誕生日

緑色のドロドロした液体

誕生日

 誕生日の前日、太田は付き合っていた女に振られた。

 市内に点在するうどん屋で、女は釜あげを豪快にすすり、ぺろっと一杯たいらげると、唐突に別れを切り出した。そのまま誕生日も一緒に過ごすつもりだった太田は茫然とし、「あ、はい」といった感じで応じた。女は水を飲み干して立ち上がり、「それじゃ」と言ってヒールを響かせ出て行った。太田が食べた月見のどんぶりでは、エアコンの出す冷風に煽られ、汁に浮いた小ねぎが踊っていた。

 徐々に怒りと悲しみ、その他ぐちゃぐちゃした感情の入り交じったものが込み上げて来、太田は瓶ビールをラッパ飲みして店を出ると、コンビニでカップ酒を三本買った。のどの焼ける感覚に耐えつつ一本飲み干し、二本目を開けながら電車に乗った。案の定気持ち悪くなって車内で吐いた。蜘蛛の子を散らすように太田の周りから人が消え、遠巻きに冷たい視線を投げかけられた。場の空気に耐えられなくなった太田は次の駅で降り、改札を出て三本目のカップ酒に手をつけたが、飲み切れずに途中で捨てた。

 線路沿いをしばらく歩いたものの、酔いと疲れ、あと失恋のなんやかんやで動けなくなり、タクシーを拾って5000円以上かけて帰宅した。アパートの階段を這うようにして登り、靴も脱がず玄関に倒れ込むと、時刻はすでに0時を回っていた。

 最悪の誕生日だ、と太田は思った。


 玄関で眠った太田はその場で朝を迎えた。ぐっすりだった。スマートフォンを確認すると、SNSに、「ハピバ。」とメッセージが届いていた。昨夜、めでたくも何ともないことになったのだが、と思ったものの、説明する気にならない。しかもよく知らないアカウントの人物からで、誰だよこいつ、と思って無視した。ついでに元カノの連絡先も削除した。

 家にいても気分が沈むだけなので、用事はないが外出することにした。出がけに同じ階に住む女と鉢合わせ、すれ違いざまに、「……ございます」と小声で言われた。髪が長くて目の細い、幽霊みたいな印象の女だった。珍しいなと思いつつ、「おはようございます」と太田も挨拶を返した。女は一瞬立ち止まり、何かを言いかけたが、そのまま自分の部屋へと戻って行った。


 コーヒーを飲むため、歩いて駅前の喫茶店へと向かった。太田の心象を反映したような曇り空で、蒸し暑く、首筋を汗が伝った。横断歩道で立ち止まると、道の反対側で、腰の曲がったじいさんが太田の方に手を振っていた。周囲を見ても他に誰もおらず、太田がジェスチャーで、「俺ですか?」とやると、じいさんはうなずいた。知らないじいさんだった。誰かと勘違いしているんじゃなかろうか。信号が青に変わり、カッコウの音声が歩行を促すと、じいさんもシルバーカーを押して渡って来た。そして横断歩道の真ん中あたりで、「誕生日おめでとう」と太田に言った。

 なぜ知らないじいさんが俺の誕生日を知っているのか。

 面食らった太田は、「誰に聞いたんですか?」と聞き返したが、じいさんは、「赤になっちゃう」と急いで渡って行き、振り向きもしなかった。

 ――あのじいさんは何者だろうか。俺が覚えていないだけで、知っているじいさんだったのか。親戚にあんなじいさん、いたか? いやいない。少なくとも俺は知らない。それとも、あれか、パチンコ屋で見かけるじいさんの一人か。だとしても、誕生日を知ってるのはなぜだ?

 横断歩道を渡り切り、車一台通るのがやっとの路地に入った。両側の家のブロック塀から密集した葉っぱがはみ出て空を覆い、空気もなんだか湿っていた。

 アパートで鉢合わせた幽霊みたいな女も、普段目すら合わせないのに、急にあいさつして来て変だった。ひょっとしてあれも、「おはようございます」じゃなくて、「おめでとうございます」と言っていたんじゃないか――

 そんなことをあれこれ考えながら歩いていると、不意にカメラのシャッター音が響いた。太田が顔を上げると、せまい路地の真正面、太田と相対する形で、若い男がスマートフォンを向けて構えていた。

「何ですか?」と太田が聞くと、「いや、拡散しようと思って」と男は言った。ごつい黒縁メガネをかけ、髪をアシンメトリーに刈り上げた、サブカルの権化みたいな男だった。男はスマートフォンの操作に夢中で、太田の説明を求める視線に気付きそうになかった。なので目の前まで近づき、スマホを覗き込みながら、「何を拡散したの?」と実際に聞いてみた所、「今集中してるんで!」と男は背中を向けて激昂した。

 俺が悪いのか。いや、許可なく他人の写真を撮る方が悪いだろう。しかも拡散したし――けれどまた話しかけると何をされるかわかったもんじゃないので、これ以上関わるまいと、もやもやしたまま太田はその場を後にした。背後から再度シャッター音が聞こえたが、振り向かず、無視して立ち去った。


 それからの道中、太田はどうにも注目されている気がしてならなかった。ひそひそ話すおばさん、会釈するサラリーマン、手を振る親子連れ、二度見するカップル、「おたおめ~」などと声を投げる学生らが其処此処に現れた。芸能人でもない太田の誕生日を、誰も彼もが把握していた。祝われているというより、揶揄われている気がした。

 駅ビルの大型ビジョンではお昼のニュースが流れていた。何かの法案が施行されたようだが、周囲の目線が気になり、太田はニュースの詳細を見ずに立ち去った。平日の昼間とは思えないほど人出が多く、ロータリーの上を走る複雑な形のデッキでは歩調を他人に合わせる必要があり、気温が2度くらい上昇しているんじゃないかと思った。

 ベンチの設置された開けた場所で、ビデオカメラを持った男と、マイクを持った女が、街頭インタビューを行っていた。そして太田を見るなり近づいて来、「お誕生日、おめでとうございます」とやはり祝いの言葉を述べた。情報番組で見たことのあるアナウンサーだった。

 よくわからない状況と人の多さにうんざりしていた太田は、「今日、俺の誕生日じゃありません」と嘘をついた。女は一瞬驚いた顔をして見せた後、口元に手を当てて軽く笑い、「またまた、ご冗談を。ちゃんと記載されているじゃありませんか」と紙切れを取り出して広げた。太田の住民票だった。「どこで手に入れたんですか?」と太田は聞いた。個人情報が漏洩してるじゃないか。え、住民票って他人が閲覧できるものだっけ。できないよな。できないはずだ――しかし女は、「みんな持ってますよ?」と事も無げに言い、カメラを持つ男の方を指した。男はポケットから、やはり太田の住民票を取り出した。意味がわからない。

 いつの間にか太田の周囲に人垣ができ、「みなさんも持っていますよね?」とアナウンサーの女がマイクを向けた。するとその場の全員が、「持ってまーす」と紙切れを広げた。住民票、戸籍謄本、免許証のコピー、家系図など様々だったが、すべて太田に関するものばかりだった。

「うわあ」

 驚きを通り越して恐怖を覚え、太田は人をかき分け、輪の外へと逃げた。


「待ってください!」と街頭インタビューの二人が追って来た。太田はアーケードから横道に折れて大通りに出、別の横道から再びアーケードに戻るなど、商店街をでたらめに走った。駅前と同様、多くの人で賑わっており、「すいません、すいません」と間を縫うようにして走る必要があった。追手との距離を確認するために振り返った時、太田は前を行く人とぶつかってしまった。がたいのいい強面の男で、苛立たしげに舌打ちをされたが、太田を太田と認識するなり破顔して肩を組み、「誕生日の太田じゃないか。そんなに急いでどちらへ?」と急にフレンドリーになった。太田は萎縮し、ぼそぼそと逃げている旨を伝えた。そうこうしているうちに街頭インタビューの二人に追いつかれた。しかし強面の男にびびったのか、二人とも近づいて来ようとせず、遠巻きに眺めているだけだった。

「で、どちらへ?」と再度男が言った。

 咄嗟に、「この先の、喫茶店に……」と太田は答えた。元々コーヒーを飲みに出て来ていたので、あながち嘘でもなかった。

 男は大きく息を吸い、「道を開けろ!」と声を張り上げた。すると商店街の人々がモーゼの海のように左右に割れた。男は太田をひょいと持ち上げて肩車をし、道の真ん中を歩き出した。太田達が通ると、「お誕生日、おめでとうございます!」と歓声が上がった。アーケードのスピーカーから小気味良い音楽が流れて、紙吹雪が舞い、指笛が吹かれ、どこで用意したのか小旗を振る者まで現れた。図らずもパレードの様相を呈していた。街頭インタビューの二人はその様子の撮影に夢中だった。最初は驚きのあまりぽかんとしていた太田だったが、次第に照れの方が上回り、笑顔を貼り付け、ずっとうつむいていた。


 パレードは喫茶店の前まで続いた。強面の男は太田を下ろすと、親指を立ててウインクし、入店を促した。昔ながらの喫茶店で、看板には手書き風の文字がぐにゃぐにゃ書かれていた。太田は男に頭を下げ、店に入った。

 ドアを閉めると、先ほどまでの喧騒が嘘のように聞こえなくなった。一瞬の静寂があった後、パン、パンとクラッカーが鳴り、拍手が起こった。そして店員と客が声を合わせ、「誕生日おめでとう!」と言った。

 太田は茫然とした。

 照明が薄暗くなり、ポロシャツの男が太鼓でドラムロールを始めた。口髭をたくわえた店長らしき男が、ろうそくを立てたホールケーキを持って現れ、太田の前で止まった。その場の全員が注目している。太田は期待されている所作を理解し、ろうそくの火を吹き消した。再び沸き起こる拍手と歓声。シンバルがシャンと鳴り、くす玉が割れ、中から、「ハッピー・バースデイ」と書かれた垂れ幕が降りて来た。太田はなすがままに席に案内され、「本日の主役」と書かれたたすきをかけられた。

 店内は雑然としており、鹿の頭の壁掛け、魚の形のモビール、サボテンの鉢植え、ガムランのBGMと、統一感が微塵もなかった。コーヒーと、先ほどのケーキを小分けにしたものが供された。しょっぱいものを食べたい気分の太田だったが、言い出せる雰囲気ではなく、それらを飲み食いした。

 しばらくして口髭の男がまた近づいて来、「それでは、お待ちかねのプレゼントタイムです。私からはこれを」と、10枚綴りのコーヒーチケットを太田にプレゼントした。「あ、どうも」と、太田は受け取った。

 続いて、強めのパーマのかかったおばさんがすっと立ち上がり、「私は佐藤と申します。パティシエです。今食べているケーキを用意しました」と言い、丁寧にお辞儀をすると髪がふぁさっと揺れた。そして、「こっちは孫の花子。小学生です」と女の子を紹介した。女の子は太田に駄菓子の詰め合わせをプレゼントした。「どうも。なんか、ごめんね」と言い、太田は花子ちゃんからプレゼントを受け取った。

「次は……木村さんかしら」と初老の男が指名された。男はゆったりと立ち上がり、「私は今日、たまたまここへ寄りましてね、何も用意していなかったんです。なので、これを受け取ってください」と言い、自分のしていた腕時計を差し出した。盤面にカルティエと書かれていた。「受け取れません」と太田は断ったが、「いいから、いいから」と木村さんから無理やり握らされた。

「じゃあ今度は、井上さん」と禿げ頭の男が呼ばれた。男は頭をなで、「木村さんは時計ですか。まあ、あなたレベルならそんな所でしょう。ふふっ……、何、私も今日、ふらっと立ち寄っただけでして。誕生日の太田さんが来店することを知っていれば、事前に準備もできたんですけれど、えぇ。急ごしらえで私からできるプレゼントとしては、こんなものですかね」と鍵を取り出した。

「何の鍵ですか?」

「レクサス NX 350Hです」

「受け取れません」

「ご心配なく。5000キロも走っていないから、新車みたいなものですよ」

 そういうことではないのだが、と断る太田に、やはり鍵を握らせ、井上さんは満足げににこにこした。それに反し、カルティエの木村さんはくやしそうに歯噛みしていた。

「では、田中さんどうぞ」と、さらに小太りの男が指名された。男はふん、と鼻を鳴らし、カルティエの木村さんと、レクサスの井上さんの方をちら見すると、「私に関しては、これはもう、偶然店の前を通りかかっただけなんです。本来は来る予定すらなかったわけで。にも関わらず、こちらの店長に呼び止められて、致し方なく、とでも申しましょうか。嘘偽りなく、本当にそうなんです。なので何一つ、全くと言っていいほど、プレゼントと呼べるものは用意できていません。それで、今、私に差し出せるものとしては、これくらいなのですが……」と、文字のびっしり書かれた書類を取り出した。

「何ですか、これ?」

「レジデンスタワーJPってご存じですか? あ、ご存じない。駅の裏手の、海沿いにできたばかりのタワマンですがね。あ、それはご存じでしたか、さすがに。あれです。あれ、レジデンスタワーJPって名前のタワマンでしてね、あれの最上階の部屋の契約書です」

「受け取れません」

「高所恐怖症でしたか?」

「ですから、そういうことではなくて……」

 カルティエの木村さんと、レクサスの井上さんは、タワマンの田中さんをにらみつけ、「用意してないとか、嘘ばっかり言いやがって!」「お前こそ、準備万端だったじゃないか!」「どこの誰が契約書なんか持ち歩くんだ! 業者か!」などと、お互いに罵り合った。

 口髭の男が、「あの三人は、いつもああなんです。仲良しなんですよ」と太田に説明をした。そして、「では最後に店長、こちらへ」とポロシャツの男に言った。ポロシャツの方が店長だった。まぎらわしい。

 店長はきれいに包装され、リボンのかかった箱を太田のテーブルに置き、ジェスチャーで、「どうぞ」と促した。太田は箱を開けた。中から、ひとまわり小さいサイズの箱が出て来た。それを開けるともうひとまわり小さい箱が、それも開けるとさらに小さい箱が出て来た。様子を見ていた花子ちゃんがくすくすと笑っていた。マトリョーシカ式に箱はどんどん小さくなって行き、最終的に指先サイズの箱を開けると、中には何も入っていなかった。

 意図を汲みかねた太田は、「えっと、これは、どういう……?」と店長の方を見た。店長はにこにこしたまま、何も言わなかった。

 その時、こぶし大の石が窓ガラスを割った。同時に外の喧騒も流れ込んで来、「誕生日の太田はどこだ!」「俺にも祝わせろ!」などと喚いていた。パレードで集まった人々の一部が暴徒化していた。喫茶店の入口では、先ほどの強面の男が頭から血を流しながら門番のように立ち塞がり、他の者の入店を拒んでいた。割れた窓から入って来ようとする輩もおり、木村さんと井上さんと田中さんが、「なんだこの野郎!」「バカ! いたいいたい!」などと言ってモップやほうきを振り回し、侵入を防いだ。佐藤さんと花子ちゃんはカウンターの裏へ隠れていた。

「これは大変だ。どうぞ、裏口からお逃げください」と、口髭の男が店の奥へと案内した。太田は急いでプレゼントを紙袋に詰め、その場を後にした。店長だけが変わらずこにこし、ケーキを頬張っていた。

 裏口から店の外へ出ると、あちこちで火や煙が立ち昇り、暴動の大きさを物語っていた。太田は一刻も早く家に帰りたかった。会計を済ませていなかったので、「おいくらですか?」と財布を取り出した。しかし口髭の男は手の平をすっと前に突き出すと、「けっこうです。だって、お誕生日でしょう?」とやんわり断り、「大通りに出て左手の駐車場に、井上さんのレクサスが停まっていますので、ご利用ください」と戸を閉めた。


 消防車や救急車のサイレンが鳴り響いていた。いつもなら客待ちのタクシーが並んでいる大通りには一台の車も停まっていなかった。というより、暴徒のせいで一帯が歩行者天国のようになっており、逃げ遅れた車はボンネットから煙を吹いて鉄くずと化していた。それは井上さんからもらったレクサスも例外ではなく、太田は車での移動をあきらめて徒歩で家路を急いだ。目立たないよう、「本日の主役」のたすきははずした。

 太田が大通りを斜めに横切っていると、徐々にサイレンが近付いて来、目の前でパトカーが停まった。うぃーん、と音を立てて窓が開き、警官が顔を出した。「太田さんですね。逮捕します」

 太田はどぎまぎした。身に覚えがない。この暴動だって、自分が扇動したものではなく、勝手に周囲が盛り上がった結果だ。あと可能性があるとすれば、喫茶店でのプレゼントの類だろうか。

「このカルティエは違うんです。さっきもらったんです、木村さんに。こっちはレクサスの鍵。これもやはり、井上さんが俺にくれたんだから驚きです。そしてこれはなんとタワマンの契約書。信じられないでしょうが、田中さんに譲ってもらった物なんです。本当です」と言い訳をした。言葉を重ねれば重ねるほど嘘っぽくなった。太田はよく職務質問を受けるのだが、その際、必ずと言っていいほど悪者に仕立てられた。実際には悪いことはしていないので解放されるのだが、今回は持っている物が物だけに、長引きそうだった。

 しかし警官は聞く耳を持たず、助手席から降りて来、「◯時◯◯分、確保」と太田に手錠をかけ、後部座席に押し込んだ。

 誕生日に逮捕されたんだが、と太田は思った。

 警官に気を取られて気付かなかったが、後部座席にはもう一人女性が座っており、太田と警官の三人でぎゅうぎゅう詰めになった。女性は誰でも知っているレベルの国民的歌手で、それは太田も例外ではなく、彼女を二度見した。

 「道中、お暇でしょう。これは私からの、ささやかなプレゼントです」と女性シンガーは言うと、「ハッピーバースデイ ディア 太田」とアカペラで歌い始めた。と同時に、パトカーもとろとろと動き出した。やけにゆっくり進むな、と思っていると、周囲の暴徒達が女性シンガーの歌に合わせ、急にフラッシュモブを始めた。隣の警官が、「サプラーイズ」と笑顔でいい、手錠を外した。緊張と緩和のなせる技か、はたまた女性シンガーの歌唱力の賜物か、心情とは裏腹に太田の目からは涙が伝い、頬を濡らした。

「到着しました」とパトカーが停まった頃には、警官から差し出されたハンカチが、太田の涙と鼻水でぐしょぐしょになっていた。太田は着ているシャツに女性シンガーのサインを書いてもらい、パトカーから降りてお礼を言った。


 喫茶店で田中さんから譲ってもらったマンションの前だった。レジデンスタワーJP。最上階は遥か遠く、雲の中に突っ込んで行くようで、太田は目がちかちかした。

 エントランスホールにはコンシュルジュがおり、「おかえりなさいませ、太田様。そしてお誕生日おめでとうございます」と言って、部屋の鍵と花束を太田に手渡した。プレゼントやら何やらで、いつの間にか太田の両手はふさがっていた。

 エレベーターを待っていると、背後から太田の名を呼ぶ声がした。昨夜、太田を振った女だった。コンシェルジュに取り押さえられ、駆けつけた警官から、「◯時◯◯分、確保」と手錠をかけられていた。女の化粧はくずれ、髪もボサボサで、ひどい有様だった。床に押さえつけられたまま太田の方を見、「ごめんなさい! 許して!」と絶叫していた。太田は、「あ、はい」と言ってエレベーターに乗り、最上階のボタンを押した。


 エレベーターからは外が見渡せ、地面がぐんぐん離れて行った。

 何がどうなってこうなったのか、太田には想像もつかない。

 人生はサプライズの連続だ。予想できないから刺激的なのだ。

 まったく、最悪で最高の誕生日だな、と太田は思った。


 最上階の部屋のドアを開けると、メゾネットタイプの広々とした室内に、シックな色合いの家具が配され、天井ではファンがゆっくりと回っていた。そして太田が部屋に入るのを見計らったように固定電話が鳴り出した。太田はテーブルに荷物を置くと、電話に出た。

 母親からだった。

「誕生日、おめでとう」

「ありがとう」

 ガラス戸越しに見える街の景色は、夕闇に染まろうとしていた。



終わり

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