二十九 信を置く

 尚孝なおたかは、四年前に鞘野さやのの家を継いだ。鞘野が治める良庫国らくらのくには、鞘野が治め始めたそのときから、内に大きな火種を抱えていた。

 暁城あかつきじょう四郎党しろうとうだ。暁城の周辺は、昔からよく栄えた町であり、国の中の国という様相ではあった。しかし面倒ごとはなかったのだ。古弓ふるゆみ家が、国を治めていたころは。


 その古弓家は十三年前、臣に背かれた。謀反の先頭に立ったのは鞘野だ。尚孝の父だ。そのとき十三だった尚孝は、それが初陣だった。父に味方する者、父をまつりあげる者は多かった。

 暁城の者たちには勝手にさせていたかつての主君だが、不満を持つ者は多くいたのだ。少しの不手際を責めて家人を処刑したことがあり、民を手討ちにしたことがあり、戦のときには正体のわからぬ荒くれ者を雇い、放火させたり略奪させたりするのがつねだった、からだろうか。

 ともあれ父は謀反を起こした。主君だった古弓家当主は死に、古弓に従っていた者たちも下ってきて、鞘野は勝利を収めた。主君を蹴落とし国の主になった。

 古弓一族は自害する者もいたが、当主の娘である姫君が生き残っていた。その姫は、とらえて鞘野の屋敷に留め置いていた。尚孝より四つ上の容姿端麗な姫で、名はてるといった。おなじ屋敷にいたが、尚孝は会ったことがない。ずいぶんなべっぴんだと、眺めたことがあるだけだった。


 謀反のあと、父は鞘野に味方した者たちとよく話し合い、ひとりで力を握ろうとはしなかった。そのためいわば、慕われていた。大きな力はないが、国をまとめることができていた。しかし、なんだろうか。家の中では力を濫用してしまった。照をひそかに妻にしたのだ。

 尚孝の母は、そのときすでになかった。しかし父には継室も側室もいた。かのひとたちは、父が年若い姫を娶ったと知り、おだやかではいられなかったらしい。

 だから照は、逃げた。謀反のときどちらの側にもつかなかった、暁城へ逃げた。わかっているなら追いかけられるはずだが、それはできなかった。照は、巨大な獅子の背に乗っていったためだ。

 このあたりに獅子などは住まないし、ちょっと尋常でない大きさだったため、間違いなくくぐつだ。しかし傀は、ひとを背に乗せて走ることなどしない。気まぐれにやってきて、ひとをもてあそんだり傷つけたりするだけのばけものである。照は、そんなばけものにおのれを運ばせた。そして暁城は、傀のいる城になった。照が頭目となり、四郎党とか名乗るようになった。獅子の傀が、四郎しろうというらしい。


 ただごとではなかったため、父も照を連れ戻そうとはしなかった。照は、傀に言うことを聞かせられるのかもしれないのだ。そのようなことはありえないが、そう考えないと説明のつかないことが起きた。

 加えて四郎は傀であるので、いきなり暴れだす恐れはつねにある。そこで夜には城下の町周辺に傀廻しを配置することとなった。暁城に近い吊頭所ちょうとうしょから、ひとりずつ出させる。それはいままでずっと続いている。


 ただし照は、町を思いのままに支配しようと考えたわけではなかったらしく、体制は変わらなかった。町の者たちの仲裁役にとどまっていた。

 そして謀反から二年後だった。戦になった。古弓の忠臣が、暁城に集まり策を練り、蜂起したのだ。これは痛手をこうむりつつも、鎮圧した。大将ほかを処刑した。

 残った照や、暁城をどうするかと、父が考えていたときだった。照が、おのれや町の者たちは巻き込まれただけなので、どうか許してほしいと訴えてきた。


 父は、暁城をほうっておくことを決めた。しおらしいことを言っているが、粗雑に扱えばなにをするかわからない。よって捨て置くほうがよいというのは父だけの意見ではなかった。

 四郎が、突如消えたせいでもある。見張らせていた忍びが見失い、見つけられなくなったのだ。とても大きな獅子なので、生きていても死んでいても、見失うなどということはないはずだ。動けばすぐにわかるはずだ。それにもかかわらず、どこにも見当たらなくなった。

 なにかあるのかもしれないと、みな考え恐れていた。しかし、慣れてきてしまう。四郎党がおとなしかったからだ。四年前には、父が世を去り尚孝が家を継いだが、とくになにかする様子はなかった。蜂起のあとからは、それまであった東の隣国からの助けもなくなったらしく、細々とやっているようだ。


 しかし、きっとなにかあると、尚孝は踏んでいる。おそらくまだ、どこかになんらかの方法で四郎を隠し持っている。十一年前の蜂起のときには四郎を使わなかったが、使われてもおかしくなかった。照は傀を、四郎を操ることができるのだと考えれば。つぎは、そうくるかもしれない。

 だいたい、大きな獅子のかたちをした傀など、十三年前までだれも見たことがなかったのだ。ずっとどこぞで、だれにも見つからずおとなしく寝ており、だしぬけに動き出したのかもしれないがそのあたりは不明だ。傀は百年ほど生きるようだが、四郎がどれほど傀をやっているのかも、不明だ。


 わからないことが多い。そもそも、照が傀を操れるとか、なんらかの方法で巨大獅子を隠せるとかも、たしかなことではない。それでも備えておくべき理由はあった。照について調べたところ、皇族の遠縁であることがわかったのだ。千年昔の帝は、全国に執廻署しっかいしょを置いた。その弟宮は、「傀を操る」力を持っていたという話があるらしい。そのような力がほんとうにあり、継がれていると考えることもできる。


 ともかく、父が遺した面倒ごとで、また国が乱れるのは避けたかった。うまく終わらせたかった。不明なことが多いままでは危ういし、相手を追い詰めるのも危ういので、お話をしたいのだ。そこで照に書状を送った。正式な使者を立て、門を叩かせたかたちだ。

 傀を持った集団のもとへ行くという任を受けてくれた、勇敢な使者は無事に戻った。それだけでこちらは、喜びに沸いていたが、返事はなしだった。何度やっても、おなじだった。どこかに隠れている四郎が、こっそり書状を食っているのだろうと尚孝は考えた。わりあい本気で考えていた。


 照の返事はなかったが、家を継いだ尚孝には、ほかの仕事もあった。隣国との関係をよくすることだ。謀反で国をひっくり返したため、鞘野は多くの国から嫌われるまたは警戒されていた。しかしそのままでは、不都合だった。この国にとっても、隣国にとっても。代替わりもしたのだし、お話をして、仲よくしておいたほうが互いのためということがある。

 手はじめは、比較的おだやかで力もある、北の羽流はながれから。段階を踏み、相手の当主と会談の席を設け、きょうを嫁にもらった。景の父親は話のわかる御仁であり、味方につけるというか縁を結ぶことができた。ほかも同様だ。嫁をもらったのは羽流からだけだが。

 隣国とは、仲よくすることに加え、四郎党に援助をすることはしない、四郎党がなにかしたときには鞘野を助けるという約束を取りつけた。ただしそのぶん、こちらも相手を助けなければならない。

 四郎党に関しての、噂も流していた。四郎党がひとをさらい、傀を新しく作っているというもの。国の外でも内でも、四郎党を非道な者たちと認識させようとした。それで逆上し、なにか仕掛けてくるということも考えられたが、そんなに気が短いのならばいままでおとなしくなどしていなかったはずだ。

 そうして流言を垂れつつも、書状も送り続けた。返事が来た。会談の誘いを、ありがたく思う、とのことだった。受け入れられたわけでもないが、突っぱねられたわけでもない。いきなりよこされた返事に警戒もしたが、それ以降はふたたび音沙汰なしとなったり、ふいに書状が送られてきたりして、話が遅々と進んでいった。


 そんなとき、暁城に傀が迷い込んだのを見たという知らせが届いた。家を継ぐ前によく通っていた、豊手村とよてむらの吊頭所の所長からだ。いまは、旅に出てしまったが。

 そしておなじころ、暁城にいる忍びからも、新しい傀が城内に入ったとの報があった。その傀は、黒ずくめの若い男のすがたをしているらしかった。それは知らせの数日前、羽流で暴れ、ひとをたくさん殺めたという傀とおなじ特徴だった。


 景は、その件について羽流の実家から文を受け取っていた。文によれば、羽流の吊頭所に勤めていた傀廻しが、傀となってすべてやったらしかった。


 そのような傀が、なぜか暁城に迷い込んだ。いよいよまずいかもしれないため、その傀だけでも仕留めるべきだと言う者もいた。尽平からも、おなじ提案があった。おれが行くと尽平は言った。その案を、尚孝は受け入れなかった。

 傀はそもそも、簡単に仕留められるものではない。ましてその傀は、町や村を丸ごとめちゃくちゃにするようなものだ。傀の暴れ具合には日ごとにむらがあり、もう二度と暴れないということもあり得るが、それにしても危険すぎる。そして仮に成功したとしても、四郎は依然行方知れずのままである。

 暁城にいる忍びによると、新しくやってきたその傀は晴康はるやすと呼ばれているらしかった。晴康は城内の牢屋に入れられており、夜には絶えず見張られているようだ。傀がずっとおとなしく牢に入っておくとも思えないため、この傀にも、照がなにかを及ぼしているのかもしれない。安易にさわっては危ない。

 そして書状のやりとりが、まだ続いていた。攻撃をすればすべて水泡に帰すだろう、いままでのように、暁城下を見張らせるにとどめるべきと判断した。


 おなじ状態のまま、一年ほど経ったときだった。また、むごいことが起こった。領内ではないが、山の中の村が傀に襲われ、村びとがみな、殺されてしまったのだ。あるれびとが助けた、ひとりの少女を除いて。

 傀に関することが領にほど近い場所で起こったため、尚孝は四郎党との関わりを疑った。長らく四郎党になにもしなかったことが裏目に出たのかもしれない、その離れびとは、四郎党の手の者ではないかと考えた。物守村ものもりむらは、四郎党がひそかに作っていた隠れ里かなにかではないか。村でなにかしら、鞘野に一泡吹かせるため傀を使った試みでもしており、それが失敗したのでは。そんなことまで、考えていた。四郎党に、照になにができ、なにができないのかがわからないままであるためだ。

 まわりの寿命がごりごり削れます勘弁しなさい若さまとか騒がれながら、城下の町へ行ったこともあるし、忍び込んでいる者は核心に迫れないことを詫びながら、城内のおだやかな様子を伝える。それでも、だからこそか、過剰とも言える恐れを抱く。

 臣たちもそうであり、生き残った少女と離れびとを見つけた瑞延ずいえんも、それを報告しに来た尽平じんぺいもおなじらしかった。尚孝自身も、その離れびとに会っておく必要があった。


 離れびとがこの国へ来たのは、暁城の傀を仕留めるためらしかった。またこの付近の傀を、六体までも独力で仕留めていた。尽平が事前に聞き出しており、伝えてきたのだ。離れびとに会う直前、執廻署しっかいしょの廊で話を聞いた。

 その離れびと、早瀬は、四郎党とつながってはいないだろうと、そのとき尽平は言った。はじめは疑っていたが、振る舞いや話しぶりを見たところ、四郎党とはなんのかかわりもなさそうだと。

 尽平は商人だったこともあるようで、前から器用な男だ。顔で得をしているところもあるのだろうが。黙って前を睨んでいれば畏怖を覚えさせられそうな、整い倒したかんばせである。それがあの子供っぽい笑みにゆるめば、相手のほうは気がゆるんでしまう。しかし顔がよいだけではなく、ひとを見る目も冴えているし、揺さぶりをかけるのにも慣れている。その尽平が、早瀬と四郎党が関係している虞はほぼないと言った。

 しかし、そもそも村がまるごと傀に潰されるというのは尋常ではない事件だ。警戒する必要があった。またこの国にとって、早瀬が傀を六体も殺したこと、暁城の傀を殺しにやってきたことは、双方とも重大な問題だ。加えて、傀の血を余計に入れている疑いがあるとのことだった。よってその場で、早瀬を内に取り込むことを決めた。監視のためというのがもっとも大きい。瑞延と尽平のもとに置き面倒を見させつつ、試すことにした。尽平にその旨頼んでから、早瀬と面会した。


 会ってみれば早瀬は、いまにも倒れそうな気配を醸す若者だった。鍛えられた身体をしているのに、ひどく弱々しいのだ。言葉を交わし、尚孝も、早瀬は四郎党とはかかわりがないと判断した。しかし、傀を六体屠ったこと、暁城に乗り込もうとしていることは変わらない。

 とくに後者について早瀬は、それをやらねば即刻絶命する、それをやっても直後絶命するというような、悲壮な様子だった。これは、なにがなんでもやろうとするのだろうとわかった。目の前の危うげな若者は、ほうっておけば暁城へ突っ込み、城を枕に死のうとするだろうと確信した。

 尽平と瑞延、加えて忍びに見張らせることはもちろんだが、釘を刺しておこうと決めた。すでにぎりぎりの様相だった早瀬を、言葉でずいぶん追い詰めた。

 いくらなんでも六体は、やりすぎだ。そしてなにより、四郎党とのわだかまりを解く道筋が、少しだけでも見えている。よって早瀬を暁城に突撃させるわけには、いかなかった。


 早瀬を雇ってほどなく、瑞延と尽平から報告があった。早瀬はほんとうに、傀の血を飲み半分傀になっていたとのことだった。すぐに落ち着いたようだが。様子を見させていても妙なところはなく、もはや観察せずともかまわないと判断した。

 早瀬が助けた少女についても知らせがあった。瑞延が物守村ものもりむらについて調べており、報告してきた。かの少女、千世ちせは、声を発することも表情を変えることもない。あまりにもむごたらしい経験をしたためだと、尚孝は考えていた。





 殿、と呼ぶ声がして、尚孝は振り向いた。景がやわらかく笑んで立っていた。いかがしたと問うと、景は睫毛を伏せ、尚孝の横に並んで言った。

「あなたさまこそ、いかがなさいました。なにをなさっています?」

 執廻署に呼びつけた早瀬と尽平を見送ったのち、乾いた土と古びた柴垣だけの庭を、縁から眺めていた。それだけだった。

「とくになにもしておらぬ」

 尚孝がこたえると、景はくすりと笑った。

「そうですか」

 しばらくの間ののち、小さくつぶやく。

「早瀬どのは、大事ありませんでしょうか……」

 どうであろうとだけ、尚孝は言った。

 さきほど帰っていった早瀬は、はじめて会ったときよりはいくぶん顔色がよくなっていた。話をしているあいだも、ときおり動揺する様子はあったが気丈だった。

 尚孝はそんな早瀬に告げた。四郎党が傀を増やしているとか、暁城は忍び込むことすら難しいとかは、嘘である。尽平が早瀬の腹の内を探るため言ったことへの便乗、早瀬に目的をあきらめさせようと弄した虚言だ。

 それから瑞延が、吊頭所の納屋に傀の血を保管していると言ったようだが、それも嘘である。

 飲んだ血の効き目が切れてきたらしい早瀬が、ふたたび血を飲もうとしないか試そうと偽りを言った。傀になられては困るし、なにやら強くなって暁城に突っ込まれてもこちらは弱る。もしも早瀬が納屋で血を捜すような素振りがあれば、捕えて拘束することも辞さないつもりであった。

「あまり、驚いてはいない様子でしたね」

 景の言葉に尚孝はうなずいた。

「血を捜して飲もうかと、考えたことはあったとか……」

 ばか正直にそう白状した早瀬は、このままここに置いてほしいと頼んできた。もう暁城へ行くつもりはないが、傀を六体屠ったことは変わらないからと言った。

「この国の迷惑になりたくないのでしょうね。あの子は、わたくしも数回しか会っていませんでしたが、とてもがんばるのだと晴康が申しておりました」

 おそらくそのような性分なのだろうと、尚孝も思った。元来なのかもしれず、そうならざるを得なかったのかもしれない。

「そうだな」

「はい。晴康が傀になったのはおのれのせいだと言って、これも、受け取ってくれませんでした」

 景は言い、帯からなにか抜き取った。黒鞘の脇差だった。晴康の形見だ。羽流の吊頭所から届けられ、いままで景がたいせつにしてきた。今日、早瀬に渡そうと思うと言って、持ってきていたのだ。

 景の手の内で、鞘の黒がつやめいている。ひとを誘い込もうとする。景はそれを、指先でそっと撫でる。

「これを持つ資格はないのだそうです。余計なことをして、身を捨てさせてしまったから、晴康は傀にされてしまったのだと言っていました。そんなことを話させてしまいました」

 景は黒をいつくしみ、いとおしんでとらわれない。

「きっと、そのためにずっとつらい思いをしてきたのだと思います」

 どうしても仕留めなければならない傀がいると言ったときの、早瀬の顔を思い出す。堅い覚悟で、凍てついていた。内でのたうつものを、すべて封じ込めようとしていた。懐かしい気がした。わかったやってこいと送り出したい気もした。

 尚孝も早瀬くらいのときは、おのれがやると思っていたのだ。傀廻しの修行をし、四郎を仕留める。そうすれば面倒ごとが終わる。国の内で起こった二度の戦で、多くのものが失われた。これ以上御免であると、思ったのだ。

 しかし、もうわかる。おのれにそんな大それたことができないことも、四郎を屠ったとして解決するわけではなく、それどころかまた戦を起こすかもしれないということも、わかる。すべて押し込めて凍りつき、破滅まっしぐらというのは少し、惜しいことも。

「あの子は、いつ傀と戦うことになるとも知れません、戦わないわたくしが持つよりよいかと、思ったのですけれど。やはり酷だったでしょうか?」

「わからぬ」

 気の利かない返答をすれば、そうですねと、景は淡い微笑みを浮かべる。なんとなしに目を伏せた尚孝は、黒い鞘にひとひら、真白いなにかが落ちるのを見た。

「あ、殿」

 景が声をはなやがせて尚孝を見上げる。

「雪ですよ」

 尚孝は庭に目を移した。彩りのない景色の中、ほんの小さなかけらがちらついていた。身体の芯まで沁みる風にのって、舞う。

「今年はじめてではありませんか?」

 景が楽しそうに言う。尚孝は首をかしげた。

「そうであったか」

「ええ、初雪ですよ」

 尚孝はそうかとこたえた。景の白い袖に、細かな粒がふれて消えるのを見ていた。

「ようやく、成るのですね」

 景は雪の散る庭を見つめながら、静かな声音で言った。

「照さまと、ようやくお話ができるのですね」

 今日、早瀬を呼んだのは、景が会いたいと言ったからであり、試していたことを明かすためであり、それを伝えるためでもあった。早瀬に晴康をあきらめさせたのだから、その後のことをきちんと知らせるのが筋だと考えた。武昌たけまさは、あまり傀廻しに肩入れしているとみなの心が離れると忠告するが、これはやっておきたかった。武昌はそのあたり気を遣って、振舞っているようだ。息子が傀廻しになったのに、武昌はさすが落ち着いている。

 ようやくだと、尚孝は景に応じた。景はうなずき、微笑んで言った。

「すべてうまくいきます」

 やわらかで、力強い言葉だった。

「立ち会ってくださるかたも、おられますしね。照さまが、実のところどのような力をお持ちなのかお持ちでないのか、四郎さんはどこにいらすのか、わかればもう恐れずにすみます。牢に閉じ込めた傀も、ともに管理できるようにすればいまより安心できます。だれも無駄に傷つかないで、交わることがきっとできます」

 そのとき強く、風が吹き、あおられた雪花が悲鳴を上げた。尚孝は、手を伸ばした。景の手を黒い鞘ごと握る。どちらも冷えていた。少し、景の手のほうがつめたく感じる。景がふふっと、笑みをこぼす。

「どうされました?」

 手が。

「手が寒い。しかしそなたのほうがつめたかった」

「そうですね、あなたさまはとても、あたたかいです」

「中に入るぞ」

 尚孝は景の手を引き、背後の障子を開けた。


 きっかけは忘れた。ふとしたことから、互いに吊頭所へ通った時期があることがわかったのだ。理由は少しちがっていたが、尚孝は羽流から来た嫁御に親しみを覚えた。景もおなじだったらしく、それからすぐにうちとけた。

 少し、ふしぎではあった。夫婦であることはまちがいないが、景はなぜか女人という気がしない。心から信を置く友人とも呼べる。互いに、いろいろなんでも喋る。子が生まれても変わらなかった。


 忘れえぬひとがいる。吊頭所に長く通ったのは、そのひとに会いたかったからだと景は話した。その気持ちは、ほんのりとわかった。尚孝にも忘れえぬひとがいる。それは景も知っている。


 あの夜、大きな獅子の背に乗って、長い髪をなびかせ去っていったひと。可憐なすがたの内に、苛烈な魂を隠し持っていた。ずっと、あのすがたが忘れられず、ずっと、あのひとにはかなわないと、どこかで思っている。ねじ伏せようとしても、無駄なのだ。


 しかし景は、もう話をすることもできない。景の忘れえぬひとは、傀になりひとを踏みにじり、ここへ来た。そのことについて、景が心の内を吐露したことはなかった。ふとしたときに早瀬のことを話したところ、それはまちがいなくあの子だ、どうしても会いたいと言うので少し、驚いたのだ。

 早瀬と顔を合わせ、話をすることは、景が望んだことであり尚孝が許したことだ。しかしふたりをひどく苛むことでもあるように、尚孝は思う。

 

 うしろで景が、なにかつぶやく。尚孝が振り向く前に、思いをこぼす。いますぐこの手で殺したい、と。

 尚孝は景を障子の内へ引き込み、その額をおのれの胸に押しつけた。黒い、脇差を抱え、ふるえる細い身体を、黙ってじっと支えていた。

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