【短編小説】光と影の禅堂 ―ある若き尼僧の視点から―(約12,400字)

藍埜佑(あいのたすく)

【短編小説】光と影の禅堂 ―ある若き尼僧の視点から―(約12,400字)

●第1章:入寺


 木々のざわめきで目が覚めた。


 昂源院の小さな僧房で、私は布団の上で身を起こす。まだ夜が明けきっていない。でも、もうすぐ朝課の時間だ。


 私の名は淋雲。19歳。この昂源院に入寺してまだ半年も経っていない新参の尼僧見習いである。


 スマートフォンの画面を確認する。4時45分。


「使用は必要最小限に」


 入寺の際、そう言われた端末だが、まだ完全には手放せないでいる。時計代わりという建前で、こっそり持ち続けているのだ。


 昂源院は、由緒ある禅寺である。開山以来五百年の歴史を持ち、現在は住職の澄明和尚のもと、十名ほどの僧侶と尼僧が修行に励んでいる。そんな場所に、私のような者が身を置いていることが、時々不思議に感じられる。


 薄暗い廊下を歩きながら、入寺した日のことを思い出していた。


 あれは春の終わり頃。桜の花びらが散り切った境内に、私は不安げな足取りで立っていた。


「ここで、本当にいいのかな……」


 そんな迷いを抱えながら、門をくぐった。


 スマホ依存で、コミュ障で、人生に絶望していた私が、なぜ禅寺を選んだのか。今でも、うまく説明できない。


 ただ、何かを変えたかった。このまま、意味もなく時間が過ぎていくことには、もう耐えられなくなっていた。


「おはようございます」


 廊下で出会った年配の尼僧、妙心さんに深々と頭を下げる。


「おはよう、淋雲さん。今朝は早いのね」


 妙心さんは、いつも優しい笑顔で接してくれる。私のような新参者にも、分け隔てなく話しかけてくれるのだ。


 本堂に向かう途中、ふと空を見上げた。まだ暗い空に、朝星がまたたいている。


 この半年で、少しずつ寺での生活にも慣れてきた。決まった時間に起き、決まった作法で一日を過ごす。そんな単調な日々が、不思議と心を落ち着かせてくれる。


 本堂では、すでに数人の僧侶たちが座禅を組んでいた。その中に、円庭咲夜さんの姿もある。


 咲夜さんは、私が最も畏敬している尼僧の一人だ。33歳という年齢は、私からすればずいぶん上に感じる。しかし、その眼差しには、年齢以上の深い何かが宿っているように思える。


 特に最近は、ある出来事があって以来、その存在感が一段と増しているように感じられた。


 木魚の音が、静かな本堂に響き始める。


「色即是空、空即是色……」


 般若心経の読経が始まった。半年経った今でも、私はまだ完全には暗記できていない。そっと経本を見ながら、皆の声に合わせる。


 読経が終わると、座禅の時間となる。


 私は、相変わらず足がしびれるのを我慢しながら、なんとか座り続けた。


 呼吸を整え、心を静めようとする。が、相変わらず、様々な想念が次々と浮かんでくる。


(あ、そういえば昨日のツイート、あれでよかったかな……)

(いや、そんなこと考えちゃダメだ)

(でも、気になる……)


 我ながら情けない。こんな私を見て、先輩たちは何を思うのだろう。


 チラリと咲夜さんの方を見る。


 凛として端正な姿勢。少しも揺らぐ気配がない。


(私も、いつかあんな風に……)


 そう思った瞬間、咲夜さんが小さくため息をついた。


「?」


 気のせいだったかもしれない。でも、確かに何かあったような。


 普段の咲夜さんからは想像もつかない、弱さのような何か。


 その日の朝食時。


「淋雲さん」


 突然、咲夜さんに声をかけられた。


「は、はい!」


 思わず声が裏返る。咲夜さんが直接話しかけてくるのは、珍しいことだった。


「今日の午後、少し時間をいただけますか?」


「え、はい、もちろんです!」


 慌てて返事をする。内心では、何事かと動揺していた。


 午後、咲夜さんは境内の小さな庵室に私を招いた。


 畳の上に正座して向かい合う。緊張で、背筋が自然と伸びる。


「お茶を、どうぞ」


 咲夜さんは、静かにお茶を差し出した。


「あ、ありがとうございます」


 茶碗を受け取る手が、少し震えている。


「淋雲さん」


「はい」


「私に、何か感じることはありますか?」


 突然の質問に、戸惑う。


「え、あの、それは……」


 言葉を選びながら、慎重に答える。


「咲夜さんは、私にとって、とても……尊敬する存在です」


「そうですか」


 咲夜さんは、穏やかに微笑んだ。


「実は、私にも友が……師匠と思える友がいました」


「え?」


「月輪詠子という人です」


 その名前を聞いて、私は小さく息を飲んだ。


 詠子さんのことは、寺で時々話題に上るのを聞いたことがある。しかし、その詳細については、よく知らなかった。


「詠子さんは、昨年、亡くなられました」


 咲夜さんの声は、静かだった。


「突然の脳動脈瘤破裂でした」


 私は、言葉を失った。若くして亡くなったその尼僧の存在が、急に現実味を帯びて感じられる。


「私は、その時……大きく揺らぎました」


 咲夜さんは、ゆっくりと続けた。


「修行者として、生死を超えた境地を目指していたはずなのに。無常を説く経典を幾度となく写してきたはずなのに」


 話す声に、僅かな震えが混じる。


「でも、目の前で起きた現実は、あまりにも残酷でした」


 私は、ただ黙って聞いていた。


 なぜ、咲夜さんは私にこんな話をしてくれるのだろう。


「淋雲さん」


「は、はい」


「これから、私が指導係を務めさせていただきます」


「え?」


 思わず声が上ずる。


「住職から、そう仰せつかりました」


 咲夜さんは、穏やかに微笑んだ。


「私も、かつては詠子さんに導かれ、ここまで来ました。今度は、私が次の世代を導く番なのです」


 その言葉に、深い意味を感じた。


 命のバトンは、こうして受け継がれていくのか。


 その日から、私の修行の日々は、新たな段階に入った。


●第2章:師との出会い


 咲夜さんとの関係が始まって、一週間が経った。


 毎朝の座禅の後、少しの時間をいただいて、個別の指導を受けることになった。


「呼吸に集中するのです」


 咲夜さんの声が、静かに響く。


「ただ、今この瞬間の呼吸に」


 言われるまでもなく、それが大切なことは分かっている。でも、実際にやってみると、これが本当に難しい。


 相変わらず、次から次へと雑念が浮かんでくる。


「今朝の味噌汁、ちょっとしょっぱかったな」

「あ、そういえばお布団のシミ、どうしよう」

「LINE、返信しないと……って、ダメダメ!」


 内心での葛藤を、咲夜さんは見透かしているようだった。


「気にすることはありません」


 優しい声で言ってくれる。


「雑念が浮かぶのは、自然なことです。ただ、それに囚われないこと。それが大切なのです」


 その言葉に、少し安心する。


 でも、同時に疑問も湧いてきた。


「咲夜さん」


「はい?」


「修行って……何のためにするんですか?」


 思い切って、素直な疑問をぶつけてみた。


 咲夜さんは、しばらく黙っていた。


「それは、とても良い質問です」


 ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「かつて、私も同じ疑問を、詠子さんにぶつけたことがあります」


「え? そうだったんですか?」


「ええ。その時、詠子さんは何と答えたと思いますか?」


 私は考え込んだ。


 経典に書かれているような、格調高い答えだったのだろうか。それとも、禅問答のような、謎めいた言葉だったのか。


「詠子さんは、ただ笑って、『分からないわ』と答えました」


「え?」


 予想外の答えに、驚く。


「そして、こう続けました。『だからこそ、修行するのよ』と」


 咲夜さんは、懐かしむように微笑んだ。


「最初は、拍子抜けしました。でも今は、その答えの深さが分かる気がします」


 私には、まだよく理解できない。


 でも、その言葉の中に、何か大切なものが含まれているような気がした。


 その日の夕方、境内の掃除をしていた時のことだ。


 突然、スマートフォンが震えた。


(あ、メッセージだ)


 反射的に確認しようとして、はっとする。


(ダメだ。今は掃除の時間なんだから)


 懸命に気持ちを抑える。


 すると、咲夜さんが近づいてきた。


「確認してもいいですよ」


「え?」


「大切な連絡かもしれません」


 その言葉に、少し戸惑う。


「でも、修行中なのに……」


「修行は、日常と切り離されたものではありません」


 咲夜さんは、静かに続けた。


「大切なのは、何をするかではなく、どう向き合うか。それが、詠子さんから学んだことです」


 その言葉に、心が少し軽くなった気がする。


 確認してみると、母からのメッセージだった。


「体調はどう? 無理してない?」


 いつもの心配性の母らしい言葉に、少し胸が熱くなる。


「ありがとう。元気にやってます」


 短い返信を送る。


 スマートフォンをしまいながら、ふと思う。


 これも、修行の一部なのかもしれない。


 日が暮れて、夜座禅の時間。


 本堂に、ゆっくりと闇が満ちていく。


 ろうそくの灯りが、仏壇をほのかに照らしている。


 今日は、いつもより雑念が少ない気がする。


 呼吸に意識を向けると、全身が波打つように震えているのが分かる。


 吸う息。

 吐く息。


 その繰り返しの中に、不思議な心地よさを感じる。


 ふと、目を開けると、咲夜さんが静かに微笑んでいるのが見えた。


 その夜、自室に戻る前に、咲夜さんが声をかけてきた。


「淋雲さん」


「はい」


「明日から、新しい課題を始めましょう」


「はい! どんな課題ですか?」


「写経です」


 その言葉に、少し緊張が走る。


 写経。経典を一字一字、丁寧に書き写していく修行だ。


「般若心経からです」


 咲夜さんは続けた。


「詠子さんと私も、かつてこうして始めました」


 その言葉に、何か深い意味を感じる。


 伝統は、こうして受け継がれていくのだ。


●第3章:動揺と共感


 写経を始めて、一週間が経った。


 最初は筆の持ち方から戸惑ったが、咲夜さんの丁寧な指導のおかげで、少しずつ要領がつかめてきた。


「一文字一文字に、命が宿っています」


 咲夜さんはそう教えてくれた。


「ただ写すのではなく、その意味を心に刻みながら」


 その言葉の意味が、徐々に分かってきた気がする。


 般若心経の一字一字には、深い意味が込められている。それを丁寧に写していくことで、自然と心が落ち着いてくる。


 ある日の午後のことだった。


 いつものように写経に集中していると、突然、咲夜さんの筆が止まった。


「咲夜さん?」


 声をかけると、咲夜さんは深いため息をついた。


「すみません……ちょっと」


 その声には、普段には無い深い疲れが混じっていた。


「休憩しましょうか?」


 私が提案すると、咲夜さんは小さく頷いた。


 庭に面した縁側で、二人でお茶を飲むことになった。


 初夏の風が、さわやかに吹き抜けていく。


「実は……」


 咲夜さんが、静かに語り始めた。


「今日は、詠子さんの月命日なんです」


「あ……」


 私は黙って聞いていた。


「彼女と最後に写経をしたのも、確かこんな季節でした」


 咲夜さんの目が、遠くを見つめている。


「突然でしたね。机に突っ伏すような形で……」


 その時の様子を、咲夜さんは淡々と語った。


 しかし、その声の奥に、深い痛みが隠されているのが分かった。


「私、最近思うんです」


 咲夜さんは続けた。


「人は、本当に悟ることができるのでしょうか」


 その言葉に、ハッとする。


 咲夜さんのような方でさえ、そんな疑問を抱えているのか。


「私なんて、スマホも手放せないのに……」


 思わず、本音が漏れた。


 すると、咲夜さんは優しく微笑んだ。


「それでいいんです」


「え?」


「完璧を目指す必要はありません。ただ、一歩一歩、進んでいけばいい」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 この時まで気づかなかったが、私は無意識のうちに、完璧な修行者像を追い求めていたのかもしれない。


 そして、それは咲夜さん自身も、かつてそうだったのではないか。


 それからの数日間、私は咲夜さんの様子を、より注意深く観察するようになった。


 普段は凛として揺るぎない存在に見える咲夜さんだが、時折見せる人間らしい弱さや迷いに、どこか安心感を覚えた。


 完璧な聖者ではなく、悩みながらも前に進もうとする等身大の人間。そんな咲夜さんの姿に、より深い尊敬の念を抱くようになった。


「淋雲さん」


 ある日、写経の後で咲夜さんが声をかけてきた。


「はい」


「医療機関での布教活動に、一緒に来ていただけませんか?」


「え?」


 突然の提案に、驚く。


「住職から、そのような指示がありました」


 咲夜さんは説明を続けた。


「現代社会において、禅の教えがどのように活かせるのか。それを探る試みの一つです」


 私は、少し考え込んだ。


 医療機関。それは、まさに生と死が交錯する場所。


 そこで、私のような未熟者に何ができるのだろうか。


 しかし、咲夜さんの真剣な眼差しに、迷いを振り払われた。


「はい、お供させていただきます」


 その決意が、私の修行の新たな転機となった。


●第4章:苦悩の共有


 大学病院の一室で、私は緊張した面持ちで座っていた。


 咲夜さんは、脳神経外科医の中原啓太先生と話をしている。啓太先生は、寺の年配の尼僧・妙心さんの弟さんだという。


「最近の研究では、瞑想が脳に及ぼす影響について、興味深い発見がありました」


 啓太先生は熱心に説明する。


「特に、ストレス管理や感情制御の面で、大きな可能性が示唆されています」


 私は、その話に聞き入っていた。


 科学と禅。一見相反するように思えるその二つが、実は深いところでつながっているのかもしれない。


 病棟の見学も許可された。


 重い病と向き合う患者さんたち。その傍らで懸命に支える家族たち。


 そこには、人生のあらゆる苦悩が凝縮されているように感じられた。


「こんにちは」


 咲夜さんが、一人の若い患者さんに声をかけた。


 まだ20代半ばくらいだろうか。脳腫瘍の治療のため、長期入院を余儀なくされているという。


「あ、こんにちは」


 患者さんは、弱々しく微笑んだ。


「今日は、お話を聞かせていただけますか?」


 咲夜さんの柔らかな問いかけに、患者さんは少しずつ心を開いていった。


 病気への不安。将来への絶望。家族への申し訳なさ。


 それらの思いを、咲夜さんは静かに、しかし確かに受け止めていく。


 私は、少し離れた場所から、その様子を見守っていた。


(これが、現代における禅の実践なのか)


 そう思いながら、私も他の患者さんたちと、少しずつ会話を重ねていった。


 最初は戸惑いばかりだったが、ただ真摯に耳を傾けることの大切さを、身をもって学んだ。


 病院での活動を始めて、一ヶ月が経った頃。


 ある出来事が起きた。


 私たちが定期的に訪問していた、その若い患者さんが亡くなったのだ。


 咲夜さんの表情が、一瞬こわばるのを見た。


 詠子さんのことを、思い出したのかもしれない。


 病室の前で足が止まった。ドアの向こうからは、押し殺したような啜り泣きが聞こえる。咲夜さんは一瞬、深く息を吐き、目を閉じた。その横顔に、一筋の痛みのような影が走るのを、私は見逃さなかった。


 しかし、その表情は一瞬で消え、代わりに静かな慈悲の光が差し込むように変化した。咲夜さんは、そっとドアをノックした。


「失礼いたします」


 柔らかな声だった。しかし、確かな強さを秘めている。


 遺族の方々が、ハッとしたように顔を上げる。赤く腫れた目、乱れた髪、握りしめたハンカチ。悲しみの重さが、部屋全体を満たしていた。


「このたびは……」


 咲夜さんは深々と頭を下げた。しかし、それは形式的な弔意の表明ではなかった。その姿勢には、人生の無常を受け入れながらも、なお人々の苦しみに寄り添おうとする、深い慈悲が滲んでいた。


「息子さんは、最期まで、大変頑張られました」


 咲夜さんの声が、静かに響く。


「息子は……息子は……」


 母親が言葉を詰まらせる。咲夜さんは、ゆっくりとその傍らに座った。決して急かすことなく、ただそこに在ることで、相手の心に寄り添っている。


「昨日の夕方、お経を一緒に読んだ時、とても穏やかな表情をされていました」


 咲夜さんの言葉に、母親の表情が僅かに和らいだ。


「本当に……そうでしたか?」


「はい。特に『般若心経』の『色即是空』のところでは、小さく微笑まれていました」


 私は部屋の隅で、その様子を見守っていた。咲夜さんの一つ一つの言葉、仕草が、深い共感と理解に基づいているのが分かる。それは決して演技ではない。


 遺影の中の青年が、穏やかな笑顔を浮かべている。その写真に目をやりながら、咲夜さんは静かに続けた。


「苦しみの中にあっても、最後まで周りの方々への感謝を忘れない、素晴らしい方でした」


 その言葉に、家族の方々の目から、新たな涙が溢れ出た。しかし、それは純粋な悲しみの涙とは少し違っているように見えた。どこか、誇りのようなものが混ざっているような。


 咲夜さんは、決して急がず、決して形式的にならず、しかし確実に、遺族の方々の心に寄り添っていった。時折、亡くなった方との思い出を共有し、時には黙って相手の言葉に耳を傾け、また時には経典の言葉を通じて慰めを示す。


 私は、その姿に圧倒されていた。


 たった一時間ほどの間に、部屋の空気が少しずつ変化していくのが分かった。深い悲しみは依然としてそこにあるものの、何か小さな光が差し込んできたような、そんな変化だった。


 最後に咲夜さんが立ち上がる時、母親が彼女の手を取った。


「ありがとうございます。息子も、きっと……」


 言葉は途切れたが、その意味は十分に伝わっていた。


 部屋を出た後、廊下で咲夜さんは静かに合掌した。その姿に、私も自然と手を合わせる。


 夕暮れの光が窓から差し込み、廊下に長い影を作っていた。その光と影の境界線が、不思議なほど柔らかく溶け合っている様子が、どこか象徴的に感じられた。


 その夜、本堂での読経が終わった後。


「淋雲さん」


 咲夜さんが、私を呼び止めた。


「はい」


「今日のこと、どう感じましたか?」


 私は、正直に答えた。


「怖かったです」


 少し間を置いて、続ける。


「でも、同時に……何か大切なものを学んだ気がします」


 咲夜さんは、静かに頷いた。


「生と死は、切り離せないものです」


 その言葉には、深い重みがあった。


「だからこそ、私たちは今、ここにいるのです」


 月明かりが、障子を通して差し込んでいた。


 その光の中で、咲夜さんの横顔が、どこか見たことの無い筈の詠子さんに似ているように見えた。


 命は、確かにこうして受け継がれていくのだ。


 それは、苦しみの共有であると同時に、希望の継承でもある。


 私は、そんなことを考えながら、静かに合掌した。


 翌朝の座禅で、不思議な体験をした。


 いつものように呼吸に意識を向けていると、突然、すべてが溶けていくような感覚に襲われた。


 自分の輪郭が、まるで霧のように曖昧になっていく。


 そして、本堂全体が、一つの大きな生命体のように感じられた。


 木魚の音が、まるで宇宙の鼓動のように響く。


 読経の声が、波のように押し寄せては引いていく。


 それは、ほんの一瞬の出来事だった。


 目を開けると、すべては元通りだ。


 しかし、確かに何かが変わった気がする。


 世界の見え方が、少しだけ違ってきたような。


 その体験を、咲夜さんに報告すると、彼女は穏やかに微笑んだ。


「はじまりですね」


 その言葉の意味を、私はまだ完全には理解できない。


 でも、確かな手応えのようなものは感じていた。


 それは、修行の道のりにおける、小さいけれど確かな一歩だった。


●第5章:新たな発見


 秋風が境内を吹き抜けるようになった頃、私の中で少しずつ変化が起きていた。


 まず気づいたのは、スマートフォンへの執着が薄れてきたことだ。


 以前は無意識のうちに手が伸びていたのに、今では本当に時計代わり以外にはほとんど使わなくなっていた。


 代わりに、鳥の声や風の音、木々のざわめきに、より敏感になっていった。


 写経の時間も、より深い集中ができるようになってきた。


「上手くなりましたね」


 咲夜さんに褒められて、少し照れる。


「いえ、まだまだです」


「謙遜する必要はありません」


 咲夜さんは、優しく微笑んだ。


「成長は、素直に喜んでいいのです」


 その言葉に、心が温かくなる。


 病院での活動も、新たな展開を見せていた。


 当初は戸惑いばかりだった患者さんとの対話も、今では自然に行えるようになってきた。


「お坊さんと話すと、心が落ち着くわ」


 ある高齢の患者さんが、そう言ってくれた。


「私なんかまだまだ未熟者ですが……」


「いいのよ。あなたの一生懸命さが伝わってくるの」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 帰り道、咲夜さんが言った。


「淋雲さんには、大切な才能がありますよ」


「え?」


「人の心に寄り添える優しさです」


 私は、黙って歩き続けた。


 自分では、まだまだ至らないと感じている。


 でも、一歩一歩、確実に何かが変わっているのは確かだ。


 ある日の夕方、本堂の掃除をしていた時のこと。


 何気なく仏壇を見上げると、夕陽が金具に反射して、不思議な光景が目に飛び込んできた。


 光の帯が、まるで生き物のように揺らめいている。


 その瞬間、ハッとした。


「これが……」


 咲夜さんが、静かに近づいてきた。


「見えましたか?」


「はい」


 言葉では説明できない何か。


 でも、確かにそこにある何か。


「光と影は、一つなのですね」


 私の言葉に、咲夜さんは深く頷いた。


「その通りです」


 その夜の座禅で、また不思議な体験があった。


 呼吸に意識を向けていると、突然、自分の存在が空間全体に広がっていくような感覚。


 同時に、本堂に集う皆の呼吸が、一つのリズムを刻んでいるように感じられた。


 それは、詠子さんが感じたという「不思議な感覚」に、近いものだったのかもしれない。


 翌朝、住職との面談があった。


「成長が見られますね」


 住職の言葉に、私は深く頭を下げた。


「しかし、それに満足してはいけません」


「はい」


「常に初心を忘れずに」


 その言葉の意味を、私は深く心に刻んだ。


 医療機関での活動も、新たな段階に入っていった。


 啓太先生の提案で、患者さんたちに簡単な瞑想法を教えることになったのだ。


「ストレス軽減に効果があります」


 啓太先生は、科学的な根拠を示しながら説明してくれた。


「特に、慢性的な痛みを抱える患者さんに、良い影響が期待できます」


 咲夜さんと相談しながら、初心者でも取り組みやすいプログラムを考案した。


 深い呼吸法。

 短時間の座禅。

 簡単な写経。


 それらを組み合わせた、15分程度のセッション。


「無理のない範囲で」


 それが、私たちの基本方針だった。


 はじめは戸惑う患者さんも多かったが、続けているうちに、少しずつ手応えが見えてきた。


「痛み止めの量が減りました」

「眠りが深くなった気がします」

「気持ちが落ち着くようになりました」


 そんな声が、徐々に聞かれるようになった。


●第6章:試練と成長


 病室に、夏の午後の重たい空気が漂っていた。エアコンの音だけが、単調に響いている。


 中村さん――二十代半ばの若い患者さんは、この一週間ほど、私たちの提案する瞑想プログラムに参加してくれていた。表情は常に硬く、どこか遠慮がちだったが、少なくとも拒絶はしていなかった。


 その日も、いつものように呼吸法の指導を始めようとした時だった。


「もうやめましょう、これ」


 突然、中村さんが言った。普段の柔らかな声とは違う、冷たい響きがあった。


「中村さん?」


 私が声をかけると、彼は急に顔を上げた。その目に、今まで見たことのない激しい感情が渦巻いていた。


「こんなの、意味ありますか?」


 声が震えている。それは怒りだけでなく、何かもっと深い感情に起因するものだと直感的に分かった。


「呼吸を整えたところで、この腫瘍が小さくなるわけじゃない。痛みが消えるわけでもない。何も変わらないじゃないですか!」


 言葉が、まるで堰を切ったように溢れ出る。その声には、長い間押し殺してきた苦しみ、怒り、絶望、すべてが混ざっていた。


 点滴台を握る手が、白くなるほど力が入っている。


「毎日毎日、同じことの繰り返し。呼吸を整えて、心を落ち着けて……でも、目を開けたら、何も変わってない。むしろ、どんどん悪くなってる。なのに、なのに……!」


 私は完全に言葉を失っていた。確かに、その通りだ。私たちの行っていることは、病気そのものを治すわけではない。その事実の前で、どんな言葉も空虚に思えた。


 その時、咲夜さんが、静かに一歩前に出た。


 彼女の足音が、不思議なほど明確に響く。


「はい、その通りです」


 その言葉は、まるで清らかな水のように、重苦しい空気の中にぽとりと落ちた。


 中村さんの目が、大きく見開かれる。私も同じく驚いていた。まさか、咲夜さんがそう言うとは。


「私たちにできることは、本当に小さなことです」


 咲夜さんの声は、静かでありながら、確かな強さを持っていた。


「痛みを消すことはできません。病気を治すこともできません」


 彼女は中村さんの目をまっすぐ見つめながら、続けた。


「でも、時として、その小さな一歩が、思いもよらない変化につながることがある。それを、私は経験から学びました」


 その言葉には、詠子さんとの経験が、確かに込められているように感じられた。


「変化は、必ずしも目に見える形では現れません。でも……」


 咲夜さんは、窓の外を見やった。木漏れ日が、病室の床に揺らめく模様を作っている。


「例えば、今このように怒りを表現できること。それも、一つの変化かもしれません」


 中村さんの表情が、わずかに揺らいだ。


「最初にお会いした時の中村さんは、すべてを抑え込もうとしていました。怒りも、悲しみも、苦しみも、すべて」


 その言葉に、中村さんの目が潤んだ。


「しかし今、その感情を正直に表現できている。それは、小さいけれど、確かな変化です」


 病室に、長い沈黙が流れた。


 エアコンの音。

 点滴の滴る音。

 遠くで鳥の鳴く声。


 中村さんは、ゆっくりとベッドに寄りかかった。肩から力が抜けていくのが見える。


「私は……何もできないんです……」


 その声は、さっきまでの怒りに満ちた声とは違っていた。どこか、子どものように素直な響きがあった。


「何もできなくていいんです」


 咲夜さんは、そっと中村さんの傍らに座った。


「ただ、ありのままでいい」


 窓から差し込む光が、少しずつ位置を変えていく。影も、それに合わせてゆっくりと動いていく。


 その光と影の境界線が、しだいにぼやけていくように見えた。


 その夜、咲夜さんと二人で振り返りをしていた時。


「私も、同じように怒りを感じたことがあります」


 咲夜さんが、静かに告白した。


「詠子さんが亡くなった時」


 私は、黙って聞いていた。


「なぜ、こんなことが起きるのか。何の意味があるのか」


 咲夜さんの声には、今でも微かな痛みが混じっている。


「でも、その経験があったからこそ、今の私があるのです」


 その言葉に、深い真実を感じた。


 苦しみは、避けられないもの。

 でも、それを通じて、私たちは成長できる。


 その認識が、私の中でより確かなものになっていった。


 翌日から、私はより丁寧に患者さんの言葉に耳を傾けるようになった。


 表面的な会話だけでなく、その奥にある感情まで。

 言葉にならない思いまで。


 するとある日、あの怒りを露わにした中村さんが、ポツリと言った。


「すみませんでした、あの時は」


「いいえ」


「実は、少し効果が出てきているんです。痛みというか、気持ちの面で」


 その言葉に、私は深く頷いた。


 小さな変化。でも、確かな一歩。


 それは、私自身の修行においても同じことだった。


 ある朝の座禅で、またあの不思議な感覚が訪れた。


 今度は、より鮮明に。

 より深く。


 まるで、本堂全体が呼吸をしているかのよう。


 私の呼吸も、皆の呼吸も、建物の軋む音も、すべてが一つのリズムを刻んでいる。


 そして、その中に詠子さんの存在も感じられた。


 直接会ったことはないのに、確かにそこにいる。


 過去も現在も未来も、すべてが一つに溶け合うような感覚。


 目を開けると、咲夜さんが静かに微笑んでいた。


 言葉は必要なかった。

 確かに、何かが共有されていた。


●第7章:深まる理解


 冬の厳しい寒さが訪れる頃、私の中で新たな変化が起きていた。


 それは、微妙な違いだった。


 世界の見え方が、少しずつ変わってきている。


 以前は個別のものとして見えていた様々な現象が、今では一つの大きな流れの一部として感じられるようになってきた。


 病院での活動も、より深みを増していった。


 患者さんの言葉の背後にある思いを、より敏感に感じ取れるようになった。


 そして何より、自分自身の中の変化に気づいていた。


 以前のような焦りや不安が、随分と薄れてきている。


 代わりに、静かな確信のようなものが芽生えてきた。


 ある日の夕方、本堂での読経が終わった後。


「淋雲さん」


 咲夜さんが声をかけてきた。


「はい」


「明日、詠子さんの命日法要があります」


「あ……」


「一緒に参列していただけますか?」


 私は、深く頷いた。


 翌朝。


 澄んだ冬の空の下、法要が始まった。


 読経の声が、凛とした空気の中に響く。


 線香の煙が、まっすぐに立ち上っていく。


 その時、不思議な感覚に包まれた。


 まるで、詠子さんが確かにそこにいるかのように。


 私は直接会ったことはないのに、その存在を鮮明に感じる。


 それは、咲夜さんを通じて受け継がれた、何かだったのかもしれない。


 法要の後、咲夜さんと二人で境内を歩いていた。


「詠子さんは、きっと喜んでいると思います」


 咲夜さんが、静かに言った。


「淋雲さんが、こうして成長されているのを見て」


 私は、黙って歩き続けた。


 木々の間から差し込む冬の陽光が、影を作る。


 光と影。

 それは、もはや対立するものではなかった。


 むしろ、お互いがお互いを際立たせ、より豊かな世界を作り出している。


 それは、生と死についても同じことなのかもしれない。


●第8章:未来への歩み


 春の訪れと共に、私の修行生活も二年目を迎えようとしていた。


 この一年で、多くのことを学んだ。

 多くのことが、変わった。


 そして何より、これからも変わり続けていくのだということを、深く理解できるようになった。


 ある朝、住職から呼び出しを受けた。


「淋雲」


 住職の声には、いつもの穏やかさがあった。


「君に、新しい役目を与えたい」


「はい」


「今度、新しく二人の修行僧が入寺する。その指導係を務めてほしい」


 その言葉に、私は深く息をした。


 まだ自分には早いのではないか。

 もっと経験を積まなければ。


 そんな思いが、心をよぎる。


 しかし、すぐに気づいた。


 これも、また一つの試練なのだ。


 かつて咲夜さんが、私に対してそうしてくれたように。

 そして詠子さんが、咲夜さんにしてくれたように。


 私も、次の世代へとつないでいく番なのだ。


「承知いたしました」


 私の返事に、住職は静かに頷いた。


 その夜、本堂で最後の読経を終えた後。


 月明かりが、静かに差し込んでくる。


 般若心経の言葉が、新たな意味を持って響く。


 色即是空。

 空即是色。


 すべては、つながっている。

 すべては、流れている。


 そして、その流れの中で、私たちは確かに生きている。


 咲夜さんが、そっと近づいてきた。


「準備はいいですか?」


「はい」


 その返事には、迷いはなかった。


 むしろ、新たな期待が胸を満たしていた。


 境内に、桜のつぼみが膨らみ始めている。


 まもなく、また新しい季節が始まる。


 そして、私の修行も、また新たな段階へと進んでいく。


 それは終わりのない道程かもしれない。


 でも、それこそが修行の本質なのかもしれない。


 常に学び、常に成長し続けること。


 私は、静かに合掌した。


 光と影が交錯する禅堂で、新たな一歩を踏み出す準備は、できていた。


(了)


(※「光と影の禅堂シリーズ」はこれでお終いです)

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【短編小説】光と影の禅堂 ―ある若き尼僧の視点から―(約12,400字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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