第2話

「十番テーブルの料理上がってるよ! ニコラ、運んで!」


 熱気渦巻くキッチンから、涼しい声が響く。

 ホールから軽い足取りで戻った給仕の青年ニコラが「ウィ!」と返事をして、並んで湯気を立てている皿を見た。

 マッシュポテトを添えたラムチョップのグリル、生クリームが白く孤を描くそら豆のポタージュ、バリッと皮が堅焼きのパン。食材そのものは高級ではないが、どれもこれも彩りよく盛り付けられ、食欲をそそる極上の香りを漂わせていた。


「ほんっとにシェフの料理はいつ見ても美味しそうですね。お客様の顔を見ていてもわかりますよ。皆さん幸せでたまらないって顔で食べてますし、ほぼほぼリピーターになるし、大繁盛店だし。シェフはイケメンだし」

「私語は慎んで。お客様お待たせしないで」

「はい、行きますけど、シェフ。六番テーブル」


 キッチンに立ち、コックコート姿で振り返っている、金髪で細身の料理人。青い目を瞬かせた顔立ちは甘く、夢見がちな女性の理想そのもののように整っている。


「六番テーブルがどうしたの?」


 よく透る声で返したその人に向かい、ニコラは愛想よく笑って言った。


「女性三人組なんですが、噂のシェフを見てみたいと盛り上がってまして……。もし手が一瞬でも空くようでしたら、ホールを一巡」

「期待しないでおいて。料理まだまだ後がつかえてる!」


 明るく答えて、火にかけた鍋に向かう、すっきりと背筋の伸びた後ろ姿。

 ニコラがこの店で働き始めた頃すでに料理人として一人前になっていたその人は、店の大元である商会側の人間とのこと。本来、自ら現場に立つ必要は無い高貴な身分らしいが「見ていたら面白そうで、暇だったし……」と仕事に手を出しているうちに、ついには店で一番手になってしまったのだった。

 名はセシル。

 裏方にいるのがもったいないほどの美貌で、滅多にホールには出ないにもかかわらず、一目見たいという客が老若男女問わず多い。

 給仕のニコラとしては、セシルが忙しいのは重々承知であるものの、客同士で「見てみたい!」と会話しているのを耳にすると、ついお節介をしたくなってしまう。この自慢の上司を、とにかくいろんなひとに見て欲しい。

 セシルもそれを邪険にする人柄ではないので、是非にと頼み込むと、ちらっと顔見せするくらいのサービスはしてくれるのだ。

 この日も、いつも通りニコラは客の希望を伝え、了解したセシルは都合をつけてホールに出てきた。


 事件はそこで起こった。



 * * *



「お前か、シェフのセシルってのは。俺の女に色目を使って骨抜きにして、ずいぶんと悪どいことをしてくれたらしいな」


 テーブルの間を歩き、終わった皿を下げようとしていたセシルの手元に落ちた影。

 顔を上げたセシルが目にしたのは、スーツ姿の紳士。様子がおかしい。憤っている様子で、ぴりぴりとした緊張感を漂わせている。


(俺の女? お客様のどなたかの夫?)


 皿を手にすることなく、セシルは男に向き合って、淡々とした声で答えた。


「普段私が働いている調理場はあの壁の向こうで、色目を使うのは不可能と同義。まず、ホールに視線が通らない。骨抜きとは言うが、私は人間の骨を抜いたことはない。魚の骨はよく抜いている。さて、悪どいこととは具体的に何か?」

「ずいぶんと人をなめくさったこという男だな」

「人間を舐めることはない。あなたは私を何だと思っている」


 一瞬にして店内が静まり返り、向かい合う二人が注目の的となる。

 動きを止めていたニコラは「あちゃ~、シェフ、天然ものだからなぁ」と大仰に手で顔を覆っていた。おそらく聞く人が聞けばその受け答えは「なめくさっている」のだが、セシルはどこまでも律儀に会話に応じているだけなのだ。この、齟齬。

 男はひくりと顔を引き攣らせ、「盗人猛々しいなこの色男」と吐き捨てた。そのまま、セシルへ向かって手を伸ばす。

 さっとかわして、セシルは青の瞳に剣呑な光を宿らせ、男を睨みつけた。


「埃が立つ。おいたをするなら表へ出ろ」

「よし、そこまで言うならとことんやってやる。そのお綺麗な顔をぼこぼこに整形して、目にものをみせてやるよ」


 へらっと笑って、男はドアへと向かった。セシルはといえば眉根を寄せて「なぜ私があの男のおいたに付き合うことになっているんだ?」と首を傾げていたが、ひとまず歩き出した。口を挟みそびれていたニコラが、そこでようやく騒ぎ出す。


「シェフ、やめましょうよ。警邏けいらに任せましょう。ひとっ走り呼んできます。どうせ言いがかりです、シェフの女関係がクリーンなのは、誰でも知っていますから。おおかた、よそさまの夫婦喧嘩か何かでシェフの名前が出たんでしょうが、濡れ衣でしょう?」

「それはそうなんだけど、警邏が来るまでの時間稼ぎくらいはする。店内で暴れられたら迷惑だ」

「ええ~、不安だなぁ。シェフ、料理の腕はともかく腕っぷしはからっきしなんですから、早まらないでくださいよ……」

「善処する」


 甚だ不安を煽る一言ともに、セシルは表通りへと出て行く。先に外で待ち構えていた男は、ジャケットを脱ぎ、ベスト姿で首を回したり指をポキポキと鳴らしたりしていた。

 一方のセシルは、調理に明け暮れていてもほとんど汚れていないコックコート姿。金糸のような髪を首の後ろできっちりと一本に結んだシンプルな装いで、顔立ちの美しさが際立っている。


「見れば見るほどいい男っぷりだねえ。殴りがいのある顔してやがる」

「どこに目をつけていれば、そこまで的はずれなことを言えるんだろうな。いい男とは」


 ぶつぶつと言うセシルに対し、男が拳を振りかざして殴りかかってきた。

 危なげなく、セシルは動きを見切って姿勢を低くし、直撃を避ける。


「酔っ払っているのか? 足元がふらついている」


 言うなり、足を払って男を街路の石畳に転ばせた。


「てめえ……!」


 起き上がった男がさらに踏み込んできた。セシルはこれも避けようとしたが、自分のすぐ横に、幼い少女が立っているのが一瞬視界をかすめた。避けたら彼女が危ない、と躊躇して動きが鈍る。

 殴られる。

 痛みを覚悟したそのとき、真横をすり抜けた黒い風。


「白昼往来で、なんの騒ぎだ。酔っぱらい同士の揉め事なら両方しょっぴくぞ」


 低く深みのある声。

 バランスを崩して転びそうになりながら、セシルは視界を埋める広い背中を見た。

 陽の光に艶めく黒髪。黒一色の制服。身なりも体つきも訓練された兵士そのもので、鎮圧に乗り出してきた警邏なのだろう、とあたりをつけた。


「言いがかりですよ! 思い込みでいきなりうちのシェフに暴力振るってきたんですよそいつ!」


 集まり始めていた野次馬の間から、ニコラが声を張り上げる。

 男の腕を引っ掴んで突進を止めていた黒服の青年が、ちらっとセシルを振り返った。

 長いまつ毛の、物憂げな黒瞳。凛々しさと香気を漂わせた端正な面差しをしており、目が合うと低い声で尋ねてきた。


「君はそこの店の料理人か。怪我はないか?」




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