『メ』の神謡 -シュメール文明の終焉-
浅里絋太
本編
紀元前二千四年。チグリス川とユーフラテス川の交わる肥沃な泥土の上に、ウル第三王朝はしがみついていた。
あらゆる物が泥で成り立っていたと言っても過言ではない。神殿、家々、器、ベンチ。湿地に生えるナツメヤシ。それから採れる甘い果実と希少な木材。
そして相次ぐ反乱の火種には事欠かず、シュメールを統べるはずのウル王朝は、内乱と周辺民族の侵攻に疲弊の影を見せていた。
◆ ◇ ◆
血に濡れた細い手が、燭台の炎が揺れるレンガの壁に倒れかかった。
引きつった少女の横顔が浮かび上がる。怯えたリスのように震え、目をきょろきょろとさせる。
彼女には何が起こったのか分からない。いや、にわかには受け入れられない。今までの出来事はきっと夢か、冗談か、幻に違いない。月、満月。銀の光に誰も彼もおかしくなっているのだろう。
ごく僅かに黄色がかった、しかし純白と呼べる薄手のローブが揺れる。亜麻が織り込まれた巫女の法衣は、もはやくたびれた死者の衣となっていた。
聖なるラピス・ラズリの頭飾りはとうにちぎられ、サンダルは片足にしか残らない。
「どこへ逃げるって言うの?」
少女は悲痛そうに唇を噛むと、それでも再びよろよろと壁を離れ、暗い回廊をおぼつかない足取りで歩んだ。
遥か後ろの広間からはまだ女の叫び声が止まず、レンガが崩れ落ちる音や金属がぶつかり合う音がこだました。
土を固めたレンガのかさかさした臭い。松明の焦げる臭い。血のすえた臭い。そのいずれの感覚も現実だとは思えなかった。正気を保つ事は簡単だった。自らの感覚を放棄すればよいのだ。
少女は巨大な神殿の中を、いずれ行き止まるであろう事にも構わず、あるいはもはやそんな判断力も枯れ果てたのか、ひたすら奥へ奥へとまろび歩き続けた。
少女の視界が色を失い始めたのは、レンガの色が変わったからでは無い。そう言う意味では血を失い過ぎた。
法衣の右腕と腿辺りがばっさりと裂け、そこから桃色の血の花が幾輪も広がっていた。
やがて混濁とした彼女の意識に、昼間の光景が蘇った。ビールを飲む上機嫌な兵士たち、汗だくな楽士たち。
全身をふわっと高揚させるシェム太鼓。優しく胸を撫でるハープの旋律。
それらは執念と誇示の染み込んだ神殿を慰めるように感じられた。
ナンナの祭祀部屋に辿り着いた時、その弦の音がはたと止んだ。
「エリシュ」
胸がちくりと痛む優しい声が彼女の耳に流れ込んだ。
瞳を上げると、そこには褐色の腕にハープを抱えた、少年の静かな笑みがあった。
「エリシュ。来てくれたんだね。本当に良かった。僕は……、僕の足は愚かにも歩く力を失ってしまった。まるで、膝から下がナツメヤシになっていて、それを泥に突っ込んでいるみたいだ。不具者ウムウルに等しい。――エリシュ。そんな顔をしないでおくれ。そんな事は何でも無いのだから。そうだ、曲は……、天空の節に入る所だった気がする。良かったら聞いていておくれ。この曲は『地上の月』と言う。ついぞ完成する事も無く」
少年は口をすっと閉じ、腫れ上がった打撲だらけの体を気にもせず、右手を弦に走らせた。
こぼれる連音は輝く葡萄の粒を思わせた。
やがてそれは天空神アンを示す和音に変わり、左手が短弦の上を踊り始めた。
その旋律は怯えていた少女の胸に染み込んだ。この音色にさえ包まれていれば何が起きても怖くない。何の後悔すら無い。そんな思いがとろりと沸いた。
少年は眉根を寄せ、ハープが流々と織り成す囁きに身を任せるようだった。
やがて、強いイナンナの和音が明星の如く響く。地上の月は天に昇る。どこまでも光に昇って行くような旋律に変わる。
しかし、少女は純水に混ざった一滴の『メ』を感じ、身を震わせた。
その調べは禁断の楽園ディルムンの、豊かな泥土や花々、そこで遊ぶ神々を思わせたからだ。
神々はウルの民を愛し過ぎた。シュメール最期の王国、ウル第三王朝はこの日、中東の砂塵へその姿を没した。墓標には血で『バビロニアの祖父』と書かれた。
◆ ◇ ◆
給仕女の手には、大きな酒瓶が傾けられていた。アムル人にしては顔立ちも体も細い。
杯を受けるウル人の兵士は顔を赤くして、白ビールが満たされるのを待った。兵士とは言っても麻の上下に、兵士職である目印として胸当てをする程度だが。
「ありがてえ、この蒸し暑い中、デズ川で冷やしたビールが最高の命の水だ!」
男は杯をかっと仰いだ。
高い天井にはレンガがアーチ状に被さり、同じく土色の壁には、切り込みに松明が無数に埋め込まれている。
そしてひたすら蒸し熱い。兵士や神官、王侯たち、ざっと百名近くが所狭しと広間に集まり、ある程度は身分ごとに場所を決められていたものの、それすら祝宴の中では無礼講に近いものがあり、とにかく熱気の中で一様に杯を酌み交わし合っていたのだ。
普段は軽んじられ易い、濃い褐色のアムル人も、今宵ばかりはウル人に混ざって嬌声を上げていた。
レンガ敷きの広間の東と西には大きな開け放しの門があり、そこへ寄って酒を片手に満月を見上げる者たちもいた。今夜の主役はウルの都市神でもある、月の男神ナンナであるからだ。
ドーン、タ、ドド、ドーン、タ、ドド
御前の舞台で、上半身をさらけたアムル人たちのシェム太鼓が響く。楽隊は全部で十人程であり、中でも半数が地面に太鼓を傾けて構え、斜めから諸手で打ち鳴らしている。踊り子たちの汗がきらきらと光る。
「おうおう、始まったな。まことに心地よい響きではないか」
玉座に鎮座する白き髭の主、イッピ・シン。彼はウルの都市と神殿の主であり、混迷たるシュメールの主でもあった。彼は一際屈強そうな衛兵に囲まれていた。
人々は空気をびんびんと震わせる太鼓の音を耳にし、わっと歓声を上げた。低音と高音が入り混じった緩急巧みな演奏が人々を呑み込む。
太鼓の唸り声はナンナ祭に集まった人々にビールを呑ませ、若者の心臓を奮え立たせ、踊り子のしなやかな腰に情熱を与えた。
やがて一つの大きな太鼓の音がドーンと響いた時、熱くうねる音楽の奔流がはた、と止んだ。
興をそがれた人々が思わず舞台を見る。その視線に手繰られるように、楽隊の奥に埋もれていた巻き毛の少年が立ち上がり、ハープを抱えて前に出る。
ぱっと見ると何の芸もなさそうなアムル人の少年だが、人々の視線はそうは語らない。
踊り子の口元に浮かぶ期待の笑み。杯を口から離して「イルムが弾くぜ」と誰にともなく唸る兵士。
少年イルムはハープを撫で、納得したように周りを見る。すると何の前触れもなく瞳を閉じ、弦の上へ右手を流した。
奏でられたナンナの和音は、無論、今宵迎える月神に捧げるため。
食い入るようにうっとりと眺める人々。観客の心をさらうには、褐色の指の一掻きで十分だった。
それを合図にしてゆっくりと躍り出たウル人の少女、エリシュ。薄手の白いローブをまとい、額にはラピス・ラズリを中央にはめた金冠が光る。
黒髪が首のうねりに合わせて艶やかに舞う。細い手首が空中を滑り、腕輪がぶつかり合って音をたてた。
舞台の中ほどまで出てきた少女は、そこで無心にハープを奏でるイルムをちらりと見て微笑を送る。
踊り子にしてはものものしい衣装は、ナンナを迎える妻役のみが着けるものだ。それは彼女が最高位の神官、大巫女である事を表した。
エリシュのウル人らしい小麦色の肌は、黒曜石のように艶やかだった。その手足が飛び立つ水鳥のような機敏さで舞ったかと思うと、凍り付いたように止まり、そしてまた玉の汗を震わせて肢体をしならせた。
イルムのハープも一層燃え上がる。控えめな爪弾きの音は、芯の強い激しい和音の連続になった。赤くなった両手の指は何度も、何度も弦を叩く。
うなる弦の響きは魔力を持っていた。聞く者の心をえぐり、同化して、心臓を直接撫で上げるような生々しい旋律だった。
ハープがひとつ鳴くたび、エリシュの肩をびくんと震わせ、汗に濡れた髪を躍らせ、手足を次の形に運ばせた。
ナンナ祭の会場はいつのまにか宴のおもむきを忘れ、稀に見るほどのぴりぴりとした神事の空気に包まれた。
馬鹿笑いの大口は閉じられ、杯から顎が上げられ、若者の目が遊女の腰から離された。
いつでも最も大切な式典ほど音楽に導かれ、それに締めくくられるのだ。
そしてエリシュは月神ナンナの妻として、密やかにその役を果たした。恍惚と閉じられた、彼女の小さな貝のような瞼の裏に、ナンナが語った言葉は誰も知らない。
イルムは生ぬるい夜風を感じながら、神殿の屋上からウルの町並みや山々、風景を見下ろしていた。
満月はウルの泥土やレンガを銀の光で浮かび上がらせた。城砦の東を流れるデズ川は月光を写し、金属のように輝いた。湿地にはナツメヤシたちがまばらに生え、孤独な夜の住人のように見えた。
「イルム、何を見ているの?」
くすんだ栗毛の少年は背後のエリシュに振り向かず答えた。
「闇を。何て明るい闇なのだろう。僕は思うんだ。月神ナンナは太陽神の父だと言う。ならばナンナがしろしめす夜こそが、人の住むべき本当の世界なんじゃないかってね」
「でもね、ナンナは暦と霊気を下さるけれど、命を下さるのはいつだって太陽なのよ。夜の賢者はひっそりと全てを見渡し、黄金の王が生き物を導くのよ。そう。銀の光は人を惑わせる。メの輝きよ! 賢者の声は、人の耳にはあまりに恐ろしい」
イルムはふと振り返って、エリシュの細い横顔を見た。激しい舞いのせいか黒髪がほつれ、汗が染み込んでひたひたとなった白い法衣にかかっていた。アムル人の少年は、そんな彼女の瞳に怯懦の影を見て取った。
「エリシュ。聞いたのかい? 声を」
大巫女の額がゆっくりと前に傾いた。少年にはそれが頷いたのか、うなだれたのか分からなかった。いずれにしても同じ事だった。
エリシュは金糸の入った法衣を撫で付け、煌々と光る満月を見上げた。
「あのお方は言った。それは、私が音楽と踊りに熱中し、月の光に溶け込む心地の時」
少女の視線が銀の皿のような満月からイルムに向けられた。
「心配しないで、それが私の仕事なのだから。あのお方の妻として、心を通わせる事が」
イルムにとっては想像も付かない、恐ろしい概念だった。月神と繋がるとはどんな感覚なのか。そんな事が可能なのか。人間に赦される事なのか。
エリシュは薄っすらと桃色の唇を開いた。
「イルム。この世は泥よ。混沌とした泥土はレンガにされ、乾き、乾き過ぎ、やがて粉々に砕けてしまう。神々の姿が刻まれた神殿の壁も、赤く塗った家も、人も。私たちも。ああ、そして、大いなるウル王朝すら。メは守って下さるのかしら? それとも、滅びを焼き付けるの? 神々の暦には何が彫られていると言うの!」
イルムはごくりと唾を呑み、その続きを待ったが、少女の口はもう語る事はしなかった。
少年は再びぐるりと顔を遠い山々に向けた。幽玄とした山稜。ウルの都に続く、薄墨で描かれたような大地。それら風景の全てが闇に溶けて消えてしまいそうだった。
デズ川の向こうで光る、どこの者たちか知れない不穏な明かりを除けば。
じりじりと、痛々しい音をたてて松明が焦げる。獣が肉を食むように、炎は杉の樹脂と皮を貪り赤々と揺れた。
それに照らされる浅黒い因業そうなエラム人の顔は、陰影がきつく浮かび上がり、悪魔のようになっていた。
アサグ、とはシュメール人が指す山の悪魔。それが呼び名にふさわしいだろう。ドゥルガシェル、などという名よりも。
ウルの城砦が近いため、ドゥルガシェル王は自軍に明かりを控えさせていたが、その命令が行き届いているとは思えなかった。
暗い森の中で木々に混ざって行軍する兵士たちの表情は興奮も露で、命令を叫ぶ兵長の兜などより、ウルの城壁に目が釘付けになって、いずれの手にも松明が握られていた。ひたひたと湿地を進む軍団の熱気は、炎のように渦巻いて川向こうのウル城砦を目指していた。
(上等だな、ウルのレンガは焼成して完成させていると言う。なれば、とことん地獄の業火で焼いてやろう。奴らめ、東に構えるエラム人を甘く見たな。明日の太陽は冥界で拝むがよい。さあ、千の軍にいつまで持ち応えられるかな!)
蛮族の王は口端を歪めて、遠く城壁の上で夜風にたなびくウルの軍旗を一瞥すると、右手を斜めに突き出した。
「全軍止まれ」
部隊長たちによって、その指示は波のように広がって行った。
「ウル人の、例の捕虜を連れて来い」
王の指示により引かれて来たのは、麻の上下とサンダルを履き、白い髭を生やした山羊のような男だ。目は憔悴と恐怖でひきつり、濁っている。
ドゥルガシェルは、松明をその初老の顔に突きつけた。
「おい、分かっていると思うが、これは、お前らが好む形だけの儀式やはったりではない。それを良く考えて答えよ」
ウルの捕虜は無言で何度も頷いた。目は松明を睨んでいる。頬や腕には新しい火傷の痕が見える。
「火傷を増やしたくなければ俺を怒らせるなよ、もう一度聞くぞ。ウルの大巫女が『メ』の秘密を握っているのだな?」
それを聞いた怯える男は、祖国愛を泥に汚すのが厭わしいか、一瞬苦々しい表情をしたが、さんざんなぶられた後の口は鯉よりも簡単に開いた。
「は、はあっ、そ、そうですっ! 本来『メ』の光は人間の霊からは果てし無く遠いもの。大巫女の他に、ウルの月神と繋がる者はおりませんだ」
恐るおそる機嫌を伺うように王の顔を見上げるが、何の叱咤も礼も聞こえてこなかった。
王のアサグの目、山の悪魔の目は、ウルの月神たるナンナの丸い姿を見上げ、やがて不敵な視線をウルの城壁に投げた。
ナツメヤシの森には戦車が引き摺る車輪の音、がちゃがちゃ騒々しく武器や盾がぶつかる音がこだました。
若いウルの兵士は銅剣を振り上げると、鈍い金属音をたててエラム人の槍を払った。大巫女の護衛兵の象徴である、丸い月の腕章が光った。
「エリシュ様! 逃げて下さい!」
細面の若い護衛兵は切実な声で呼びかけた。エリシュは体を震わせ、目の前で死んでいくウルの兵を痛々しく見つめる事しかできなかった。
ナンナ祭の片付けも済まぬうち、神殿になだれ込んで来たエラム人は、飢えた野犬の群れの如くほろ酔いのウル人に襲い掛かっていった。
祭りの余韻の和やかな談笑は、瞬時として阿鼻叫喚に変わった。
護衛兵や見張り番の者は少なくとも銅の兜や剣を帯びていたが、祝宴に興じていた兵は、慰み程度の胸当てに丸腰と言った状態だった。無論血の池に倒れるのはそう言う者たちからだった。
神官たち、女たちの中には奥の大神殿へ逃げ込めた者もいたが、多くは引き摺り倒され、神を冒涜する言葉と共に止めを刺された。
ウル人には理解出来なかった。何故ウルを見守るナンナ神は、こんな夜盗同然のエラム人たちをその懐に招いたのか。何故『メ』の力を持って冥界の戸口に彼らを放り込まなかったのか。
そんな羊たちを嘲るように、嬌声と共に、嵐のように吹き荒れるエラムの狂犬たち。
エラムの兵、と言うより賊たちは、一様に皮の兜に銅の胸当てという軽装だったが、槍の扱いが恐ろしく鋭く、彼らの槍に立ち会えるウル兵は皆無だった。
日に焼けた獰猛な顔、筋張った手足から繰り出される槍の穂先には、血に濡れた鉄の鈍い輝きがあり、牙のようにウルの男をえぐっていった。
レンガに吸い込まれるどす黒い血は、もはや呪われた川のように溢れ返っていた。
エリシュは今にも崩れそうな足腰を健気に突っ張って進んだ。幾十にもなろうとしているウル人の亡骸を否が応にも目にしたが、賢明にも自らの心は死なせなかった。
「ああ、ナンナよ! あなたは! 従順なウルの民に恐ろしい試練を与えたもうた! 地の底の冥界は、ウルの血で満ちている事でしょう。私たちに何かいけない事があったのでしょうか?」
その問いに答えたのは踊り子の断末魔だった。
エリシュは背後に荒々しい吐息を感じて振り返ると、まさしく槍を振り上げたエラム人の黒い顔があった。「動くな! 大人しくすれば何もしない」たどたどしいウルの言葉で低く唸った。
少女は恐怖にすくむよりも、恐怖に弾かれた。エリシュが逃げる素振りを見せたとき、エラム人のごつい手に握られた槍が走った。咄嗟にもエリシュは一度目の突きをかわしたものの、二度目の突きは肩を掠め、三度目は内腿をえぐった。焼けるような激痛が細い体を巡る。皮膚にはずっと刃を押し当てられているような焼ける痛みが残る。
エリシュの脳裏に、何故か優しい笑顔が浮かぶ。今ではそれが何であるかも思い出せない。ただ、このまま二度と、黄金色のレンガの神殿、輝く太陽に向かって伸びるナツメヤシの林、ウルの歴史の上にそびえる壮観な街並みが見られなくなる事が恐ろしかった。
しかしどこかで、自分はこんな事で死ぬわけがない、とも思った。冥界の扉を背に当てた誰しもがそうであるように。
血走る目のエラム人は、低い唸り声をあげてもう一度槍を突き出した。動きを止めようと言うのか、蛇のように伸びて少女の腿に食らいつこうとした時。
脇から颯爽と飛び出したウルの護衛兵が、エリシュの前にその身を放った。すると、どすっ、と鈍い音を残して二人の男の動きが止まった。エリシュは一瞬、時が止まったかのように錯覚した。
護衛兵は苦しそうに身をよじったが、痛みにもひるまず右腕の短剣をエラム人の喉に走らせた。レバノン杉のような逞しい上腕をもって。
すると敵兵の喉の皮がたわんだかと思うと、真っ赤な鮮血が吹き出た。
エリシュには凶暴な肉の山が殺しあっているように見えた。戦場において尚更、男たちが同じ種類の生き物だとは思えなかった。女と子供は自らを守る事で精一杯だが、男たちは様々なものを守る事ができるではないか。女、家族、誇り、祖国。それに比べて何と自らは非力な事か。
護衛兵の焦点の合わない瞳が少女に向けられる。敵の槍は下腹に深々と刺さっていた。掠れた声が絞り出される。
「エリシュ様、ウルは終わってしまうのでしょうか? この神々に守られし、千年の泥土を治めるこの王国が。――伝説に歌われる滅びの哀歌。我々はその一つに加わろうとしている。おお、エリシュ様。エリシュ様。怪我をされたのですか? 恐ろしい! あなたまで傷つけられるなんて! あなたは、あなたは逃げてください。あなたが生きていてくださればウルは死にません。忠義の兵たちは冥界より生まれ変わって、必ずや再びあなたを守る事でしょう。だから、あなたは、逃げて、ください」
血の池の中でその声は力を失った。エリシュはその身を今すぐ冥界に捧げてしまいたくなった。
しかし、その喉を短剣で貫かなかったのは、一つの顔が浮かんだから。
「ああ、イルム。イルム! あなたは無事なの?」
栗毛の大人しい少年。彼が傷ついて苦しんでいたら、殺されていたらと思うと、体中があわだった。目前の死体を前にしても尚、少年のハープを操る細い手、控えめな笑顔が胸に強く蘇った。
少女は法衣をたくし上げ、神殿の奥へ転がるように進み始めた。
ドゥルガシェル王はナンナ祭の広場で、おびただしい敵味方の屍の上を、何かを探すように眺め回していた。倒れた神像、苦悶の死に顔、うめき声、砕かれた水壷、折れた槍、それらがひたすら乱雑に散らばり、洪水が過ぎた森のような光景になっていた。
「あれは見つけたのか?」
王は槍の柄を杖代わりにしているエラム兵に声をかけた。怪我を負っているらしく、肩をぐっと押さえている。
「はっ! 見かけた者もいるようですが、未だ捕らえておりません」
兵卒が恐れながらはっきり言い切った。
ドゥルガシェルはそんな彼を睨みつけながら、ウル人の血によってぬるついた鉄の胸当てを締め直した。ぼろぼろになった槍の穂先を見て、まだ使えそうなのを確認して、改めて口を開いた。
「いいか、殺してはならんぞ。あれは『メ』を手に入れるためにどうしても必要なのだ。ええい! 部隊長どもは何をやっている! お前のような下っ端に言っても詮無いわ!」
兵卒は恐縮して立ち尽くしたが、王が目の前を通り過ぎると、ほっと胸を撫で下ろした。
ドゥルガシェル王は、ナンナ祭の広場から続く、荘厳に飾り立てられた大神殿への入り口の前に立った。
扉を縁取るように神々の名が順番に記されていた。
エンキ、エンリル、ナンナ、イナンナ……
その一つ一つの名前に、破壊の限りを尽くした王は畏れを覚えたが、野望の炎が吹き消されるほどには至らなかった。彼は神々の名を迷信として一笑に付すわけではなかった。何故なら、その力の象徴を求めるあまり、このような戦を起こしたのだから。
(シュメールの神。恐ろしい者どもよ。いかずちで俺を殺すか? 剣で貫くか? いずれにしても俺はすでにここまで来た。狩りに出て獲物がなかったという結果にはせん。この手でお前の細い首を掴み、その言葉を俺に捧げさせて見せよう。その言葉こそ……、『メ』)
陰険な狼のような王の横顔が、かび臭い空気を掻き分ける。革靴のべたべたとした足音が薄暗いレンガの回廊を走り抜ける。
いずこからか聞こえるハープの音が、いわれの無き直感、確信をもたらしたのだ。
ハープの旋律は神の賛美に満ち、弔い歌のように悲哀に満ちていた。そして音楽自体が自らの旋律を闇の淵に葬るような、ぞっとする甘美さを持って王を導いた。
(いるな。シュメールの神に身を捧げた大巫女よ。お前の臭いを感じるぞ!)
とうとうドゥルガシェルは最も奥まった祭祀部屋の扉を見つけると、古めいた様式のそれに目をやった。それに合わせるように、先ほどから耳をくすぐる弦の音が絶たれた。
(この刻印を見よ! 『月神ナンナはウルをすべからく治め、見守る』とある。皮肉な事にウルはとんだ災難にあって、もはや野獣に食い散らかされた屍のようになっておるぞ)
そして王は何らためらう事なく、その扉を押したのだった。
彼は自身の野望の結末をそこで見た。人の身に持て余したその望みの無謀さに後悔の念を投げかけたが、しかし瞬時にその後悔を誓いに塗り替えた。それを結末にはしなかったという意味において。
柔らかそうな、冷たくなり行く二つの体。
傍らに転がる、ぬるりとした赤いものに濡れたハープ。
結ばれた二つの手。
それが答えだった。それが王が求め、願い、恐るべき数のウル人とエラム人を犠牲に捧げ、得られたものの答えだった。むべなるかな、神はやはりウルを守ったのであった。
小さく王の口元が動いた。
「何が、何が起きた? 『メ』は巫女の死によって消え去ったのか? しかし光がどこまでも道を射し、闇がどこまでも暗いよう、『メ』がふっつりと消える事はないはずだ! ゆめゆめあれはそう言うものらしいからな。良いだろう。我は追い求めよう。幾千の年が大地を巡っても、その言葉をお前から聞こう。我が魂は求め続けるだろう。我が名が『メ』において悪魔のとなりに列せられようとも」
王の手元には油の尽きかけた松明が揺れていた。その炎に照らされた彼の顔には、伏せがちな鋭い瞳がぎらりと光を放っていた。
『メ』は天空より万物を包んでいた。それは神の叡智として責を果たそうとするかのように。あるいはずっと古くから真理の一つとしてそこにあったかのように。誰しもが『メ』を魂の住処としながらも、離れすぎて帰る事はできなかった。
『メ』は人を求め、人は『メ』を求めた。
その力は歴史の彼方に埋もれてもなお、人類の営為を見つめているのだ。
『メ』の神謡 -シュメール文明の終焉- 浅里絋太 @kou_sh
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