第4話
翌朝。
開店前に店の前の通りに立ち、外側から窓拭きをしていたら窓ガラスに黒い影が映り込んだ。
(大きいひとに背後をとられた……!?)
セシルは動揺のあまり手を止めてしまった。後ろの人物も微動だにしない。どういうことだと怯えながら振り返ると、そこには見知った青年が立っていた。
「おはよう……ございます?」
「うん。おはようございます」
朝の挨拶を返してきたのは、黒髪の美丈夫エリオット。
明るい光の下で見ると、身につけた黒衣と相まって陰鬱な印象は拭い難くあるものの、それが憂いを含んだ目元の美しさを際立たせてもいる。女性の中では長身のセシルよりもさらに背が高く、長いまつ毛を伏せるようにして向けてくる視線は物言いたげだ。
「どうしたんですか」
「通勤途中。今日からこの道を通ることにした。帰りもここを通る。その、『色男』である君が暴漢に襲われるのを阻止する目的だ。用心棒のあてがあるなら早急に手配した方が良いだろう。それまで、制服姿の騎士がうろついているだけでも、それなりに抑止力になるはずだ。一宿一飯の恩だ」
色男、という言葉にセシルは内心で苦笑いしそうになった。
(エリオットさん、私が男だと勘違いしているんですね。たしかに、敢えて「女です」と言う機会もなかったですし、言ったからといってどうということも無いわけですが)
それに、男だと思い込んだままなのに身辺を気にしてくれているのだから、下心もなく親切な人柄なのだろうと好ましく感じた。
セシルは店の方をちらっと視線で示してから、エリオットに微笑みかける。
「一宿一飯と言われましても。食事はともかく、宿を貸した覚えは無いですけど、気にかけてくださってありがとうございます。朝ごはんは食べました?」
途端、エリオットの表情が強張った。何がそんなに気に触ったの? とセシルも目を見開いてしまったが、苦しげに告げられたのは予想外の申し出。
「……朝は食べてきてしまった……。朝も営業していると知っていれば。惜しいことをした。昼は仕事を抜けられないが、夜の営業時間に間に合えば。何か食べさせて欲しい」
瞳にすがるような光が浮かんでいる。
セシルは一瞬、いつかの日にコインを握りしめて「これで食べられるだけのものを」と店に飛び込んできた少年を思い出してしまった。どう見てもかなり厳しい生活をしている様子のその子に、セシルは「お腹が空いているなら、好きなだけ食べなさい」と料理を振る舞った。心ゆくまでがつがつと貪り食べたその子は身寄りのない孤児で、そのまま店に居着いた。そして現在、元気いっぱい働いている。名をニコラという。
(でもエリオットさんはたぶん、騎士の中でも高給取りの類の……、食うに困る身空ではないと思うのですが)
黒のロングコートは、王宮勤務の黒騎士の制服だ。一人ひとり武芸に秀で、教養も高く、式典等では要人警護にあたる精鋭部隊と聞く。制服が不審者への威嚇になるというのは、はったりではなく実際にその通りで、いまも道行くひとから視線を集めていた。
「うちの店、朝はパンの販売、昼と夜はしっかりめの食事をご用意していますけど、お酒は出していないので終わりは早いです。でもエリオットさんがお越しになるならお待ちしていますよ」
「いや、帰りは時間が読めないんだ。遅くなったら申し訳ない。君も負担だろう」
「そうは言っても、私はここに住んでいますから。待つのは苦ではないですし、夜道を歩く心配もありません。店を閉めた後でも、一人分くらいは……エリオットさん?」
苦悩していた。その苦み走った顔には「本当はうんと言いたいけど、ものすごく図々しい気がして言えない。でも嘘は言いたくない」とわかりやすーく書き込まれていた。
名を呼ばれると、さらに眉をぎゅっと寄せてから、辺りをちらっと見る。それまでちらちら窺っていた町人たちが、さっと蜘蛛の子を散らすように去った。
周りにひとがいなくなるのを見計らって、エリオットは一歩セシルへと距離を詰める。予期していなかったセシルは後ろ足で下がり、とん、と窓に背をぶつけた。
「エリオット、さん?」
「これは、後日タイミングを見て君に言うつもりだったんだが……。君がここに暮らしていることは、知ろうと思えば知れるわけだよな。夜、店から出て行かないことで。君は男の俺の目から見ても非常に美しい青年だ。昨日のように面倒事に巻き込まれるのも慣れているようだが、もっと夜間も警戒した方が良い。その……、昨日の夜、この店の周りをうろついている人影があった。声をかけたら逃げて行ったが、明らかに店の中を窺っていた」
「……はい」
(昨日の夜……? 昼に帰ったエリオットさんはなぜその時間ここに戻ってきたんですか? 通勤路にできるくらいだから、この近所にお住まいで、たまたま?)
疑問は尽きなかったが、セシルは余計な口を挟まずに返事をした。「美しい青年」と言われたことも意識しないようにつとめた。それでも戸惑いは伝わったのだろう、エリオットはばつの悪い顔で続けた。
「不審者と同じことをしている俺を信じて欲しいとは言いにくいんだが、昨日の暴漢、すぐに釈放になっていたのを確認してきたので、気になって見に来てしまったんだ。声をかけた相手は同一人物ではないようだったが君が無数の危険に晒されているのはわかった。俺がつきっきりで護衛できないにしても、できる限り気にかけたいと思う。一宿一飯の」
「宿は貸しておりません。が、そうと言い張ってでも守ろうと思うほど、エリオットさんが並々ならぬ責任感の持ち主であることもわかりました。しかし私としてもそこまでして頂くわけにはいきません。私はこれまでもずっとここで営業してきたわけですし、別に」
「なぜ、用心棒を遠ざけた? 危険があると自分でわかっているんだろう?」
厳しい追求というより、気にかけているがゆえの問いかけといった様子で、セシルはつっぱねることもできずに言葉に詰まる。
やがて、小さく息を吐き出した。
「私はこういった仕事をする中で、ひとと接することも多く、自分の勘を信用しています。あなたのことは信じられる……と思います。もしよろしければ、今晩何時になっても待っていますから、ぜひお店にお越しください。少し話をしましょう」
セシルが告げると、エリオットは「必ず来る」と言い残して、その場を後にした。
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