恒生二十歳、星子十六歳。

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恒生二十歳、星子十六歳。

 左のつま先でコンッとひとつ落とす。

 前に向かって引っ張られる慣性を両肘で踏ん張る恒生こうせいに、赤いライトを点けたバスの後部が近づいてくる。

 シフトダウンの度に断続的に吹き上がる排気音。最後は滑らかなブレーキングできっちり三メートル手前に停めた恒生は、左脚を地面についてから視界を占領している長距離バスの後部をあらためて眺めた。

 夕暮れの空を背景に九人の美少女たちの集合写真を配したラッピング。本編を観たことはないがロゴなら見知っているアイドルアニメと、近隣全域をフランチャイズにしたバス会社とのコラボらしい。

 あのアニメの舞台ってこの辺りだったのか。


 思考を断ち切るように、目の前のバスがエンジンをかけた。半クラッチでゆるゆると追随する恒生は、対向車線の向こう側に敷かれた石畳の歩道を一瞥する。整然と五台並んだ真っ白の自動販売機。三島大社参拝者専用駐車場の入り口だ。


「ランニングコースの中継点だったよな、あれは」


 ヘルメットの中でつぶやく恒生は、去年の春まで通っていた高校での部活を思い出していた。今と同じく暑い夏。流れ出た汗が塩の跡に変わるほど強く照りつけて、じりじりと肌を焼く陽射し。からからになり息も絶え絶えの彼らにとって、あの自販機はまさにオアシスそのものだった。


 あのころは自分の足で走るしかなかった。でも今なら、こいつでどこへでも行ける。


 無垢むくの皮手袋をはめた左手で、恒生は愛車エストレヤの真っ赤なタンクを軽く叩いた。東京から三島まで、下道を走って三時間半。ここまで来れば実家はもうすぐそこ。




「帰ってきた! おかあさーん、おにいちゃん帰ってきたよ!」


 ガレージの前で待ち構えていた星子ほしこが角を曲がってきた恒生のオートバイを目敏く見つけ、開け放した玄関に向かって大声を張り上げた。

 門扉の前に停まったエストレヤに星子は満面の笑みを向けた。こんなにも明るい笑顔の妹を見るのはいつ以来だろうか。この一年でセミロングまで伸びた黒髪をなびかせて走り寄る妹の、想定以上の回復と成長に恒生は面食らっていた。

 サイドスタンドを下ろし、左手を伸ばしてタンクの下にぶら下がってるはずのイルカの根付を手探る。普通のオートバイと違い、エストレヤのキーシリンダーは車体の横に付いているのだ。

 エンジンを切った恒生は、跨がったままヘルメットを外す。オートバイの諸手順は間を取るのに好都合だ。流れを逸らして自分のペースに持ち込める。そう目論んでいた恒生の目の前に、真っ直ぐ伸ばした星子の細い腕が突き出された。


「じゃーん! 見て見て。ほら」


 女らしさを予感させる細長い指がはさんでいたのは、澄まし顔の星子の写真が入った名刺大のカード、運転免許証だった。


「おにいちゃんとおんなじ、普通二輪の免許だよ! 昨日沼津まで行ってもらってきたんだよ。すごいでしょ!」


 勢いに飲まれて革手袋のまま受け取った恒生は、それでも冷静を装って免許証を検分した。

 緑のラインが入ったまっさらな免許証。ファンシーショップで売ってる玩具おもちゃなんかじゃない。名前のところにはちゃんと「椎葉しいば星子」と入っているし、誕生日も住所も間違いない。そして肝心の区分表も、上の段右端の欄に「普自二」と印字されている。


「ホンモノやん」


「あったりまえじゃん。がんばって取ったんだから」


「顔の写りも、まあまあまともだな」


「まあまあ、ね。あ、でもおにいちゃんが前に言ってたとおり、写真撮るとき目をおっきく見開いてたから最悪の顔にはなんなかったよ」


 恒生が差し出す免許証を受け取った星子の表情は、今ひとつ納得しきれていない様子。だが恒生は、免許証写真にすれば上出来だと感じていた。

 それよりも、


「おまえ、学校は大丈夫なのか? まだ入学したばっかなのに問題起こしちゃマズいだろ」


 中学二年までの星子は、よく笑いよく遊ぶ活発な娘だった。仲の良い友だちも多く、勉強の成績も上位の方。おにいちゃんと同じ高校に行きたいというのが口癖だった。実際、高校の文化祭にやってきた中二の星子は、最終学年だった恒生や恒生の友だちにせがんで学内のあちこちを回り、希望に溢れた瞳を輝かせていた。

 それが、どういうキッカケなのか年度が替ってすぐの新しいクラスで執拗なイジメの標的にされてしまったのだという。結局、中学三年の一年間をほとんど学校に行けずに過ごすことになった星子は、卒業こそできたもののまともな高校受験は叶わなかった。その原因のすべてが大学進学で東京に行ってしまった自分にあると思っているわけではないが、少なくともイジメで悩んでいた妹を傍で助けてやることができなかったことは後悔してもしきれない。

 そんなふうに責任を感じる恒生だったから、妹がふた月遅れで通信制の高校に入学できたと聞いたときには自らのことのように喜んだのだ。


 だからこそ、と恒生は思う。知る限り、県内の高校で車やオートバイの免許を認めているところは無かったはず。せっかく受かった高校を、そんな手前勝手な理由で行けなくなったりでもしたら・・・・・・。


 心配顔の兄を見上げ、星子は口の端を上げた。


「んふん。そこは大丈夫なんだな」


 星子は手品のタネを披露するかのように話を続けた。


「星子の学校はね、生徒の自主性を超大事にするスーパーな高校なんだ。在学中に発明したり本出したりミュージシャンになったりする人もいるんだよ。だからね、運転免許なんてまーったく無問題なの」


 許容範囲の広い学校の方針にも驚いたが、なによりもそのおかげで、妹がすっかり元気になっていることの方に恒生は感動していた。


 最近の通信制高校って、すげえ。


「そんなことより」


 自慢げなドヤ顔を一瞬で破顔させた星子が恒生の腕を掴んできた。


「ほら、こっちこっち」


 体勢を崩しつつもなんとかオートバイを倒さずに降りることのできた恒生は、やんちゃ盛りの柴犬みたいに手を引っぱってくる妹の足取りのままに横のガレージに入った。


「じゃじゃじゃーん」


 父親が仕事に使うハイトワゴンの前に立った星子がレポーターよろしく指し示す先には、赤い車体も真新しいオートバイが停まっていた。無骨な印象のリアビューと痩せ型の車体。実用優先なのにシャープなデザインのそれは、恒生自身も前から気になっていたオートバイだった。


「ハンターカブ・・・・・・。どうしたんだ、これ」


 驚きを隠せない恒生に、星子はえへへと笑ってみせる。


「お父さんと共同で乗るってことで買ってもらっちゃった。あ、でも星子も少しは出したよ、お年玉貯金とか崩して」


 恒生は娘に大甘な父親の顔を思い浮かべた。

 さすがにこれを母さんに納得させるのはたいへんだったろうな。


 ね、と甘え声の星子が恒生の腕にしがみついてきた。上目遣いの煌めく瞳で覗き込むように見上げながら。


「これで星子、おにいちゃんとツーリングに行けるよね!」

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