二十八 花の影

 しばらくぶりの執廻署しっかいしょ、よく磨かれた傷だらけの床の上で、早瀬はやせは絶句していた。

 すぐ横には、尽平じんぺいがいる。斜め前には、刀祢とね武昌たけまさが座している。正面に敷かれた畳の上からは、鞘野さやの尚孝なおたかがこちらを見ている。そしてそのすぐそばに、今日はもうひとり、座っているのだ。

 白地に、色とりどりの刺繡をほどこした打掛をまとっている。たおやかにうるわしい女人。そのひとは早瀬をまっすぐに見て、にこりと笑みを咲かせた。

「ひさしいですね、早瀬どの。立派に、なられましたね」

 おっとりとしながらも芯のある声は、ひどく懐かしいものだった。こたえようとするが、言葉が出てこない。どうして、ここに。

「急なことですしお忘れかもしれません。わたくし、あなたとは羽流はながれ吊頭所ちょうとうしょで、ときどきお会いしていました。きょうです」

 微笑んで名乗った景に、早瀬は深く頭を下げた。忘れてなどいない。羽流にいたころ、早瀬が暮らしていた吊頭所にたずねてきていた。あの、きれいで勇ましいひと。晴康はるやすに、組紐の贈りものをしたひと。早瀬のことも、覚えていてくれたのだ。

 熱い大波の中へほうり込まれた心地がする。でも、いつまでも黙っていてはひとに対して失礼だ。早瀬は大きく息を吸った。

「おひさしぶりです。景さま」

 少し顔を上げ、やっとのことで声を出す。呼んだことはなかったので、晴康とおなじ呼び方をした。

「景さまにまたお会いできて、覚えていてくださって、とても、光栄です」

「わたしもです。あなたとまた会えて、覚えていてくれて、とてもうれしい。ですから、しっかり顔を見せてくださいな」

 早瀬がゆっくり姿勢を戻すと、景は、ほんとうに立派なられたのですねと感慨深げに言った。早瀬は恐縮してうつむいた。景と会っていたころは、口をきかなかったり、ひとに尊大な態度を取ったりしていたのだ。そのたびに、晴康に注意されていた。

 けれども変わったのは、景もおなじだ。花ひらく笑みはそのままに、前には感じなかった静かな威厳を備えている。

「驚かれたか、早瀬どの」

 尚孝に問われ、早瀬はかしこまった。

「はい、その、とても」

 姿勢は正したが、言葉はとても素朴になってしまった。尚孝が小さく笑った。

「そうか、驚かせてすまぬな。こたびうちつけに呼んだのは、そなたと景を会わせるためだ。そなたのことを話してから、どうしても会いたいと申しておってな、暇をひねり出した」

 それを聞いて、目の奥が熱くなる。会いたいなど、忙しい中時間を作らせたなど、恐れ多かった。それになぜ景がここにいるのかも、わからない。

「お屋形さま、早瀬どのが困っています」

 武昌がおだやかに口を挟んだ。

「ご説明が、抜けておられますぞ」

 あ、と尚孝はどこか間の抜けた声を上げ、景を示して言った。

「わたしの妻だ」

 はっとして景を見ると、景は微笑んでうなずいた。

「もう四年になるか。羽流の押水おしみず家と鞘野が、縁を結んだときにこちらへ来た」

 尚孝の説明に、早瀬はうなずいた。国や家どうしの友好の証として、婚姻するというのはよくあることだ。尚孝と景は、良庫国らくらのくにを治める鞘野家と羽流国はながれのくにを治める押水家の仲を深めるために、夫婦になったということか。それなら、景は、押水家のひとだったことになる。

「え……」

 早瀬は思わず声をもらした。国どうしの縁を結ぶため、鞘野家当主の妻になったというのなら、景は押水家の姫君でないとおかしい。

「お姫さま……?」

 口に出してしまった。まぬけにひっくり返ってしまい、横で尽平がふいた。尚孝と武昌が、同時に景を見る。ふたりに顔を向けられた景は、目をみひらいて口もとを覆っていた。

「あ、そうでしたね……。あなたには、それを言っていませんでしたね……。けれど晴康どのとか、だれかから、聞いていないのですか?」

 早瀬は首を振った。景の口からこぼれた、晴康という響きがやわらかくて、一瞬目の前が暗くなったが。なんとか姿勢を保った。尚孝と武昌は、やれやれといったふうに顔を見合わせている。

「そうですか、聞いていなかったのですね」

 ほんのひととき目を伏せた景は、早瀬ににこりと笑いかけた。

「羽流の、押水家当主の娘です。四年前にこちらへ嫁に来ました」

 早瀬は取り急ぎ、こくんと首を縦に振ることしかできなかった。お姫さまだ。一国の姫君が、男たちに混じって鍛錬したり、食事したりしていたのか。姫君のお出かけはもっと優雅だと思い込んでいた。しかも場所は吊頭所で、一緒にいたのは傀廻くぐつまわしだ。姫君がそのような者たちと交わることは、好ましく思われなかったのではないか。叱られてしまったのではないか。

「ああ、父に知れて、少し叱られました」

 景がはにかんで言った。考えがだいたい顔に出ていたらしい。早瀬は慌てて口を引き結んだ。

「これでは嫁にもやれぬとか父は申したのですが、押水の娘はわたしだけですし、ここへ来られることになりました。運がよかったと思います。秘密にしなければならないかと思っていたのですけれど、殿におわかりいただけましたから。おなじようなことを、なさっておられたようなので」

 景はゆったりと言い、尚孝のほうを見る。尚孝は景と目を合わせはしたが、素知らぬ顔をしている。景がくすりと笑った。

 そういえば尽平が、尚孝は傀廻しになりたがっていたことがあると言っていた。尽平と尚孝は旧知の仲のようだし、尚孝にも吊頭所を訪ねていた時期があったのだろう。しかしそれは、とても珍しいことだ。本来、領主の家の若君や姫君が、傀廻しと仲良くすることなどはない。

「父の申したことは、世の中の流れとしてわかります。けれど父は少しばかり度が過ぎていましたし、わたくし反省などはしていないのですよ。傀廻しのみなさんはお強いし、とくに船戸ふなとさまはとても腕の立つかたですから、稽古をつけていただきたかったのです。強くなれること請け合いでしょう」

 景は早瀬の師匠の名前を出し、あたりまえのように言った。尚孝はうっすら口もとをゆるめているだけなので、もうすべて知っているのだろう。それなら晴康のことも、聞いているのだろうか。さきほど景が名前を口にしたとき、とくに反応がなかった。早瀬は膝の上で両手を握った。

「吊頭所のみなさんは、とてもすてきなかたばかりでしたし。あなたも、あのときはまだ幼かったですね、かわいらしかったですよ。楽しい時間だった。とてもお世話になりました。船戸さまのことは、少し困らせてしまっていましたけれど、いつも迎えてくださっていましたね。けれど、さきほど申したように、父に知られて行けなくなってしまったのです。そのころちょうど、嫁入りも決まりましたし」

 景は、ゆっくりと、手繰り寄せるような話し方をする。

「ご挨拶も、できないままになってしまいました。心残りだったのです。ですからまた、あなたに会えて、ほんとうにうれしく思います」

 そう言う景の微笑みに、影が忍び込むのを見た。早瀬は袴を握り膝に爪を立てた。

景は知っていると、わかった。あの晴康が、すでに失われていること。くぐつに、されてしまったこと。その傀が、むごい行いをしたこと。もしかすると、その傀がこの国にいることも。景は知っているのだ。

「あなたは、傀を一体追いかけて、ここへ来たのだと殿からお聞きしました。暁城あかつきじょうに、それはいるのですよね。それは、羽流の町や村をめちゃくちゃにした傀ですね。その行いを目にしたひとたちが語っていた、その傀のすがたと、一年と少し前に暁城にやってきたという傀のすがたが、おなじだと言われています。それに一連のことの知らせは、実家から受けています」

 景は毅然として話した。しかし目は合わなかった。きっと互いに、合わせられなかった。

「早瀬どの、あなたは、晴康を追ってきてくれたのですね」

 その言葉に、心臓を鷲掴まれる。

「暁城にいるならばなおさら、飛び込んで仕留めることは得策ではありませんね。けれどあなたが、追ってきてくれたのです。ひととしての晴康はきっと、浮かばれましょう」

 そこで尚孝が、景を呼んだ。景は口を閉ざし、早瀬の顔を見てはっと息を飲む。早瀬は、なにも言えなかった。目の前が回りだす直前の、浮遊の感を味わっていた。景は、晴康がどうやって傀にされたかは、おそらく知らない。

 尚孝が、今度は早瀬を呼んだ。景に替わって話し始めるらしく、早瀬を見据える。

「早瀬どの。そなたを呼んだのは景に会わせるためだが、わたしも言わねばならぬことがある。すでに知っておるやもしれぬが」

 なんとか返事をすると、背中に手を添えられた。尽平だった。尚孝が立ち上がり、畳から下りて床に座る。のぞき込む目をする。

「わたしはいままで、そなたを見張らせ、試していた」

 疑っていたからだと、尚孝は言った。それは、知っていた。告げてもらえるほどの値打ちがおのれにあるとは思わなかった。まるで、申し訳なかった、信頼できると判断したと、言っているようだ。

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