【短編小説】光と影の禅堂 ―ある尼僧の死―(約8,800字)
藍埜佑(あいのたすく)
【短編小説】光と影の禅堂 ―ある尼僧の死―(約8,800字)
●第1章:昂源院にて
早朝の禅堂に、木魚の音が響き渡る。
「色即是空、空即是色……」
円庭咲夜の低く澄んだ声が、夜明け前の薄闇を震わせる。三十三年の人生のうち、すでに十五年をこの昂源院で過ごしてきた彼女の声には、確かな重みがあった。
木魚を打つ手つきも手慣れたもので、リズミカルな音が禅堂の隅々まで行き渡る。音は木造の建物の梁を伝わり、やがて遠くへと消えていく。それはまるで、人の想いが空へと昇っていくかのようだった。
咲夜の隣では、月輪詠子が背筋を伸ばして座っている。詠子は咲夜より二つ年下の三十一歳。しかし修行の道に入ったのは同じ時期で、以来十五年、二人は互いを支え合いながら精進してきた。
般若心経を唱え終えると、東の空がわずかに明るみを帯び始めていた。
「咲夜さん、今朝は随分早かったですね」
詠子が柔らかな微笑みを浮かべる。彼女の丸みを帯びた目元は、いつも暖かな光を湛えていた。
「ええ。なんだか、心が落ち着かなくて」
咲夜は正直に答えた。昨夜見た不思議な夢のことを話そうとしたが、ふと躊躇う。明け方近くに見た夢は、どこか不吉な予感を残していた。
二人は廊下を歩きながら、朝の日課である庭の掃除へと向かう。初夏の爽やかな風が、青々とした楓の葉を揺らしていた。
昂源院は由緒ある禅寺である。開山以来五百年の歴史を持ち、現在は住職の澄明和尚のもと、十名ほどの僧侶と尼僧が修行に励んでいた。
咲夜と詠子は、十代後半でこの寺に入った。二人とも、それぞれの理由で俗世に失望し、真理を求めてこの道を選んだのだった。
「あのね、咲夜さん」
掃き掃除の手を止めることなく、詠子が話しかけてきた。
「実は、最近、不思議な感覚に襲われることがあるんです」
咲夜は箒を持つ手をわずかに止める。
「どんな感覚?」
「まるで……自分が透明になっていくような。この世界から、少しずつ消えていくような感覚なんです……おかしいですよね、咲夜さん?」
詠子は困ったように微笑んだ。
「きっと、修行が足りないせいでしょうね」
その言葉に、少しだけ投げやりな響きを感じた咲夜は、思わず詠子の横顔を見つめた。しかし、そこには普段と変わらない穏やかな表情があるだけだった。
ふと振り返ると黒猫がじっと佇んで二人を見つめていた。
朝課を済ませ、朝粥の時間となる。食堂では、他の修行僧たちも黙々と食事をとっていた。
般若堂の裏手にある小さな枯山水の庭で、咲夜は住職の澄明和尚と向き合っていた。毎週の面談の時間である。
「円庭」
住職の声は、いつもながら低く落ち着いている。
「最近の修行はどうかな」
「はい。日々、精進を心がけております」
「そうか……」
住職は庭の砂紋をじっと見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「しかし、まだ迷いがあるようだ」
咲夜は黙って頭を下げた。鋭い指摘に、反論の余地はない。
「生死を超えることこそが、我々の修行の究極の目的である。しかし、それは決して生や死を否定することではない」
住職の言葉は、静かに咲夜の心に染み入った。
「むしろ、生死の実相を見極めることで、より深く生きることができるのだ」
咲夜は考え込むように目を伏せた。住職の言葉の意味を、完全には理解できていない自分を感じていた。
その日の午後、詠子と共に経典の写経をしていた時のことだった。
突然、詠子の筆が止まる。
「?」
違和感を覚えた咲夜が顔を上げると、詠子はすでに机に突っ伏すような形で崩れ落ちていた。
「詠子さん!?」
咲夜は急いで駆け寄った。詠子の意識はすでに無く、呼吸は浅くて不規則だった。
「誰か! 誰か来てください!」
咲夜の叫び声が、静寂な寺院の廊下に響き渡った。
●第2章:永訣
救急車のサイレンが、昂源院の静寂を引き裂いた。
脳動脈瘤破裂――。
医師の告げた診断名は、咲夜の耳には遠く霞んで聞こえた。意識不明の詠子は、すぐに救命救急センターへと運ばれた。
「ご家族の方はいらっしゃいますか?」
看護師の問いかけに、咲夜は首を振る。詠子には身寄りがなかった。幼い頃に両親を事故で失い、その後、親戚の家を転々としたことは、咲夜も知っていた。
「私が……私が家族です」
咲夜の声は震えていた。
手術室の前の廊下で、咲夜は正座して待ち続けた。住職も駆けつけ、静かに目を閉じて座っている。
時計の針が、残酷なほどゆっくりと進んでいく。
三時間後、手術室のランプが消え、医師が現れた。その表情を見た瞬間、咲夜は全てを悟った。
「大変申し訳ございません。懸命の処置を施しましたが……」
医師の言葉は、そこで途切れた。
咲夜の視界が、一瞬にして真っ白になる。
「お医者様、少しお時間を」
住職が前に出て、医師と話を始めた。咲夜はその声も、周りの物音も、全て遠くに消えていくように感じた。
詠子の最期の姿を見たとき、咲夜は涙を流すことさえできなかった。あまりに穏やかな寝顔に、まるで深い眠りについているかのようだった。
「なぜ……」
かすれた声が、自分の喉から漏れる。
「なぜ、詠子さんが何の前触れもなく……」
住職が静かに目を閉じ、合掌した。
「諸行無常」
その言葉が、咲夜の心を切り裂いた。
葬儀は昂源院で執り行われた。小さな本堂には、寺の関係者たちが集まっていた。読経の声が響く中、咲夜は焼香台の前に立ち、線香を手向けた。
煙が立ち上る様子を見つめながら、咲夜は思い返していた。たった数日前、同じこの場所で詠子と共にお経を唱えていたことを。
「お気持ちは痛いほどわかりますよ」
葬儀後、年長の尼僧である妙心が声をかけてきた。
「でも、これも縁の一つ。詠子さんの分まで、しっかり修行を続けていかなければ」
その言葉に、咲夜は無言で頷いた。しかし、心の中では激しい感情が渦巻いていた。
「咲夜さん……」
昨年入寺してきたばかりの若い尼僧、鏡華が何か咲夜に声をかけようとしたが、それは彼女の涙と共に溶けてしまった。
鏡華はただ黙って、咲夜を抱きしめた。
夜、自室に戻った咲夜は、久しぶりに声を上げて泣いた。
修行者として、生死を超えた境地を目指してきたはずなのに。無常を説く経典を、幾度となく写してきたはずなのに。
しかし、目の前で起きた現実は、あまりにも残酷だった。
枕に顔を埋めながら、咲夜は問い続けた。
人は、なぜ生きるのか。
なぜ死ぬのか。
そして、私たちは何のために修行を続けているのか――。
●第3章:揺らぐ心
詠子の四十九日法要が終わっても、咲夜の心は晴れなかった。
毎朝の読経の時間、隣にいるはずの存在の不在が、重く心にのしかかる。掃除の時も、食事の時も、写経の時も、すべての日常が虚ろに感じられた。
「円庭」
ある日、住職が咲夜を呼び止めた。
「少し話をしようか」
小さな庵室で、住職は咲夜にお茶を差し出した。
「苦しいのはわかる。しかし、その苦しみにとらわれすぎてはいけない」
咲夜は黙って茶碗を見つめた。
「詠子の死は、お前への大切な教えなのだ」
「教え、ですか?」
思わず声が強くなる。
「人の死を、教えとして見ろというのですか?」
住職は静かに目を閉じた。
「そうだ。全ては教えである。我々が真理に近づくための」
咲夜は茶碗を強く握りしめた。手の震えが、お茶の表面に小さな波紋を作る。
「でも、私には……私にはわかりません。詠子さんは、まだ若かった。これからもっと修行を……」
「いつ、どこで、どのように命が尽きるか。人がそれを知ることはできない。それこそが、無常の教えではないか」
住職の言葉は、厳しくも慈悲に満ちていた。
「しかし、私は……」
咲夜は言葉を飲み込んだ。心の奥底で渦巻く感情を、うまく表現できない。
「円庭。お前は今、大きな岐路に立っている」
住職はゆっくりと続けた。
「この出来事をきっかけに、より深い悟りに至ることもできる。あるいは、全てを投げ出して俗世に戻ることもできる。それは、お前自身が決めることだ」
咲夜は深く息を吐いた。
その夜、咲夜は久しぶりに本堂で一人座禅を組んだ。月明かりが障子を通して差し込み、仏壇の金具がかすかに光っている。
呼吸に意識を集中させようとするが、次々と想いが浮かんでくる。
詠子との思い出。
十五年前、二人で得度を受けた日のこと。
共に写経に励んだ日々。
苦しい修行を支え合った時間。
そして、あの最期の瞬間――。
「私は、本当に修行者として相応しいのでしょうか」
仏像に問いかける。
返事はない。
ただ、夜風が障子の隙間を吹き抜け、木々のざわめきが聞こえてくる。
数日後、咲夜は妙心に連れられて、近くの大学病院を訪れた。そこには、脳神経外科医として働く妙心の弟、中原啓太がいた。
「脳動脈瘤は、先天的な血管の脆弱性が原因となることが多いんです」
啓太は、モニターに映し出されたCTスキャンの画像を指さしながら説明した。
「破裂の予兆がない場合、残念ながら防ぎようがありません」
咲夜は黙って画像を見つめた。そこには、詠子の最期の原因が、白と黒のコントラストで示されていた。
「医学的には、これは不可避な出来事だったということですね」
妙心が静かに言った。
「はい。ただ、最近の研究では、瞑想が脳の血流に良い影響を与える可能性が示唆されています」
啓太は机の上の論文を手に取った。
「禅僧の方々の脳を調べた研究もあるんですよ。長年の座禅で、実際に脳の構造が変化するという結果も出ています」
咲夜は思わず身を乗り出した。
「脳の構造が、変化する……?」
「ええ。特に、感情や自己認識に関わる部位に、顕著な違いが見られるんです」
啓太は熱心に説明を続けた。
「私も以前は、禅とか精神性の話は科学とは相容れないと思っていました。そうでしょう? 客観的な証明ができないものは、科学の対象にならないと」
啓太は微笑んだ。
「でも、最近の脳科学は、そういった二元論を超えつつあるんです。意識とは何か、自己とは何か――そういった根源的な問いに、科学のアプローチでも迫ろうとしている」
咲夜は深く考え込んだ。科学と禅。一見、相反するように見えるその二つの道が、同じ真理を目指しているというのか。
昂源院に戻る途中、妙心が静かに語りかけた。
「禅の教えは、時として難解に思えます。でも、その本質は意外にシンプルなのかもしれません」
桜並木の下を歩きながら、咲夜は問いかけた。
「シンプルとは?」
「今、この瞬間を深く生きること。ただ、それだけです」
風が吹き、散り残った桜の花びらが舞い上がった。
●第4章:科学と禅
その後、折りを見て咲夜は図書館に通うようになった。脳科学、量子物理学、認知科学――現代科学が解き明かそうとしている謎について、貪るように本を読んだ。
住職は、そんな咲夜の様子を黙って見守っていた。
「面白いことを見つけました」
ある日の夕方、咲夜は住職に報告した。
「量子物理学では、観測者と観測対象は分離できないと考えるそうです。観察する意識そのものが、現実に影響を与えるという」
住職はゆっくりと頷いた。
「つまり、主観と客観の区別は、実は幻かもしれない。それは、禅の教えと通じるものがあるように思うのです」
「なるほど」
住職は穏やかな表情を浮かべた。
「しかし、それは本で読んだ知識だ。お前自身の体験ではない」
その言葉に、咲夜は息をのんだ。
「本当の理解は、座禅を通じて得られるものだ。それが、禅の道である」
咲夜は深く頭を下げた。住職の指摘は、まさに急所を突いていた。
その夜、咲夜は本堂で長い座禅を組んだ。
呼吸に意識を集中させる。
妄想が浮かんでは消えていく。
科学の知識も、詠子への想いも、すべてが波のように押し寄せては引いていく。
障子越しにもれる月光が、仏壇の金具をかすかに照らしている。壁の古い柱も、柔らかな光の中でゆっくりと呼吸しているかのようだった。
ゆっくりと、深く、呼吸を繰り返す。
吐く息は、まるで全身の重みを地面に委ねるかのように。
吸う息は、澄んだ夜気を全身の細胞に満たすように。
いつしか、呼吸の音だけが、咲夜の意識を満たしていた。
そして――。
ある瞬間、奇妙な感覚が訪れた。
まるで、自分の皮膚という境界が、ゆっくりと溶けていくような。
あたかも自分が無くなっていくような……。
(まるで……自分が透明になっていくような。この世界から、少しずつ消えていくような感覚なんです……おかしいですよね、咲夜さん?)
彼女の声が静かに響く。
同時に意識が、スーッと拡がっていく。
最初は畳一枚分。
やがて座る場所の周り全体へ。
そして本堂の隅々にまで。
天井の梁の佇まいも。
古い木の床の質感も。
仏壇に灯る蝋燭の揺らめきも。
すべてが、自分の意識の中に溶け込んでいく。
呼吸の音が変わった。
それは単なる肺での空気の出入りではなく、本堂全体を震わせる波動のように感じられた。
吸う息は、宇宙が膨張するかのように。
吐く息は、すべてが収縮するかのように。
その律動は、まるで生命の根源的な鼓動。
この世界そのものの呼吸。
宇宙の胎動。
咲夜の目から、一筋の涙が伝った。
それは喜びでも悲しみでもない。
ただ、圧倒的な存在の深みに触れた時に、自然と溢れ出る何か。
時間の感覚が失われていた。
一瞬だったのか、永遠だったのか。
やがて、意識は徐々に通常の状態へと戻っていった。
しかし、その体験は鮮明な記憶として、咲夜の心に刻まれていた。
そこには、言葉では表現できない真実が宿っていた。
すべては繋がっている。
すべては一つである。
本堂に、夜明け前の鳥の声が響いた。
咲夜は、ゆっくりと目を開けた。
世界は、もう二度と同じには見えないだろう。
あの感覚を経験した後では、すべてが新しい意味を持って立ち現れてくる。
それは、修行の道筋における重要な一歩だった。
しかし、それはまた始まりに過ぎないことも、咲夜には分かっていた。
そしてそれは、ほんの一瞬のことだった。
「これが……」
咲夜は静かに目を開けた。
朝の住職との面談で、咲夜はその体験を報告した。
「良い兆しだ」
住職は優しく微笑んだ。
「しかし、それにとらわれてはいけない。それもまた、通り過ぎていく一つの現象に過ぎない」
咲夜は黙って頷いた。
その日の午後、境内の掃除をしていると、一羽の白い蝶が舞い降りてきた。
どこか詠子を思わせる、優美な動きだった。
しかし今回は、悲しみで胸が潰れそうになることはなかった。
ただ、静かな懐かしさが胸に広がるだけだった。
「詠子さん……」
咲夜は小さくつぶやいた。
「私、少しずつですが、わかってきたような気がします」
蝶は、そよ風に乗って空へと消えていった。
●第5章:明暗
秋が深まり、昂源院の庭には紅葉が映える頃となった。
咲夜の修行も、新たな段階に入っていた。
毎朝の座禅で、以前には気づかなかった微細な感覚を捉えられるようになっていた。呼吸の間隙にある静寂。心の動きの束の間の停止。そして、それらを観察している意識そのものへの気づき。
しかし同時に、新たな疑問も生まれていた。
「和尚様」
ある日の面談で、咲夜は率直に尋ねた。
「私たちの修行は、究極的には何を目指しているのでしょうか」
住職は、いつもより長い沈黙の後で答えた。
「それは、お前が自分で見出すべきものだ」
「しかし……」
「考えてみろ。もし私が答えを教えたとして、それは本当にお前の答えとなりうるだろうか?」
咲夜は黙り込んだ。
「本当の答えは、必ず自分の内側から現れる。他人から与えられた答えは、所詮、借り物でしかない」
その言葉は、咲夜の心に深く沈んでいった。
その夜、激しい雨が降った。
本堂で夜坐をしていた咲夜は、突然、激しい頭痛に襲われた。
まるで、脳を締め付けられるような痛み。
咲夜は思わず座禅の姿勢を崩した。
「ああ……」
詠子の最期の瞬間が、フラッシュバックのように蘇る。
彼女も、このような痛みを感じたのだろうか。
意識が遠のいていく中で、なにを思ったのだろうか。
動悸が激しくなる。
呼吸が浅くなる。
パニック発作――。
以前、本で読んだ症状だと、冷静な部分が認識する。
しかし、体は制御を失っていた。
「……」
咲夜は、必死で呼吸に意識を向けようとした。
それは、日々の修行で培ってきた基本中の基本。
ゆっくりと、深く息を吸う。
ゆっくりと、深く息を吐く。
何度も、何度も。
やがて、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
雨の音が、異常なほど克明に聞こえる。
その時、不思議な感覚が訪れた。
自分の中で、観察する意識と、パニックを経験している意識が、はっきりと分離して見えた。
まるで、部屋の隅から自分を見ているような感覚。
そして、それら全てを包み込むような、さらに大きな意識の存在――。
「あぁ……」
咲夜は、思わず声を漏らした。
これが、詠子の言っていた「不思議な感覚」だったのか。
翌朝、住職との面談で、咲夜はその夜の出来事を報告した。
住職は、いつになく真剣な面持ちで聞いていた。
「良い経験をした」
住職はゆっくりと言った。
「しかし、それも始まりに過ぎない」
咲夜は深く頷いた。
確かに、なにか大切なものに触れた感覚があった。
しかし、それが何なのか、まだ完全には理解できていない。
これからの修行で、少しずつ明らかになっていくのだろう。
その確信が、静かに咲夜の心の中に芽生えていた。
●第6章:悟りへの道
冬の寒さが厳しくなる中、咲夜の修行はさらに深まっていった。
座禅の時間が、もはや苦行ではなくなっていた。
むしろ、その静寂の中にこそ、何か本質的なものがあるように感じられる。
ある夜のこと。
本堂での座禅中、咲夜は、これまでにない深い気づきを得た。
自分の意識が、あたかも大きな川のように感じられた。
表面には様々な想念が泡のように浮かんでは消えていく。
しかし、その底には深い静けさが広がっている。
そして、その静けさこそが、自分の本質なのではないか??。
その瞬間、すべてが繋がった。
詠子の死。
科学の知見。
禅の教え。
それらは決して別々のものではなく、同じ真理の異なる表現だったのだ。
「ああ……」
涙が、静かに頬を伝う。
しかし、それは悲しみの涙ではなかった。
深い理解に伴う、浄化の涙だった。
翌朝、住職との面談で、咲夜は昨夜の体験を語った。
住職は、ただ静かに聞いていた。
話が終わると、長い沈黙が続いた。
やがて住職は、穏やかな表情で言った。
「よく理解した」
その言葉に、咲夜は深く頭を下げた。
「しかし、これで終わりではない」
住職は続けた。
「むしろ、ここからが本当の修行の始まりだ」
咲夜は顔を上げ、真摯な眼差しで住職を見つめた。
「はい」
その返事には、強い決意が込められていた。
その日の午後、咲夜は久しぶりに詠子の位牌の前に座った。
「詠子さん」
静かに語りかける。
「私、少しわかってきました」
柔らかな陽の光が、位牌を照らしている。
「生きることも、死ぬことも、すべては大きな流れの一部なんですね」
風が、線香の煙をそっと揺らす。
「だから、もう悲しまなくていい」
咲夜は穏やかに微笑んだ。
「むしろ、あなたと出会えたことに、感謝しています」
夕暮れの光が、静かに本堂を包んでいった。
●第7章:光明
春の訪れと共に、昂源院にも新しい風が吹き始めていた。
新たに二人の修行僧が加わり、境内はいつもより活気に満ちている。
咲夜は今、妙心と共に新入りの指導を担当していた。
かつての自分が経験した迷いや困難を思い出しながら、適切な言葉をかけるよう心がけている。
「焦ることはありません」
若い修行僧に、咲夜は優しく語りかけた。
「すべてには、それに相応しい時が用意されています」
その言葉は、かつて詠子が咲夜にかけてくれた言葉でもあった。
境内の桜が、満開を迎えていた。
咲夜は、本堂の縁側に座り、舞い散る花びらを見つめている。
一年前、同じ景色を見たときの自分を思い出す。
あの頃の激しい悲しみは、今では静かな懐かしさへと変わっていた。
それは決して、詠子のことを忘れたわけではない。
むしろ、より深いレベルで、その存在を受け入れることができるようになったのだ。
「円庭」
住職が、静かに近づいてきた。
「和尚様」
咲夜は丁寧にお辞儀をした。
「来月から、新しい任務を任せたい」
住職は、ゆっくりと話を続けた。
「医療機関での布教活動だ。中原医師から依頼があってな」
咲夜は、少し驚いた表情を見せた。
「私に、できるでしょうか」
「できる」
住職の声には、確信が込められていた。
「お前の経験は、現代を生きる人々の心の支えになるはずだ」
咲夜は、深く考え込んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「承知いたしました」
その瞬間、一陣の風が吹き、桜の花びらが舞い上がった。
まるで、詠子が微笑んでいるかのように。
光が、闇を照らすように。
苦しみを通じて、より深い理解へと至ることができる。
咲夜は今、そのことを身をもって知っていた。
桜の花びらが、静かに降り注ぐ中、咲夜は立ち上がった。
「和尚様」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
その言葉には、これまでの全ての指導への感謝が込められていた。
住職は、穏やかに頷いただけだった。
言葉は必要なかった。
二人の間に流れる理解は、もはやそれを超えていた。
夕暮れ時、咲夜は本堂で最後の読経を終えた。
般若心経の言葉が、新たな意味を持って響く。
色即是空。
空即是色。
存在するものは、すべて空である。
しかし、空こそが、すべての存在の本質である。
詠子の死は、咲夜にその真理を教えてくれた。
そして今、咲夜はその学びを、他者と分かち合う準備ができていた。
月が昇り、境内を銀色に染める頃。
咲夜は自室に戻り、机に向かった。
日記を開き、静かにペンを走らせる。
『詠子さん。
あなたの死から一年が経ちました。
この一年で、私は多くのことを学びました。
生と死は、光と影のように。
表裏一体であり、決して分けることはできない。
私たちは、その両方を受け入れることで、
より深く生きることができるのだと。
これから私は、新しい道を歩み始めます。
病める人々の心に、仏の教えを伝える道。
それは、きっとあなたも望んでいたことでしょう。
だから――』
ペンが止まる。
窓の外で、鈴虫が鳴いていた。
咲夜は、静かに目を閉じる。
心の中に、確かな光が灯っていた。
(了)
【短編小説】光と影の禅堂 ―ある尼僧の死―(約8,800字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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