二十七 余白

 その夜はおだやかだった。月の光があたりをすっぽり包み込み、闇はさらりと淡い色をしていた。空気は磨き込まれて澄んでいて、つめたいのにどこか心地よかった。

 今日は西の山を望む櫓で、瑞延ずいえんと一緒だ。瑞延は、昼間に千世ちせとどこに行っていたのだとか聞かなかった。巻いて厚みを持たせた筵の上に座り、火鉢に手をかざしている。火鉢は今日運び込んだ。ここでも寒くなると、それぞれの櫓に火鉢を備えつけるようだ。今度煎餅でも焼こうかと、さきほど瑞延は言った。

 早瀬はやせは瑞延の向かいで、やはりぐるぐる巻きの筵に座っていた。ふるえる小さな火を、眺めていた。頼りなく感じるが、冷えた手を差し出せばそっと包んでくれる。

「早瀬」

 ふと瑞延に呼ばれ、顔を上げる。まっすぐ目が合った。瑞延は早瀬にたずねた。

「もう身体は、だいたいだいじょうぶなのだよね?」

「はい。おかげさまで」

 早瀬はこたえ、頭を下げた。瑞延がくすりと笑う。

「よかった。最初あなたが来たときは、ほんとうにどうしたのかと思ったからね」

 早瀬はうつむいた。いまもおかしいが、ここに来たばかりのときは、もっとへんだった。どうしたのかと思って当然だ。くぐつを見れば、屠ることしか頭にないありさまとなるし、そのくせそのことについて、まともに考えもしないし、すぐ暴れ回るし、すぐぶっ倒れるし。だれの言葉も、まともに聞いていなかった。

「ほんとうによかったよ。体調がよくなったようだし、傀を襲うこともなくなったからね。あなたはもうだいじょうぶなのだと思う」

 あの日、みずから飲んだ血の効力だけが切れて、傀廻くぐつまわしとして必要な力は残った。ひとの範疇に戻った。もうだいじょうぶ。おそらくそういうことになる。

「だからあなたはもう、ひとりで傀からえぐり出すような力は持っていないのだろうね」

 瑞延はおだやかに微笑む。

「でも、そんな力はなくていい。ここを、一太いちた二太にた七太郎しちたろうと、これから来る三太さんたたちから守っていければそれでいい。それがわたしたちの仕事だ」

 それが傀廻しの、本来の仕事だ。早瀬がうなずくと、瑞延は立ち上がった。槍を立てかけた柵にかるくもたれかかり、つぶやいた。

「おのれの身体はきれいなままで、血池の中のものと戦うことはできない」

 それは一度だけ、聞いた言葉だった。

「わたしたちの師匠がね、そう言っていたんだ。言い方はもう少し、へんだったけれど」

 旅の途中で出会ったひとを、思い出す。早瀬はその場に立ち、瑞延の言葉を聞いた。

「だからわたしたちは、傀の血を身体に入れる。それでも傀にはならなくて、ひとのままだけれど、ほんとうにひとかと問い詰められると、少しちがうような気もしてくる。でもそうでなければ、真っ暗な夜にはなにも見えないし、傀とやり合うことなんてできないからね。血がつくくらい覚悟しなくては、戦えない」

 でも、と瑞延は言う。

「あまり受け入れすぎると、はまってしまう」

 月明かりの中、凛と夜を見ている。

「はまってしまいたいことも、あるけれどね。はまらないのがいいことなのか、よくわからなくなることもあるし。いいことというのはなんなのか、わからなくなることもある。でも、いまわたしは、あなたがそこから出てこられて、ほんとうに安心している」

 瑞延が振り返る。少し、困ったような笑みを浮かべていた。

「勝手なのだけれど」

 早瀬は口を結び、頭を下げた。お辞儀が深すぎると笑われた。

「ああ、ところで早瀬、ねえ」

 そばに来て早瀬の頭を持ち上げようとしながら、瑞延はなにか思い出したようだ。

斎丸さいまるとは、あれから話したの? 刃では、ずいぶん語り合っていたみたいだけれど」





****





 無事に仕事を終え、五人で吊頭所ちょうとうしょに戻ったあとだった。朝餉を食べて、そのあと、沙那さな小兎こと千世ちせは外で仕事を始め、瑞延と尽平じんぺいはどこかへ行き、斎丸もすがたが見えなくなった。早瀬はなんとなく、囲炉裏の前に残っていた。緋高ひだかも、となりに残っており、ふたりでぼんやりとしていた。


「なあ、緋高?」

 早瀬は気構えなく話しかけた。すると緋高は、なんだぁ、とゆるんだ返事をした。早瀬は、少し上を見ながら喋った。

「さっき瑞延さんに、斎丸と話したのかって、聞かれたんだけど」

「ははぁ」

「やっぱり話ができたらいいと思うんだけど、どうやったらいいんだろう。緋高ならどうするか、教えてくれないか」

「ああ……それね……」

「うん」

「あのねぇ……」

 緋高はうしろに両手をつき、天井を仰いだ。

「なんなの? おまえ恋する乙女なのか? それとも単なるばか?」

「なんだ、それ」

「知らんよ」

 緋高は、心の底から面倒である、という顔をする。けれど少し間をおいてから、早瀬に問うた。

「斎丸と、なにを話したいんだ?」

「あ、えっと。生きてる限り陰気面なのは、そのとおりだって」

 こたえる声が少し小さくなってしまった。緋高が目をみはり、続きを促すように、首を傾ける。早瀬はゆっくり息を吸って続けた。

「ぜんぶがおのれのせいっていうのも、思い上がりなのかもしれない」

「そうか」

 緋高の相槌はほどよい重みで、言葉を継ぎやすい。

「ちょっと、思ったことがあって」

「うん」

「斎丸のことなにも知らないのに、こんなこと言うのはおかしいけど……」

 斎丸とは、実はおなじようなことを考えているのではないかと、思ったのだ。斎丸も、もがいているのではないか。緋高にそう言いかけて、早瀬は思いとどまった。

「やっぱり、なんでもない。これは采丸に言う」

「そうか」

「やっぱり言わないかもしれない」

「えぇ?」

 緋高が拍子抜けした声を出す。早瀬は、言わないかも、と口の中で繰り返した。似ているかもしれないからといって、こちらの考えや思いを押しつけるのは失礼だろう。とくに斎丸は、同類など欲していない気がする。

「うぅん、まあ、言わなくてもいいんじゃないか」

 緋高が言った。浅緋の袖から糸くずを千切り、囲炉裏にほうり込む。ちりっと音がして、消えた。緋高は、そのなごりを眺めているようだった。

「斎丸には斎丸の領分があるからな。入られたくないところも入れる必要ないところもあるよな、早瀬もそうだし、おれもだよ」

 そうだなと、早瀬はうなずいた。

「そういう領分にさ、勝手に入ろうとか、そこを奪おうとかやっちゃったら、戦になるからな」

 緋高は眉間にしわを寄せ、難しい顔をする。

「戦を起こさないとなにも手に入らないとか、そういうこともあるのかもしれないけどさ、戦したって、なくすだけっていうことも多い」

 早瀬も緋高とおなじように、囲炉裏の火を眺めた。ゆらゆらと、めらめらと、揺れて舞い、燃えている。手を差し出せば、噛みつかせてしまうのかもしれない。

「だからたぶん、無理に突っ込むことないし、突っ込ませることもないだろ」

 緋高はこともなげに言う。

「でも、まったく交わらないのはかえって危ないらしい、領分を守るために相手がなにするかとか、なに捨てるとか、そもそも入っちゃだめなのかとか、わからなくても戦になるんだ。あと、なんか、寂しいと思うからなあ。だからちょっとだけ、つながれる方法があればいいんじゃないか、とか」

 早瀬ははっとした。

「刃で、語り合う……」

「うん、まあそういうことだ。早瀬、一方的にやられてたしなあ。斎丸にはそれがかえって重かったかもだけど、まあよく知らんね」

 鼻でもほじりそうな様子の緋高に、早瀬はしっかり、身体ごと向けた。

「緋高、ありがとう」

 伝えると、緋高はかるくのけぞった。

「なに、どうした早瀬」

「ありがとう」

「えっと、おれなんかしたっけ」

「した。緋高が斎丸と、刃で語り合えるようにしてくれたし、あと、緋高と話してると落ち着く。いつもありがたいと思ってる」

「わぁあ」

 緋高は、お手上げですという姿勢をとった。

「なんかそれ、おれがものすごくいいやつみたいだ。あとその、刃で語り合うってなんだ? なんか微妙に、笑うにも笑えないその感じ、なんなんだ?」

「わたしはかっこいいと思ったから使ってる。それと、緋高はいいひとというか」

 早瀬は思ったままを口にした。

「ひとの心をおしはかれるひと」

「なんだそれ」

 緋高は肩をすくめて、笑った。

「でもなんかやっぱり、いいやつみたいに思ってるだろ」

 そうかもしれないと早瀬がこたえると、緋高は少し、うつむいた。

「おれは、そういうんじゃないよ。さっきの戦うんぬんって、斎丸の受け売りだし」

 斎丸がそんなことを、斎丸の言葉で助けられちゃったのか、とか騒ぎだしかけて、早瀬はぜんぶ飲み込んだ。緋高の指先が、眼帯にふれるのがわかったので。

 なにかが、緋高の領分に入り込んでしまっていたのだと、悟った。

「あの、緋高」

「早瀬さ」

 緋高は首を傾けて、早瀬を見る。声音も表情も、いつものように明るいまま。

「早瀬が、ぜんぶ早瀬のせいにしようとしてるっていうところは、おれも斎丸とおなじ意見なんだ。いろいろ背負い込んでる気がする」

 緋高は早瀬に横顔を向ける。眼帯で隠れていない、左目が見える。

「申し訳ないけど、早瀬が良庫らくらに来たわけは、もう初日にはざっくり尽平さんから聞いてた。詳しくは、聞かないよ。言いたいときは聞くけどさ。いまは、勝手だけど、だいじなものがなくなることが、あったんだろうって思ってる。それで早瀬は早瀬を責めてるんだろうって、思う」

 早瀬は、返事ができなかった。緋高も早瀬を待たなかった。

「でも、なにも早瀬のせいじゃない。おまえはなにもわるくない」

 やわらかに、緋高は言い切った。

「斎丸も、たぶんあいつが言いたかったのは、そういうことだよ。まあそれだけじゃないんだろうけど」

 ゆったりとした調子で続ける。

「やったやつらが、わるいんだろ」

 早瀬は口を開けて、閉じた。

「早瀬がやりたくてぜんぶやったんなら、早瀬がわるいのかもしれないけど。でもそれならおまえ、いまこんなふうじゃないはずだ」

 ちょっとあきれたような笑みを浮かべる。

「とられたんだろ。そいつらだよ。早瀬のだいじなもの、とったやつらがわるいんだよ」

 わるい。やったやつら。とったやつら。物守村ものもりむらのときなら、くぐつ、なのだろうか。晴康はるやすのときも、傀と言えるだろうか。

 故郷の村のときなら。戦を起こしたやつらとか、村に火をつけたやつらとか、ひとを喋る物品扱いしたやつらとか、みんなを、手にかけたやつらとか。そういうことに、なるのだろうか。

「そいつらの中にさ、傀でもないやつらっていないか? いないのかもしれないけど。でももしいたら、そいつらって一丁前に、怒ったり泣いたり笑ったりするだろ。たいてい言葉も喋れるし、ひとの話も聞こうと思えば聞けるんだよ」

 細かなちりをつまみ、火に投げ込む。音も立てずに燃え尽きる。

「なあ早瀬」

 問いかけるように、緋高は呼んだ。早瀬が、こたえるより先に。

「そいつらのこと、燃やしてやりたいって思ったことないのか」

「え……?」

「燃やしてやりたいって。そうじゃなかったら、痛い思いさせてやりたいなとか、怖い思いさせてやりたいなとか。だいじなもの壊してやるとか、ぜんぶ殺してやるとか」

 朗らかさを残した声が、とろりと耳の奥へ、流れ込んでくる。

「ないんだろうな。早瀬だから。代わりに早瀬を殺せばいいってことなんだろ……。そのほうが手間も減るし」

「緋高」

「なんだ?」

 名前を呼んだとたんに、あっさりした返事が返ってきた。なにを言うかなど決まっていなかった。でも呼んだ。早瀬は黙りこくっていた。すると緋高は、恥ずかしそうに肩をすぼめる。

「わるい。なんかひとりで騒ぎすぎた。ぜんぶ、勝手に考えたことばっかりだ」

 早瀬はただ、首を横に振った。

「えっとだから、つまりおれは、たぶん早瀬が思ってるようなやつじゃないってことだよ。それで早瀬は、おれからしたらけっこう、わけわからなかったりする」

 指先が、右目の下をなぞる。

「ああでも……、なんというか……?」

 とぼけたように視線をさまよわせ、緋高は囲炉裏に向かって微笑んだ。

「早瀬がそうなら、そのままでいい」

 そのままがいいよ、とかろやかに言い、半身に炎の影を映している。早瀬は、なにかこたえたかった。

「おれもそう思う」

 はい? と首をかしげた緋高に言った。

「緋高がそうならそのままでいい」

 力を抜くように緋高は、ばかだな早瀬とつぶやいた。直後、あっと声を上げる。

「くそ、まちがえた。ぼけかすだ。あと、ごみくずちりあくた」

「なんだそれ、わざわざそれ言うか? なにもまちがえてなかっただろ」

 早瀬が苦情を言うと、緋高はなぜかきょとんとして、くすくす笑いだした。早瀬も一緒になって笑った。笑い終わったときのことを、ちらりと考えてしまったときだった。入り口の戸が、一気に開けられた。ふたり揃ってそちらを見ると、入ってきたのは尽平だった。

「ん? なんか愉快な感じだな」

 尽平は気楽そうに挨拶してから、まっすぐ、早瀬を見る。

「楽しそうなとこわるいけど、ちょっと来てくれ」

「はい……」

 立ち上がった早瀬に、尽平は背を向けながら告げた。

「お屋形さまがお呼びだ」

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