第4話 家族

私、40歳の時に離婚しました。

理由は、相手は友達優先の人だったからです。家族旅行なんぞもしません。友達と行ってしまうのです。

別にそれは気にしてませんでした。そう言う人だとわかって結婚したから。

しかしながら、息子が難産の末に知的障がいがあることがわかってからは

私も悩みましたし、療育センターに通ったりで上の娘もいるしで精神的に参ってましたが、まーったく気にしない。

だいたい、最初の診断の話は両親で来いと言われたのに、「俺が行っても結果が変わる訳じゃあるまいし。」と来ませんでした。

その頃から、喧嘩するようになりました。

子供の頃から義母と父の修羅場の喧嘩を見せられた私としては、子供に見せたくない。

まあ、距離おこうかと別居してからの離婚でした。

娘は相手が大好きだったし、離婚しても親子なので好きなよえに会ったりしてますし、相手のお姉さんとも連絡したりしてます。

息子の子育ては通学は親かヘルパーさんでが必須。朝のヘルパーさんは見つからない。朝送ってから急いで仕事へ行くと言うのを高校生までやりました。

養護学校は遠いので、ケアマネの仕事は時間的に困難となり、今のゆるーい職場を同期から紹介されて行くことになりました。

チンパンジー息子は思春期には腐ったみかんのようにあれあれ。

始めの一年は我慢しましま。子供に手を挙げるのが出来なくて。

しかーし、荒ぶる思春期男子はやりたい放題でせ。

「女のくせに黙ってろ!」と言われてカチン‼️

そこから、大きな鍋蓋と布団叩きを武器に戦いです。

救われたのは同級生の男の子を持つお母さん達です。どこでも同じような事が起こってる事がわかり、過ぎるのを仁義なき戦いで乗り切るしかないなぁと。

そんな息子も彼に寄り添ってくれる所が見つかり、今はグループホームと作業所で

やってる?ような、知らんけど。


ゴリラ娘はお母さんの記憶は中ニまで無いと言うんです。たぶん、ゴリラの事をほったらかしにしてた?みたいです。覚えないけど。

今の職場で仕事ものんびりで有給なんそも使える!初めてですよ。

定時上がり、時間に余裕ができたんですね。

そこからのわがままは凄かった。

うーん、これは子供返りなんだろって、はい、はいとできることはやりました。

ゴリラ娘には、すり込みをして作業療法士はいいよー、食いっぱぐれ無いし、看護師みないに夜勤ないしと。それで大学はそこに行かせて、まんまと作業療法士になりました。大学の課題はほぼ私がやりましたけどね。

ゴリラ娘のいい所は患者さんを大切にしてるところです。これだけは自慢できますね。あとはだらしないし、どうしようも無いです。


子育ての結果はわからないです。

何が何だかわからないうちに過ぎました。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新年の自己紹介 菜の花のおしたし @kumi4920

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ