 俺は置かれた水を口にすることなく、なるべく相手を睨みつけないよう普通の顔をキープした。


「そうですか、それは残念だ……。では、単刀直入に伺います。公安に戻る気はありませんか?」


 それは簡単な問題だった。

 考えるまでもなかった。

 まるで一桁同士の足し算のように、気づけば無意識と答えを口にしていた。


「ないです」


 不慣れな敬語で淡々と答えた。


「ていうか、そもそも一度辞めた人間は戻れないんじゃ?それがあんたら公安という組織だろう」

「確かに、あなたの言うとおり一度辞めた人間は二度と組織に戻ることはできません。ただし、それはこちらから一方的に捨てた場合の話です」


 黑田はコーヒーをひとくちすする。


「貴方は違うでしょう。自ら組織を去って行った」

「じゃあ仮に戻ったとして、既にお前らの情報を漏らしていたらどうする?」


 黑田は丁寧に口を押さえては、気味の悪い笑みを浮かべた。


「その心配はございません。こうしてあなたとお会いできていることが何よりも証拠です」


 黑田はわざとらしく咳払いをすると、ビジネスバッグから何枚かの写真を取り出し、机の上に一枚ずつ横に並べていった。

 

「これは一ヶ月前に撮影したものです。見覚えはありますよね?」


 五枚の光沢紙に写っているのは、つい先ほど目の当たりにしたものと酷似した水色の結晶石。おそらくこれが本題なのだろう。先ほどの通話で係長が口にした言葉の意味もなんとなく理解できる。


「立て続けにうちの者が何人かやられましてね。自宅を訪れたらこのザマ。まるで南極にでも行ったかのようです」


 黑田が指で示す五枚の写真には、それぞれ公安の職員と思われる遺体が、まるでそのまま時間が止まったかのように結晶石の中で閉じ込められていた。

 一人はコップと新聞を片手に、もう一人は睡眠中に。さらにもう一人はナイフを構えたまま息の根を絶っていた。襲撃には気づいたものの、一足遅かったのだろう。

 暗殺は先手を打ったものが必ず勝利する。たとえそれが強者であろうとも。


「彼らは皆優秀で勇敢でした。そんな彼らは今となってはこの姿。最期まで自らの命を国のために尽くした勇敢な警察官五名に、敬意を表します」


 黒田は前額部に右手をあてて、軽く敬礼をした。

 それとは対に俺は腕を組んで、天井を支える木の柱を見上げて思考を巡らせた。

 公安とは昔から犬猿の仲だとか言われており、今自分が置かれている立場はただの所轄の刑事。しかも、係長からは何も喋るまいと釘を刺されている。その時点ですでに答えるべき回答は決まっていた。


「力になれず申し訳ないが、情報提供なら他をあたってくれ。俺はもう公安じゃない」


 毅然とした態度でそう告げた。


「いえ、情報なら既に掴んでおります。もちろん、ホシの身元は特定済みです。私が貴方に求めているのは情報提供や犯人逮捕といったなまぬるいものではない」


 黑田はさらに、ビジネスバッグの中からL判サイズの写真を一枚取り出し、机の上に丁寧に置いた。


「貴方が今までやってきたことを、これまで通りやっていただければいいのです。現代社会の害虫駆除、通称狩りを」


 すると、黑田はステンレスのスプーンでコーヒーをすくっては、L判サイズの写真の真上で皿をゆっくりと傾けた。

 徐々に黒く染み渡っていくL判の写真を、俺はただじっと見つめていた。

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レーヴェンの天秤 謎崎実 @Nazosaki

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