三十 傀殺し
すとん、すとんと小気味よく、澄んだ白が切れていく。両手にみずみずしさが伝わって、丸いかたちがたくさんできていく。
もうすぐ、夜が明けるころだ。みんなが仕事から帰ってくる。こちらでは、朝餉のしたくをしていた。
すぐそばの囲炉裏には、串に刺した魚の干物が立ててある。じゅわじゅわと、焼けていて、おいしい匂いが漂っている。焼き加減を、
千世は、味噌汁の用意をしていた。床に置いたまな板の上で、具を切っていく。今日は大根と葱。葱は、さわると手が葱になる。
「千世、味見」
横から沙那が言うので、口を開けると中にあたたかいなにかがほうり込まれた。口を閉じれば、ほろりとほぐれる。ほどよい塩気のある、やさしい味が広がった。千世は頬に手を当てて、うなずいた。
「おいしいか。よし」
沙那は立ち上がり、つぎはかまどのそばにいる小兎にも味見をさせた。おいひいでふ、と小兎はしあわせそうに言った。
干物はときどき、持ってきてくれるひとがいる。大きいものは、いつもはわけっこしている。けれど今日は、ひとりひとつ、大きいのを食べる。沙那が決めた。早瀬と千世に、すこし嘘をついていたから、ちょっとしたお詫びなのだという。
千世は切り終えた大根をそっと鍋に入れた。ぶちまけて、そこらじゅうに水を飛び散らせたことがあるので。
「早瀬さんも喜ぶかなあ」
小兎が言った。囲炉裏のまえにもどってきた沙那が肩をすくめる。
「どうかな。でもなにも言わないほうがいいよね。また面倒なことになる」
それを聞いて、小兎が笑った。
「たしかに。さっき謝ったときも、おれたちより申し訳なさそうでしたよね」
「そう。この魚にはお詫びの気持ちもあるよとか言ったら、今度は泣くかもしれない。面倒だ。とても」
沙那は串を灰から抜きつつ言う。目に浮かぶかもとおもいながら、千世は鍋に蓋をした。
どうやらここに来たときから、早瀬はみはられていたらしい。この国の主もかかわって、早瀬を試していたらしい。みんなもそれを知っていたようだ。いままでなにも言わなくて、申し訳ないと詫びられた。早瀬が執廻署に呼ばれたのは、それを明かすためと、早瀬に会いたいと言うひとのためだったようだ。
早瀬のお目つけ役を任された代わりに、
瑞延が、ちょっと寂しそうに笑っていた。沙那がとなりでごめんと言って、小兎はうつむいていた。緋高は囲炉裏の炎を眺めていて、
最初、早瀬は傀に襲いかかろうとして、押さえ込まれるなどしていたのだ。それに、ここのひとたちに会うまえだって。だから無理ないだろうとおもった。あれは、およそ尋常の様子ではなかった。みていて、ずっと不安だったのだと、いまならわかる。みんなでみはってくれていて、よかったとおもう。
執廻署からもどってきた早瀬は、みんなにごめんと言われて困っていた。お屋形さまや、みなさんに迷惑をかけて、わたしのほうが申し訳ないと言っていた。
そのあとすぐに、すがたがみえなくなった。さがして外へ出てみると、白かった。こまかな、雪が舞っていた。心臓をきゅっと掴むつめたさで、風が荒れていた。早瀬は、どこかへ行こうとしていた。千世はそれを、追えなかった。
北の山へ行くのだとわかったから。眠れないとき、早瀬がいつも北の山へ行っていたことは、向かう方向からなんとなく知っていた。そういうとき、千世は早瀬を追いかけることができない。雪の中を歩いていく早瀬を、千世はただみおくった。
雪は、風にあおられ舞い飛んでいただけで、すこしも積もらなかった。早瀬は、日が暮れるまえにはちゃんと帰ってきた。みんな仕事へ行った。
今回からは、暁城のみはりもまた始まって、尽平が向かった。早瀬は、斎丸と北の櫓にいることになったようだ。斎丸と早瀬がふたりで仕事をするのは、ひさしぶりだ。はじめのころは一緒にやることもあったけれど、途中でいろいろと、起こったようだから。それまでやっていたくじ引きを緋高が中止して、いろいろお世話をしていたみたいだ。今回からくじ引きがよみがえった。
「斎丸と早瀬どうだったかな」
沙那がつぶやいた。
「しょうもないことで怒ったりしてないかな」
すると、かまどのまえの小兎が立ち上がり、板の間に上がってきた。
「斎丸さんがしょうもないことで怒って、早瀬さんが謝って、斎丸さんはもっと怒って、早瀬さんはもっと謝ってって、朝までずっとそれだったりして」
おかしそうに、なんだか恐ろしいことを言っている。沙那がふきだした。
「どうしよう。目に浮かぶかも」
「ですよねっ、でも、そうやってたら、だんだんだいじょうぶになる気もします」
「そうかな、そうかもね。斎丸も、だいぶ突っかかってるからね。願い下げなやつにはそもそも突っかからないからな」
そうですよと応じた小兎が、ふいに千世に、にこっと笑いかけてきた。ほっとほぐれる笑顔。千世がうなずいてこたえると、小兎はにこにこしながら、かまどのまえへもどっていった。
千世は鍋の蓋を開けた。湯気がふわあと広がって、中がふつふつ沸いているのがみえる。大根が、くるくると踊っていた。きっとまだ、硬い。もうすこしだ。急ぎすぎて、生煮えだったことがある。味つけはわるくなかったのにしょっぱかった。大根だけ取り出して、ひとりでぜんぶ食べようとしたのに、早瀬がくださいと言って食べてしまった。おいしいらしかった。あれはもういや。
「千世、だいじょうぶだよ」
沙那が言った。千世ははっとして沙那をみた。手際よく、魚から串を取り除いている。顔を上げて、さっぱりと言った。
「早瀬はだいじょうぶ。なんだかんだいつも、ちゃんと千世のところに帰ってくるでしょ?」
わたしが言うのもなんだけど、とつけ加えて首をかしげている。ほんとうに沙那は、ひとのおもっていることがみえるのだとおもう。
「ほらみて。小兎の顔がまた南天みたいに……」
「黙ってくださいよ沙那さんは!」
「小兎のほうがうるさいのに?」
「だれのせいなんですかっ!」
小兎は頬を赤くしていて、沙那はそれをみて、くすくす笑っている。あったかい。だいじょうぶ。そうおもったときだった。なにか、聞こえた。
「なに?」
小兎が顔をこわばらせる。沙那がさっと立ち上がり、土間に下りて戸を開けた。そのとき、また聞こえた。ひとの、声だ。叫んでいる。
「なにか出たの」
沙那がつぶやく。
「様子をみてくる」
言いおいて、外へ出ていった。戸が閉まり、部屋はしんと静まり返った。
「え……」
小兎がぽつりともらした声は、火花の散る音にかき消された。そして、すっと戸がひらく。
「沙那さん……」
戸のまえに立った沙那は、小兎に小さく笑いかけた。
「だいじょうぶだよ小兎。だいじょうぶだから、おいで」
そして、千世に手招きする。
「千世も来て」
千世はうなずき、草履をひっかけて沙那に駆け寄った。沙那は固まっている小兎の手を引き寄せ、千世の手も取る。ひとの、叫び声が聞こえた。怖がっている。泣いている。悲鳴だ。ぐらぐらと、湯の沸き立つ音に混じり、だんだんと、近づいてくる。
「寄合所まで行く。村のひとたちと一緒に」
沙那は、いつもどおりに落ち着いている。なにも言わない小兎の手を、ぎゅっと握るのがわかった。
「
小兎がひゅっと息を飲むのが聞こえた。千世は沙那とつないだ手に力をこめた。傀が出ても、みんなが遠ざけてくれるはずだ。それなのに、こうして逃げなければならない。それはつまり、遠ざけることができず村の中に入ってきたか、入ってきそうということだろうか。
「ずっと出てこなかったからね、なまってるんじゃないか。たぶんすぐ帰るでしょ」
沙那の口調はかるい。
「行くよ」
沙那に手を引かれ、外へ出る。千世が戸を閉めると、沙那はありがとうと笑った。そのとたん、切り裂くような風に巻かれる。頭の上には、夜明けまえの黒い空。稲妻のようにひび割れて、かすかにひかりが、のぞいている。三人で、垣の内から出る。悲鳴が近づいてくる。村のひとたちが、こちらに向かって細い道を走ってくるのがみえる。
「こっちです!」
沙那が、ひとびとに向かって声を張る。
「だいじょうぶです! 寄合所に向かって!」
沙那は、走ってくるひとたちを落ち着かせて、案内しようとしているのだとわかった。沙那の声を聞き、こたえるひとたちがいる。沙那と一緒にみんなを励まして導き始める。ひとびとが近くまで来て、横を通り過ぎるとき、沙那は小兎と千世の手を離した。背中を押した。
「先に行っといてね」
そう言いおき、きびすを返して
沙那さん、とうしろで小兎がつぶやく。声が、不安そうに揺らいでいる。千世は小兎の手をぎゅっと握った。その手は、小刻みにふるえていた。振り向くと、頬を引きつらせていた。笑おうと、している。
笑みのかたちに顔を歪めた小兎は、千世の手を離し、横に並ぶ。顔から血の気が失せている。どこをみているのか、わからない。怖い。怖いのだろう。小兎はちょっぴり怖がりだ。でも、鼠を恐れていたときとは、なんだか様子がちがう。あのときよりも、落ち着いているのに。千世は、胸がざわざわするのを感じた。小兎は、だいじょうぶだろうか。沙那は、なにをするのだろう。先導してくれるひとのあとに続きながら、振り返る。瞬間、ぞわりと背筋が凍った。
みえたのだ。お墓のない方向、田畑と家々の向こう。そこに、いる。ばけものがいる。
そのすがたは、異様だった。まな板だ。遠目にも家より大きな、まな板。ひととおなじような、手足が生えている。筋張った、屈強な手足だ。
それだけではなかった。まな板から、飛び出している。目玉が、いくつもいくつも。裏からも、表からも。丸い目玉が、ぎょろぎょろ出ている。ふいにそのひとつが、からだから、離れる。素早く飛び、地面にぶつかってはずみ、そしてからだへ、もどる。赤色の紐のようなものが、目玉とからだをつなげている。ふたたび目玉が放たれ、もとへ帰っていく。それが幾度も幾度も、裏でも表でも、繰り返されている。
「千世さんっ」
小兎の悲鳴で、千世は我に返った。足が止まっていた。横を、すこし遅れたひとたちが通り過ぎていく。危ないよ、こっちだよと、だれかに手を引かれた。千世はうしろを向いたまま、足を動かした。
みえる。目玉を飛び回らせているばけものがみえる。長い棒を手に、そちらのほうへ走っていく沙那がみえる。きっと、みえないけれど、あのばけものの足もとでは、みんなが戦っている。だから、あのばけものは目玉を、おのれのまわりにばかり飛ばしているのだろう。
けれど、いつものように、遠ざけることはできなかったばけもの。そしてあんなに大きくて、目玉を使う。いま、強いのだろうか。それなら。それなら、もしかして、だれかが。傷ついていても、おかしくない。
そのとき突然に、景色が真っ赤に染まる。木戸を突き破って飛び込んできた、ばけものを目のまえにみる。もうこの世にない忌まわしいすがたを、はっきりとみる。そのうしろから、髪を振り乱し、細長く伸び、びたびたと跳ね、牙をむき出すばけものたちが、襲ってくる。声が、聞こえる。叫んでいる。走って。とよが言う。走って、絶対止まらないで。走って。
いやだ。そんなのいやだ。でも、くる。迫ってくる。赤い、血をからだじゅうにかぶってもすべてはじき、まき散らし、ひたすら奪い、それでも飽き足らずひたすら、奪いながら。
そう。そうだ。奪った。あのものたちが奪った。壊した。侵した。みんなを。みんなを、殺した。殺した、なぜ。なぜ。なぜ、そんなことになった。わたしが。わたしがいたからだ。わたしが、ものしするものだから。それなのにあのときは、なにも、知らなかったから。知っていることに、気がついていなかったから。
千世は、だれかの手を振りほどいた。驚くまわりのひとたちに、うなずいてみせ、きびすを返す。そして目玉のまな板に向かい、駆けだした。
うしろで、小兎の声がした。呼んでくれるひとがいた。だいじょうぶ。だいじょうぶだからと念じながら、沙那の背中を追いかける。走る。沙那が、寄合所のほうへ行くようにと、叫んでいる。ときおり、ひととすれ違う。まだ逃げられていないひともいるのかもしれない。沙那はきっと、そんなひとたちを連れていくためにこちらへ来たのだ。
「千世?」
振り返った沙那が目をみひらく。駆け寄ってくる。
「なにしてるの」
顔も、声も厳しかった。持っているのは、槍だった。千世は沙那をみつめ、胸に手を置いてうなずいた。
「だめわからない。早く行って」
沙那は千世のからだの向きを変え、背中をどんと押す。つんのめってしまう。正面に、ひとを背負って逃げるひとのすがたがあった。
「千世!」
沙那の声。うしろ。勢いよく迫る気配。直後、降ってきた玉が地面を叩く。まえにいたひとたちが転ぶ。目玉がこちらに飛んできたのだ。地を掘り返し砂埃を上げ、一瞬にして遠ざかる。
「千世! 逃げて!」
千世は振り返る。ばけものが、こちらを向こうとしているのがみえる。
裏、表、そんなのはやっぱりわからない。どちらにも、たくさん目をくっつけて飛ばしているから。けれどとにかく、目玉のついた面が、こちらを向こうとしている。また、目玉が来る。ひとの、頭ほどの大きさ。千世の頭を、狙ってくる。
「さわるな!」
聞いたことのない怒声とともに、眼前で目玉がはじけ飛ぶ。黒があふれる。
「伏せて!」
鋭い命令にからだが従ったとたん、びゅんと背の上を目玉が横切る。びたびたと、すぐそばに黒が落ちてくる。衿もとからこぼれた矢立と帳面が、目のまえに散っている。頭をもたげればすこし先に、おなじように地に這いつくばったひとたちがいる。
「立て!」
沙那の叫びが聞こえる。
「走れ!」
目玉が、まえにいるひとたちへ向かう。かばい合うふたりのすぐ横に、降る。地を揺らし、また降る。立てない。逃げられない。そんなふたりをいたぶるように、すれすれをかすめて遠ざかる。くろい、黒い、くろい血が、まわりの地面を染めていく。走れ。また聞こえる。走れ。走って。止まらないで。
「千世!」
ああ。
千世は、立ち上がった。振り向いた。さきほどよりも近くなり、そびえ立っている、ばけもの。目玉は、いくつだ。一面に、九つか。どれもせわしく、動いている。振り仰ぐ。ほんとうの目玉は、どれだ。
すぐに、わかった。ひとつだけ、動いていない目玉があった。いちばん上についている、それ。ぴかぴかした黒い瞳。きょろきょろとさまよう。
それが、おまえの目か。
さがしているのか。
ならばその目で、みろ。
みろ。わたしを。ものしするものを、その目を、みろ。
もの
見ろ。
苦しめ。戻れ。
死ね。
────────
第二章 巨魁 おわり
次話より 第三章 魘夢
悉傀記 相宮祐紀 @haes-sal
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