響き、線となる

自己否定の物語

『1話完結』AI技術を活用して執筆

 第1章:描けない私


 部屋の机に置いたスケッチブックの白紙が、やけに眩しく見える。

 ペンを握ったまま動けない自分に、ため息が出た。


 描きたい気持ちはある。いや、むしろ溢れるくらいにある。頭の中には何度も浮かんでは消えるイメージが詰まっているのに、いざ形にしようとすると全部がバラバラになって、どこから始めればいいのかわからなくなる。


「もっと自由に描けたらいいのに…」


 そう呟いてみたところで、何も変わらない。ペンを紙に落とすのが怖い。失敗したくない。でも、描かないと進まない。この堂々巡りがどれだけ続いているんだろう。


 結局、手の中のペンを置いて、机に突っ伏した。視線の先にはスマホの画面。スクロールするたびに目に飛び込んでくる、完成度の高いイラストたち。みんなこんなに上手なのに、私は何もできていない。


「私なんかが、これを仕事にしたいなんて、笑っちゃうよね…」


 呟いた言葉が自分の耳に刺さる。今の自分はただ描けない言い訳をしているだけ。頭ではわかっているのに、どうしても動けない。


 手元のスマホをぼんやりといじりながら、画面をスクロールしていた。その時、目に留まったのは見慣れないタイトルの記事だった。


「迷いを消す5秒ルール。行動が変われば人生が変わる」


 興味を惹かれ、指が自然と画面をタップする。記事にはこう書かれていた。


「何かをやりたいけど怖い、迷っていると感じたら、その場で5秒数えること。『5、4、3、2、1』と心の中で数えたら、すぐに動いてみて。行動が思考を変える第一歩になる。」


「こんなの、本当にできるの?」

 目を細めながら読み進めるけれど、心の中で少しだけ引っかかった。


「5秒数えるだけ…それなら、私にもできるかもしれない。」




 第2章:美術館の扉を開けて


 沙耶と待ち合わせたのは、渋谷の駅前。人混みを抜けるだけで疲れてしまいそうな街の喧騒が、私の心をすり減らしていく。こんなに人がいるのに、自分がここにいることなんて誰も気づいていない。それなのに、私は誰かに見られているような気がして、足元ばかり見て歩いた。


「奈央、遅いよ!」


 人混みの中から沙耶の明るい声が響く。いつもと変わらない笑顔に、私は少しだけ肩の力を抜いた。


「ごめん。電車が混んでてさ…」


 適当な言い訳を口にしながら、私たちは美術館へ向かう。渋谷の雑踏から少し離れると、周囲は静かになり、やっと息がしやすくなった気がした。


 扉を開けると、美術館の空気はひんやりとしていて心地よかった。

 沙耶がチケットを渡しながら「ここ、すごいのあるんだって!」と興奮気味に話している。私の方は、正直ついていけない。どれだけすごい作品を見ても、自分には到底描けないんだろうなって、そんな気持ちが先に立つ。


 でも、最初の展示室に足を踏み入れた瞬間、その考えはどこかに吹き飛んだ。


 目の前に広がっていたのは、想像を超えた自由な世界だった。

 巨大なキャンバスに、力強く引かれた赤い線。まるで怒りや悲しみ、喜びが混ざり合った感情そのものみたいだった。横には鮮やかな青が大胆に広がり、その中にある小さな白い点が、どこか希望を感じさせる。


「…これ、なんかすごいね。」


 思わず口を開くと、沙耶が「でしょ?」と笑った。


「私、こういうの全然わからないけどさ、なんか引き込まれるよね。」


 彼女の言葉に頷きながら、私は作品から目を離せなかった。だって、この絵には“正解”なんてないのに、圧倒的な存在感がある。


 次の展示室には、まるで子どもの落書きのように見える絵が飾られていた。線が不揃いで、色も塗り残しがある。でも、その中にある自由さと大胆さが、私の心を掴んで離さなかった。


「正解じゃなくていいんだ…」


 その言葉が、心の奥にすとんと落ちた。私が今まで求めていた“正しいイラスト”なんて、本当は必要なかったのかもしれない。ただ、描きたいように描けばいい。それだけだったのかも。




 第3章 ピアノの音に触れて


 美術館から帰った私は、夕食もそこそこに自室へ戻った。机に置いたスケッチブックの白紙が目に入るたびに、心のどこかがギュッと縮こまる。


「あの人たちは、あんなに自由に描いてるのに…」


 ふと指でスケッチブックを開いてみるが、ペンを握った手は宙で止まったまま動かない。何をどう描けばいいのか、何も浮かばない。美術館で感じた衝撃も、ここではただの思い出に過ぎなかった。


「やっぱり私には無理なんだ…」


 深いため息をつき、スケッチブックを閉じる。ふと目を向けると、部屋の隅にあるアップライトピアノが目に入った。子どもの頃に母が買ってくれたものだ。


「リビングに置くのは場所を取るし、これからは自分の部屋で練習しなさい。」


 そう言われて部屋に移されたピアノだったが、それが余計に私をピアノから遠ざけた。部屋に閉じこもるようになり、練習しなくなったピアノは、次第にただの家具になってしまった。


 それでも今、なぜかピアノが気になる。何かに引き寄せられるように、私はピアノの前に立った。埃をかぶった蓋をそっと開ける。黒と白の鍵盤が、じっと私を見つめているように思えた。


「5秒ルール…」


 ふいに、スマホの記事を思い出す。行動を変えるための魔法のような言葉。それなら、試してみる価値はあるかもしれない。


 静かに息を吸い、心の中でカウントを始める。


「5…4…3…2…1…」


 指先が鍵盤に触れる。その瞬間、「ポーン…」という音が部屋中に広がった。なんてことのない一音。でも、その音はどこか懐かしく、温かく感じられた。


 もう一音。さらにもう一音。音がつながり、次第に指先が自然と鍵盤を滑るように動き出した。子どもの頃に覚えた曲の断片が、記憶の中から顔をのぞかせる。


「これが…私の音だったんだ。」


 口からぽつりと言葉が漏れる。その声に、自分自身が驚いた。昔はただ苦しかったピアノが、今では自由な何かを生み出す道具に感じられた。


 でも、ふと頭の中に母の声がよぎる。


「もっと正確に弾きなさい。」

「そんな弾き方はただの雑音よ。」


 胸の奥が重たくなる。思わずピアノから手を離し、蓋を閉じた。静寂が戻ると、広がりかけていた自由な感覚が急に遠ざかっていくのがわかった。


「外なら…」


 ぽつりとつぶやいた。母の声や視線が届かない場所なら、もっと自由に弾けるかもしれない。


 翌日、スマホで「ストリートピアノ」を検索すると、渋谷に誰でも弾けるピアノがあると知った。見知らぬ場所、見知らぬ人々。それでも、不思議と胸の奥にかすかな期待が芽生えた。


「自由に弾けるって、どんな感じなんだろう…」


 その気持ちに背中を押され、私は外に出ることを決めた。




 第4章:自由への一歩


 雑踏の中、渋谷の広場にたどり着く。目の前には黒いピアノがぽつんと置かれていた。行き交う人々はその存在を気にも留めず、まるでそれがそこにあることが当たり前のようだった。


 私はそのピアノの前に立った。周囲の人の視線を感じる気がして、心臓が嫌なほど速く脈打つ。


「弾くべきか…それともやめるべきか。」


 足が一歩も動かない。何かを始めることが怖い。もし失敗して、音を外してしまったら。もし誰かに笑われたら。


 そんな自己否定の声が頭の中を埋め尽くす。


 ふと、スマホの記事の言葉が浮かんだ。


「怖いと思ったら、5秒以内に動け。」


 息を大きく吸い込む。膝が震えているのが自分でもわかる。それでも、心の中でゆっくりと数えた。


「5…4…3…2…1…」


 カウントが終わると同時に、気づけば椅子に腰を下ろしていた。指先を鍵盤に置くと、冷たい感触がじんわりと伝わってくる。


 そっと一音だけ弾く。


「ポーン…」


 その音が広場全体に吸い込まれていく。次の音、また次の音。気づけば指が勝手に動いていた。


 楽譜なんてない。ただ、自分の中にある感情を鍵盤にぶつけるだけだった。怒り、不安、悲しみ。母の期待に応えられなかったことへの後悔や、描けない自分への苛立ちが、音となって溢れ出す。


 音は激しくなり、やがて穏やかに流れ、最後に静かに消えていった。


 演奏を終えた瞬間、息が荒れていることに気づいた。指は汗ばんでいて、胸がじんじんと熱い。それでも、どこか心の奥にあった重たいものがほどけていくのを感じた。


 背後からぽつぽつと拍手が聞こえる。振り返ると、数人の通行人が足を止めてこちらを見ていた。彼らの顔に浮かぶ柔らかな微笑みが、なぜか胸を温かくした。


「…ありがとう。」


 声は震えていたけれど、その小さな言葉に、今の自分の気持ちがすべて詰まっている気がした。


 その日、帰り道の景色がいつもより明るく見えた。




 第5章:音がつながる日々


 ストリートピアノで感じた不思議な感覚。それは、心の中にずっと残り続けた。翌朝、目覚めるとすぐに鍵盤の感触や響きが頭をよぎり、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「もう一度、あの音を確かめたい。」


 その気持ちが私を突き動かした。


 けれど、日常はそんな簡単には変わらない。家の中では母がテレビを見ていて、いつもと変わらない朝食の光景が広がる。父は出勤前に新聞を読むだけで、私に話しかけることもない。


「どうせ私は家の中でも気づかれない存在なんだ。」


 そんな思いが心を冷たくするけれど、昨日のピアノの響きがそれを押し返してくれる。胸の中で響く音楽の余韻は、私をまだ少しだけ支えてくれている。


 昼過ぎ、スマホに通知が届いた。開くと沙耶からのメッセージだ。


「奈央、これ見た?これ奈央だよね!」


 添付されたリンクをタップすると、そこには昨日ストリートピアノで弾く私の姿があった。スマホ越しに見る自分は、顔が少しこわばりながらも真剣に鍵盤を叩いていた。コメントには「感動した!」「自由な演奏がいい!」といった言葉が並んでいる。


「これ…私?」


 手が震えた。心臓がまた高鳴り、顔が一気に熱くなる。そんな中で、再びスマホが振動した。


「奈央、有名人じゃん!」沙耶から電話がかかってくる。「これすごい再生数だよ!自慢しちゃおうかな!」


「やめてよ!」


 電話越しに慌てて叫ぶ。けれど、沙耶は楽しそうに笑うだけだった。


「でも、本当に素敵だったよ。奈央、すごく生き生きしてた。」


 その言葉に、一瞬だけ言葉を失う。


「生き生きしてた…私が?」


 これまでそんな風に言われたことなんて一度もなかった。自分の中に、そんな姿があるなんて思いもしなかった。


 次の日、大学に着くと沙耶が早速声をかけてきた。


「奈央、昨日弾いてた時の気持ち、どうだった?めっちゃ良かったよ!」


「どうって…なんだろう。」戸惑いながら答える。「気づいたら弾いてたって感じ。」


「やっぱりあれが奈央の音楽なんだよ!」沙耶が目を輝かせる。「もっといろんな人に聴いてほしいな。」


 その日の講義が終わり、沙耶と一緒に学祭の掲示板を見ていると、一枚のチラシが目に入った。


「音楽ステージ参加者募集中!」


 その文字が妙に目に飛び込んできた。ストリートピアノで弾いた時の感覚がよみがえる。けれど、その記憶と同時に「無理だよ」「私なんかにできるわけがない」という声が頭を占める。


「奈央、これ出てみたら?」沙耶が目を輝かせながら言う。


「無理だよ。あんなの出られるわけないって。」反射的に答えるけれど、心の奥で何かがざわめいていた。


 あの記事の「5秒ルール」が頭をかすめる。


「今動かなかったら、また後悔するかもしれない。」


 迷っている自分を振り払うように、息を吸ってカウントを始めた。


「5…4…3…2…1…」


 気づけば手が動き、チラシをつまんでいた。沙耶が目を丸くしてこちらを見ている。


「奈央、やるの?」


「…わからない。でも、ちょっとだけ考えてみる。」


 自分の答えに自信はなかったけれど、行動を起こせたことが少しだけ誇らしかった。


 家に帰ると、リビングには父の姿があった。珍しく早く帰宅したらしく、ビールを片手にテレビを見ている。


「どうした、奈央?なんだかぼーっとしてるな。」突然の父の声に驚く。普段、あまり話しかけられることがないからだ。


「別に…。」チラシをバッグにしまったまま、どう切り出していいかわからなかった。


「何かあったなら、ちゃんと話せよ。お前、最近よく外に出てるだろう。」


 その言葉に、心臓がドキリとする。外でピアノを弾いていたことがばれたのかと身構えたが、父の表情は柔らかかった。


「別に。友達と…その、ちょっと遊んでただけ。」


「そうか。まあ、外に出てるならいいことだ。」


 父の言葉は短くそっけない。それでも、いつもの無関心とは少し違って聞こえた。


 夜、部屋で一人になっても心は落ち着かなかった。チラシを机の上に広げてみると、「参加申し込みはこちら」の文字が目に飛び込む。


「やるべきか、やらないべきか。」


 何度も頭の中で問い直す。やりたい気持ちはある。でも、それ以上に怖さが勝る。人前で失敗するのが怖い。自分が笑われるのが怖い。


 その時、スマホの通知音が鳴った。画面を見ると、沙耶からのメッセージが届いている。


「奈央、もしやるなら全力で応援するからね!」


 短いメッセージだったけれど、その言葉が不思議と背中を押してくれる。心の中で再び「5秒ルール」のカウントを始めた。


「5…4…3…2…1…」


 指がスマホのリンクをタップし、申し込みフォームを開いていた。


「やるって決めたなら、最後までやりきるしかない。」


 震える手で名前を入力し、申し込みを完了させると、胸の奥に重たかった何かが少しだけ軽くなった気がした。


 その夜、ベッドに横たわりながら思う。


「私、変われるのかな。」


 窓の外で月が静かに輝いていた。その光に見守られるように、私は少しだけ眠りにつけた気がした。




 第6章:音を紡ぐ日々


 学祭のステージに申し込んだ翌日から、胸の奥がずっとざわついていた。やると決めたのは自分。それでも、「本当にできるの?」という不安の声が頭の中で何度も響く。


 そんな中、私は部屋のピアノの蓋を開けた。部屋に漂う静けさの中で、鍵盤に指を置く。冷たい感触が懐かしいけれど、同時に少しだけ怖かった。


「自由に弾けばいい。ただ、それだけ。」


 そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと一音を鳴らす。柔らかい音が部屋に広がり、指が自然と次の音を探すように動いた。けれど、昔覚えたメロディを弾こうとした瞬間、急に音が止まった。


「楽譜通りに弾きなさい。」

「間違えるくらいなら弾かなくていい。」


 母の声が頭の中で響く。過去の記憶が、まるで重い鎖のように指先を縛りつけた。深呼吸をしても、その音は消えてくれない。


 その時、部屋の外から足音が聞こえた。母のものだとすぐにわかった。音が私の部屋の前で止まる。何か言われるのかと思ったが、静寂のまま数秒が過ぎた。やがて足音が遠ざかる。


「何だったんだろう…?」


 一瞬、弾く手が止まりそうになる。それでも、私は音を紡ぐことをやめなかった。母が何を思っていたのかはわからない。それでも、私の音が少しでも母に届いていればいいと思った。


 数日後、沙耶と駅前のカフェで待ち合わせた。彼女の明るい笑顔に、少しだけほっとする。


「もしかして、奈央。決めたの?」


 突然の言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。沙耶の優しい声に隠された確信めいた響きに、逃げられない気がした。


「…私、学祭のステージに申し込んだ。」


 その言葉が口をついて出た瞬間、沙耶の顔がぱっと輝いた。


「本当に?やっぱりそうなんだ!すごいじゃん!奈央なら絶対できるよ!」


 沙耶の言葉は、私が自分でもまだ掴みきれていない自信を少しだけ形にしてくれるような気がした。

「でも…怖いんだ。うまく弾けなかったらどうしようって。それに、みんなの前で弾くなんて…」


 沙耶は少し考え込むように眉を寄せた後、にっこり笑った。


「奈央、私が応援するからさ。失敗してもいいじゃん。奈央が弾きたいように弾けば、それだけで十分素敵だと思うよ。」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。誰かが自分を信じてくれる感覚が、こんなにも力をくれるなんて。


 その日、リビングを通りかかったとき、母と父が小声で話しているのが聞こえた。


「最近、あの子…ピアノをよく弾いてるわね。」


「学祭で弾くんだろう。沙耶ちゃんが言ってたぞ。」


 私は聞こえないふりをして、そのまま自室に戻った。胸の中に奇妙な感覚が広がる。昔の母なら、ピアノの練習が足りないと叱ったり、試験の結果と比べたりしていたはずだ。それが今、ただ「弾いている」とだけ言った。


 複雑な気持ちが心に浮かびながらも、ピアノに向き合う自分がいた。


 夜、リビングに降りたとき、父がビールを片手に新聞を読みながらぽつりと言った。


「最近、ピアノの音が聞こえるな。」


 私はその言葉に少し戸惑いながらも振り向いた。昼間、両親が話しているのを聞いていたから、特に驚きはしなかった。でも、こうして直接言われると妙に胸がざわつく。


「沙耶ちゃんが学祭で弾くって教えてくれてな。いい機会だ。頑張れよ。」


 父の言葉はいつも通り淡々としていたけれど、どこかいつもより柔らかく感じた。母はキッチンからこちらをちらりと見たものの、何も言わずに料理の手を動かしていた。その静けさが、むしろ私の中で何かを温かくしてくれる。


「うん…ありがとう。」


 自然と答えていた。自分でも驚くくらいの静かな声。それでも、その一言にどこかほっとしている自分がいた。


 父は新聞をめくりながら続けた。


「まあ、失敗したっていい。大きな舞台で弾くなんてそうあることじゃないからな。」


 その言葉に、小さく笑みが浮かぶのを感じた。不安が全て消えたわけではないけれど、その場の空気が温かく、胸の奥に小さな灯が灯るような気がした。


 母の足音、沙耶の言葉、父の何気ない応援。それらが少しずつ私を支えているようだった。ピアノの前に座るたび、鍵盤を叩く指先が軽くなるのを感じた。


 私は少しずつ、音を紡ぐ日々を重ねていった。そしてその音は、かつての私では描けなかった新しい自分を見つけ出そうとしていた。



 第7章:学祭のステージ


 ついに迎えた学祭当日。ステージ袖で待機する私は、手のひらにじっとりと汗をかいていた。足元が震え、胸の奥では不安が渦巻いていた。


「やっぱり無理だ。なんで申し込んだんだろう…。」


 隣にいる沙耶が、明るい声で励ましてくれる。


「奈央、大丈夫だから。思いっきり楽しんできなよ!」


 その言葉に少しだけ落ち着きを取り戻したものの、心の奥にはまだざわめきが残っている。


「沙耶…一つ聞いていい?」


 沙耶が振り返り、いつもの笑顔でうなずく。


「もちろん、なんでも!」


「…どうしてお父さんに学祭のことを話したの?」


 その言葉に、沙耶の表情が一瞬止まった。驚いたような顔をしてから、少し困ったような笑みを浮かべた。


「あ、それね。たまたま会ったときに、『最近どうなの?』って聞かれてさ。自然に話しちゃったんだよね。奈央、気にしてた?」


「いや…気にしてたっていうか、びっくりしただけ。」


 沙耶は私の肩に手を置いて、真剣な目で続けた。


「でもね、お父さんすごく嬉しそうだったよ。『学祭か…あの子が頑張るなんて珍しいな』って言ってた。だから、きっと奈央のこと応援してるんだと思う。」


 その言葉に、息をのむ。いつもと変わらない父の態度の裏に、そんな気持ちが隠れていたなんて想像もしなかった。


「そうなの?」


「うん。だからね、言ってよかったと思う。奈央の頑張りをお父さんに知ってほしかったし。」


 沙耶の言葉は、胸の中にくすぶっていた不安を少しずつ溶かしていくようだった。


「…ありがとう、沙耶。」


 小さな声でつぶやくと、沙耶は明るく頷いた。


「よし、奈央!あとはステージで最高の演奏をするだけだね!」


 その瞬間、胸の中にあったざわめきが小さくなり、代わりに小さな期待の芽が生まれた気がした。


 ステージのライトが眩しく光る。客席はほとんど見えないけれど、それがかえって救いだった。


「5秒ルール…」


 自然と頭に浮かんだ言葉に、手のひらをぎゅっと握りしめる。そして心の中でゆっくりとカウントを始めた。


「5…4…3…2…1…!」


 次の瞬間、足が動いていた。ステージに立つと、目の前にピアノが現れる。ライトの眩しさの中、鍵盤が冷たく光を反射していた。


 鍵盤に手を置く。冷たい感触が、昨日までの練習の記憶を引き出してくれる。


 そっと一音を鳴らす。


「ポーン…」


 その音が広がると、緊張が少しずつほぐれていく。指が鍵盤を滑り始めると、音が自然と流れ出した。


「今の私を音にする。」


 そう心の中でつぶやくと、私の音楽はステージいっぱいに広がり始めた。


 怒りも、不安も、悲しみも。全部が音となり、鍵盤の上で踊る。頭で考えるのではなく、心のままに指が動いた。


 演奏を終えると、広がるのは静寂。次の瞬間、客席から拍手が湧き起こった。涙が頬を伝うのを感じた。


 家に帰ると、リビングの明かりがついていた。父が新聞を片手に座っていて、母が台所で何かを片付けている。私が玄関に入ると、二人がふと顔を上げた。


 リビングに入ると、母が穏やかにこちらを見ていた。台所の手を止めて、私に向かって声をかける。


「おかえり、奈央。」


 その瞬間、母の顔がいつもと違うことに気づいた。厳しさではなく、何かを伝えたいような表情だった。


「学祭、見に行ったわよ。」


 思いがけない言葉に、胸が大きく跳ねた。母が一呼吸置いて、ぽつりと告げたその一言が、私の中に静かに広がっていく。


「えっ…お母さん、来てたの?」


 驚きと戸惑いが交じる声をあげると、母は微笑みを浮かべながら続けた。


「もちろん。あなたがあんなふうに弾くなんて、ちょっと驚いたけれど…ね。とても良かったわ」


 その言葉に、息が詰まるような感覚を覚えた。母が来ていたことを知らなかった。それでも、その声にはどこか温かさが滲んでいた。


「父さんも一緒だったのよ。あなたの演奏を見て、何も言わなかったけれど、あの人なりに感じるものがあったみたいね。」


 母の言葉に、胸の中がじんと熱くなった。厳しい言葉しか聞いたことのなかった母の口から、「驚いた」や「良かった」という言葉が出てくることが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。


 母は視線を台所に戻しながら、小さな声でつぶやいた。


「楽譜通りに弾くのが正しいと思ってたけど…違うのね。あの音を聴いて、やっと気づいたの。」


 その声には、反省とも取れる柔らかな響きがあった。言葉にならない感情が胸に溢れ、思わず一歩近づく。


「…ありがとう、お母さん。」


 それだけ呟くと、母はちらりと私を見て、小さく微笑んだ。その優しい表情に、胸の中に温かいものがじんわりと広がる。


 その時、リビングから父の声が聞こえた。


「ピアノ、よかったぞ。お前の音は…悪くなかった。」


 新聞から顔を少しだけ上げ、ぶっきらぼうにそう言いながら再び視線を戻す父の姿。その短い言葉が、不思議と胸の奥に深く響いた。


 自室に戻り、スケッチブックを開く。白紙がもう怖くなかった。ピアノで感じたものを、色や線にする感覚が自然と手を動かす。


「これが、私の音と色。」


 胸の中でそうつぶやきながら、私は新しい自分を描き始めた。




 最終章:私だけの音、私だけの色


 翌日、私は久しぶりに柔らかな気持ちで目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の中を優しく照らしている。昨夜、家族と過ごした時間の余韻が胸の中でふわりと広がる。


「まだまだ知らないものがたくさんあるんだな…。」


 静かな部屋で一人つぶやき、スケッチブックを手に取る。白紙のページをめくる音さえ心地よかった。


 ペンを握り、自由な線を描き始める。最初はただの線。でも、その線が少しずつ形を持ち、色をまとい始めると、胸の奥から喜びが湧き出してきた。


「失敗してもいい。これは、私だけのものだから。」


 学祭で感じた自由な音。それを見守ってくれた父と母。その温かな記憶が私を前に進ませてくれる。


 リビングに降りると、父が珍しく新聞を読む手を止めて私を見た。


「奈央、ちょっと外に出るか?」


「え…どこに?」


 父は照れ隠しのように眉をしかめながら言う。


「図書館にいい場所があるんだ。ピアノも置いてあるし、気に入るんじゃないかと思ってな。」


 その言葉に驚きながらも、どこか嬉しかった。父がこうして私に直接言葉をかけてくれるのは、思っていた以上に特別なことだと感じたからだ。


 図書館に着くと、大きな窓から光が差し込む静かな空間に黒く輝くピアノが置かれていた。


「ここ、どうだ?」


 父のその問いに、胸がじんと熱くなる。


「すごくいい。ありがとう。」


 ピアノの前に座り、鍵盤に指を置くと、自然と音が紡がれ始めた。父が静かに見守る中、私の音楽は軽やかに流れていく。


 演奏を終えると、父がぽつりと言った。


「奈央、お前の音はいい。これからも続けてほしい。」


 その短い言葉が、どれだけ私の中で大きな力になったか、父は知らないだろう。


 帰り道、ふと昨日の母との会話を思い出した。以前の母なら決して言わなかっただろう言葉。


「とても良かったわ」


 その言葉が、母なりの精一杯の応援だったのかもしれない。そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。


 その夜、再びスケッチブックを開いた。学祭で弾いた音、図書館で父と過ごした時間、母の柔らかな笑顔。それらが、線や色となってスケッチブックに広がっていく。


「これが、私の音。そして私の色。」


 描き終えたページには、自由で温かな世界が広がっていた。そこには、かつての私が持っていなかった希望が溢れている。


 数日後、沙耶にその絵を見せると、彼女は目を輝かせて言った。


「奈央、これすごいよ!次はこれ、動画にしてみない?」


 その提案に、一瞬だけ迷った。でも、すぐに小さな笑みがこぼれた。


「そうだね。やってみる。」


 5秒ルールを思い出す必要もなく、自然と前に進む自分がいる。


 最後のページに描かれたのは、私の新しい旅の始まりだった。音と色が織りなす物語は、これからも続いていく。


「まだ知らない未来が待っている。」


そう信じながら、私はまた新しい一歩を踏み出した。



この物語は、音と色が織りなす世界を描き続けます。そして、YouTubeではこの小説を朗読動画として投稿しています。作中の音楽も含めてお楽しみいただける内容になっていますので、興味のある方はタイトル「響き、線となる」で検索してみてください。

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