二十七 余白
その夜はおだやかだった。月の光があたりをすっぽり包み込み、闇はさらりと淡い色をしていた。空気は磨き込まれて澄んでいて、つめたいのにどこか心地よかった。
今日は西の山を望む櫓で、
「早瀬」
ふと瑞延に呼ばれ、顔を上げる。まっすぐ目が合った。瑞延は早瀬にたずねた。
「もう身体は、だいたいだいじょうぶなのだよね?」
「はい。おかげさまで」
早瀬はこたえ、頭を下げた。瑞延がくすりと笑う。
「よかった。最初あなたが来たときは、ほんとうにどうしたのかと思ったからね」
早瀬はうつむいた。いまもおかしいが、ここに来たばかりのときは、もっとへんだった。どうしたのかと思って当然だ。
「ほんとうによかったよ。体調がよくなったようだし、傀を襲うこともなくなったからね。あなたはもうだいじょうぶなのだと思う」
あの日、みずから飲んだ血の効力だけが切れて、
「だからあなたはもう、ひとりで傀からえぐり出すような力は持っていないのだろうね」
瑞延はおだやかに微笑む。
「でも、そんな力はなくていい。ここを、
それが傀廻しの、本来の仕事だ。早瀬がうなずくと、瑞延は立ち上がった。槍を立てかけた柵にかるくもたれかかり、つぶやいた。
「おのれの身体はきれいなままで、血池の中のものと戦うことはできない」
それは一度だけ、聞いた言葉だった。
「わたしたちの師匠がね、そう言っていたんだ。言い方はもう少し、へんだったけれど」
旅の途中で出会ったひとを、思い出す。早瀬はその場に立ち、瑞延の言葉を聞いた。
「だからわたしたちは、傀の血を身体に入れる。それでも傀にはならなくて、ひとのままだけれど、ほんとうにひとかと問い詰められると、少しちがうような気もしてくる。でもそうでなければ、真っ暗な夜にはなにも見えないし、傀とやり合うことなんてできないからね。血がつくくらい覚悟しなくては、戦えない」
でも、と瑞延は言う。
「あまり受け入れすぎると、はまってしまう」
月明かりの中、凛と夜を見ている。
「はまってしまいたいことも、あるけれどね。はまらないのがいいことなのか、よくわからなくなることもあるし。いいことというのはなんなのか、わからなくなることもある。でも、いまわたしは、あなたがそこから出てこられて、ほんとうに安心している」
瑞延が振り返る。少し、困ったような笑みを浮かべていた。
「勝手なのだけれど」
早瀬は口を結び、頭を下げた。お辞儀が深すぎると笑われた。
「ああ、ところで早瀬、ねえ」
そばに来て早瀬の頭を持ち上げようとしながら、瑞延はなにか思い出したようだ。
「
****
無事に仕事を終え、五人で
「なあ、緋高?」
早瀬は気構えなく話しかけた。すると緋高は、なんだぁ、とゆるんだ返事をした。早瀬は、少し上を見ながら喋った。
「さっき瑞延さんに、斎丸と話したのかって、聞かれたんだけど」
「ははぁ」
「やっぱり話ができたらいいと思うんだけど、どうやったらいいんだろう。緋高ならどうするか、教えてくれないか」
「ああ……それね……」
「うん」
「あのねぇ……」
緋高はうしろに両手をつき、天井を仰いだ。
「なんなの? おまえ恋する乙女なのか? それとも単なるばか?」
「なんだ、それ」
「知らんよ」
緋高は、心の底から面倒である、という顔をする。けれど少し間をおいてから、早瀬に問うた。
「斎丸と、なにを話したいんだ?」
「あ、えっと。生きてる限り陰気面なのは、そのとおりだって」
こたえる声が少し小さくなってしまった。緋高が目をみはり、続きを促すように、首を傾ける。早瀬はゆっくり息を吸って続けた。
「ぜんぶがおのれのせいっていうのも、思い上がりなのかもしれない」
「そうか」
緋高の相槌はほどよい重みで、言葉を継ぎやすい。
「ちょっと、思ったことがあって」
「うん」
「斎丸のことなにも知らないのに、こんなこと言うのはおかしいけど……」
斎丸とは、実はおなじようなことを考えているのではないかと、思ったのだ。斎丸も、もがいているのではないか。緋高にそう言いかけて、早瀬は思いとどまった。
「やっぱり、なんでもない。これは采丸に言う」
「そうか」
「やっぱり言わないかもしれない」
「えぇ?」
緋高が拍子抜けした声を出す。早瀬は、言わないかも、と口の中で繰り返した。似ているかもしれないからといって、こちらの考えや思いを押しつけるのは失礼だろう。とくに斎丸は、同類など欲していない気がする。
「うぅん、まあ、言わなくてもいいんじゃないか」
緋高が言った。浅緋の袖から糸くずを千切り、囲炉裏にほうり込む。ちりっと音がして、消えた。緋高は、そのなごりを眺めているようだった。
「斎丸には斎丸の領分があるからな。入られたくないところも入れる必要ないところもあるよな、早瀬もそうだし、おれもだよ」
そうだなと、早瀬はうなずいた。
「そういう領分にさ、勝手に入ろうとか、そこを奪おうとかやっちゃったら、戦になるからな」
緋高は眉間にしわを寄せ、難しい顔をする。
「戦を起こさないとなにも手に入らないとか、そういうこともあるのかもしれないけどさ、戦したって、なくすだけっていうことも多い」
早瀬も緋高とおなじように、囲炉裏の火を眺めた。ゆらゆらと、めらめらと、揺れて舞い、燃えている。手を差し出せば、噛みつかせてしまうのかもしれない。
「だからたぶん、無理に突っ込むことないし、突っ込ませることもないだろ」
緋高はこともなげに言う。
「でも、まったく交わらないのはかえって危ないらしい、領分を守るために相手がなにするかとか、なに捨てるとか、そもそも入っちゃだめなのかとか、わからなくても戦になるんだ。あと、なんか、寂しいと思うからなあ。だからちょっとだけ、つながれる方法があればいいんじゃないか、とか」
早瀬ははっとした。
「刃で、語り合う……」
「うん、まあそういうことだ。早瀬、一方的にやられてたしなあ。斎丸にはそれがかえって重かったかもだけど、まあよく知らんね」
鼻でもほじりそうな様子の緋高に、早瀬はしっかり、身体ごと向けた。
「緋高、ありがとう」
伝えると、緋高はかるくのけぞった。
「なに、どうした早瀬」
「ありがとう」
「えっと、おれなんかしたっけ」
「した。緋高が斎丸と、刃で語り合えるようにしてくれたし、あと、緋高と話してると落ち着く。いつもありがたいと思ってる」
「わぁあ」
緋高は、お手上げですという姿勢をとった。
「なんかそれ、おれがものすごくいいやつみたいだ。あとその、刃で語り合うってなんだ? なんか微妙に、笑うにも笑えないその感じ、なんなんだ?」
「わたしはかっこいいと思ったから使ってる。それと、緋高はいいひとというか」
早瀬は思ったままを口にした。
「ひとの心をおしはかれるひと」
「なんだそれ」
緋高は肩をすくめて、笑った。
「でもなんかやっぱり、いいやつみたいに思ってるだろ」
そうかもしれないと早瀬がこたえると、緋高は少し、うつむいた。
「おれは、そういうんじゃないよ。さっきの戦うんぬんって、斎丸の受け売りだし」
斎丸がそんなことを、斎丸の言葉で助けられちゃったのか、とか騒ぎだしかけて、早瀬はぜんぶ飲み込んだ。緋高の指先が、眼帯にふれるのがわかったので。
なにかが、緋高の領分に入り込んでしまっていたのだと、悟った。
「あの、緋高」
「早瀬さ」
緋高は首を傾けて、早瀬を見る。声音も表情も、いつものように明るいまま。
「早瀬が、ぜんぶ早瀬のせいにしようとしてるっていうところは、おれも斎丸とおなじ意見なんだ。いろいろ背負い込んでる気がする」
緋高は早瀬に横顔を向ける。眼帯で隠れていない、左目が見える。
「申し訳ないけど、早瀬が
早瀬は、返事ができなかった。緋高も早瀬を待たなかった。
「でも、なにも早瀬のせいじゃない。おまえはなにもわるくない」
やわらかに、緋高は言い切った。
「斎丸も、たぶんあいつが言いたかったのは、そういうことだよ。まあそれだけじゃないんだろうけど」
ゆったりとした調子で続ける。
「やったやつらが、わるいんだろ」
早瀬は口を開けて、閉じた。
「早瀬がやりたくてぜんぶやったんなら、早瀬がわるいのかもしれないけど。でもそれならおまえ、いまこんなふうじゃないはずだ」
ちょっとあきれたような笑みを浮かべる。
「とられたんだろ。そいつらだよ。早瀬のだいじなもの、とったやつらがわるいんだよ」
わるい。やったやつら。とったやつら。
故郷の村のときなら。戦を起こしたやつらとか、村に火をつけたやつらとか、ひとを喋る物品扱いしたやつらとか、みんなを、手にかけたやつらとか。そういうことに、なるのだろうか。
「そいつらの中にさ、傀でもないやつらっていないか? いないのかもしれないけど。でももしいたら、そいつらって一丁前に、怒ったり泣いたり笑ったりするだろ。たいてい言葉も喋れるし、ひとの話も聞こうと思えば聞けるんだよ」
細かなちりをつまみ、火に投げ込む。音も立てずに燃え尽きる。
「なあ早瀬」
問いかけるように、緋高は呼んだ。早瀬が、こたえるより先に。
「そいつらのこと、燃やしてやりたいって思ったことないのか」
「え……?」
「燃やしてやりたいって。そうじゃなかったら、痛い思いさせてやりたいなとか、怖い思いさせてやりたいなとか。だいじなもの壊してやるとか、ぜんぶ殺してやるとか」
朗らかさを残した声が、とろりと耳の奥へ、流れ込んでくる。
「ないんだろうな。早瀬だから。代わりに早瀬を殺せばいいってことなんだろ……。そのほうが手間も減るし」
「緋高」
「なんだ?」
名前を呼んだとたんに、あっさりした返事が返ってきた。なにを言うかなど決まっていなかった。でも呼んだ。早瀬は黙りこくっていた。すると緋高は、恥ずかしそうに肩をすぼめる。
「わるい。なんかひとりで騒ぎすぎた。ぜんぶ、勝手に考えたことばっかりだ」
早瀬はただ、首を横に振った。
「えっとだから、つまりおれは、たぶん早瀬が思ってるようなやつじゃないってことだよ。それで早瀬は、おれからしたらけっこう、わけわからなかったりする」
指先が、右目の下をなぞる。
「ああでも……、なんというか……?」
とぼけたように視線をさまよわせ、緋高は囲炉裏に向かって微笑んだ。
「早瀬がそうなら、そのままでいい」
そのままがいいよ、とかろやかに言い、半身に炎の影を映している。早瀬は、なにかこたえたかった。
「おれもそう思う」
はい? と首をかしげた緋高に言った。
「緋高がそうならそのままでいい」
力を抜くように緋高は、ばかだな早瀬とつぶやいた。直後、あっと声を上げる。
「くそ、まちがえた。ぼけかすだ。あと、ごみくずちりあくた」
「なんだそれ、わざわざそれ言うか? なにもまちがえてなかっただろ」
早瀬が苦情を言うと、緋高はなぜかきょとんとして、くすくす笑いだした。早瀬も一緒になって笑った。笑い終わったときのことを、ちらりと考えてしまったときだった。入り口の戸が、一気に開けられた。ふたり揃ってそちらを見ると、入ってきたのは尽平だった。
「ん? なんか愉快な感じだな」
尽平は気楽そうに挨拶してから、まっすぐ、早瀬を見る。
「楽しそうなとこわるいけど、ちょっと来てくれ」
「はい……」
立ち上がった早瀬に、尽平は背を向けながら告げた。
「お屋形さまがお呼びだ」
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