第37話 災い転じて"匡衡衛門" (1)
寛和元年(985年)、四月も終わる頃になって、藤原斉明の件は終わりを迎えた。
と言っても、斉明は既に射殺され、事件の真相を詳しく知ることはできない。
だが、保輔の行方は、まだ分からないままだった。そこで、捜査は引続きコツコツと勧められている。
だが初夏を迎えると、使庁の中は全くの別件で忙しくなった。
この年は、雨に恵まれない年であったようだ。
各国から 『日照りが続いている』 という情報がもたらされ、朝廷では祈雨の神事が行われた。
平安時代から今に至るまで、都の水源地として尊ばれている"
また、花山天皇の子を宿した女御・藤原
暑くて雨の降らない夏は、いろいろと世の人々の心を不安にさせるようだ。
そこで願掛けを兼ねて"
都には、東に左の
やっと藤原斉明がらみの地方出張が片付いたばかりなのに、今度は、忠明達のような下っ端の留守番組が大忙しである。
『……それにしても、囚人を放ったところで、どの程度の
そう思いながらも、囚人達の罪状や、現在の状態などを必死に調べ上げ、皆で話し合った。
恩赦するなら、せめてもっと早く教えてほしかった。……とはいえ、こればっかりは事前に知ることはできない。
そこで、とりあえず二つの獄の囚人達をチェックした結果、
1.健康状態に問題がある者 (獄の中では死んでもらいたくないから)
2.刑が軽い者
3.再犯性が低く、人柄も悪くない者
4.そして、放免として使えそうな者
……そういう観点から人選し、なんと、三十人余りを免罪することになった。
そんな訳で、この年の平安京には、沢山の放免達が解き放たれることになったのである。
そして、そんな緊急事態がやっと片付いたある日のことだ。
忠明は、朝早く日の出と共に使庁に出勤していたので、昼近くなると腹が減り、食事を取りたくなった。
因みに、いつも使庁で食事を取る時は、入口近くにある官位が低い者達が利用する"
季節は、もうすっかり夏だ。入口に近いからといって、特別に風通しが良いわけではないが、床子座は、土間の上に
ところで、床几を御存じだろうか?
床几とは、時々、時代劇の中で見かける昔の簡易ベンチのようなものである。
そこで食事を済ませたら
この季節になると、食べ物の安全性をチェックするのも一苦労だ。
そこで忠明は、なるべく食べる直前に若竹丸に飯を持って来させている。
やはり、朝早く用意した食事を持ち歩くのは危険だからだ。
早速、日に干してカチンカチンに乾いた
食事といっても、
ただ、若竹丸が汲んでくれた新鮮な水が喉を通るのが心地良かった。
暫くすると、睡魔が襲って来たので、いよいよ床几を独占しようと足を伸ばす。
ずるい話だが、眠ってしまうと、邪魔だからといって大きい忠明を排除してまで座ろうとする者もいないのだ。
……つまり、眠った者勝ちなのである。
だが、その日はいつもと違っていた。体を伸ばした途端に、何やらもちりとした人の存在を感じたからだ。
どうやら、誰かが割り込んで来たようである。
『このクソ暑いのに、一体、誰なのだ? 』
よく見ると、
「……はぁ? 」
「よう、息災か」
「何を申されるかと思えば、……
今でも時々、錦部文保は忠明が使庁で働き始めた頃のようにからかいに来る。
『いまだに子供扱いなのか? 』
と、迷惑に思うこともあるが、文保には全く邪気が無く、むしろとても嬉しそうなので咎められない。
「貴方様のように、功を立てられた方が、このような下賤の者達の処に参られるとは、
文保は、藤原斉明の件で褒賞を得た為、そろそろ官位が上がるのではないかと、
「……いっそ、お上の方々の処で
最近は、忠明も負けていない。ここぞという時には、上手い返しができるようになった。
「ハハハ、……あの様な処では
何だかんだと言いながら、実は嬉しそうに笑っている。
確かに、少しぐらい出世したところで、身分の低い生まれの者が高位の者に話を合わせるのは気疲れするのだろうし、それに、時には
「そなたこそ、床子座で随分と寛げるようになったな、目覚ましいことじゃ」
『 ……本当に、心の底から褒められているのか? 』
そんな風に疑問に思いながらも、結局、この御仁の話し相手になっている。
しかし、本当は夏の暑さと、恩赦の準備に追われて、ここ数日の間、ゆっくりと眠れていないのだ。
それでも人の良い忠明は、ちょっと困ったように姿勢を正すと、かまって欲しそうなオーラを出している文保の方に顔を向けた。
「あぁ、それで、……そちらの追捕の件は、何かございましたか? 」
それとなく、仕事の進捗を聞いてやる。文保は忠明達とは違い、まだ南家の保輔のことを追っているのだ。
「まぁ、……まだまだじゃな 」
「はぁ、さようでございますか。……ならば
忠明は強引に眠ってしまおうとした。
「こりゃ、待たんか、良い物をやるで! 」
そう言うと、文保は紙包みから何かを取り出した。
それは
「
にっこり笑いながら手渡された。
まぁ、夏のおやつの定番ではあるが、……何だか、やっぱり扱いが子供っぽい。
「はぁ、……胡苽ですか。では
胡瓜だけでは物足りない。ついでに塩でも付けて欲しいところだ。
「そなた、随分と
そう言うと、文保自身がバリバリと胡瓜を食べ始めた。
「恩赦の件、そちらはちゃっちゃと終って何よりじゃ、……わしらの方は、さらりとは進まんのでな」
やはり仕事の愚痴を聞いてもらいたいようである。
「それはそうと、
確か数日前に事件の報告も兼ね、文保が匡衡の見舞いに行ったと聞いたが、
「おう、よう聞いてくれたわ! 」
そう言うと、文保が喰いついたのである。
検非違使忠明、罷り通る! クワノフ・クワノビッチ @lefkuwanofkuwanowich2
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