「おい」


 隣を行く京二きょうじが低く声を上げたのは、現場になった屋敷を出てしばらく進み、ひとのない路地に足を踏み込んでからだった。


「ア?」

「ん」


 足を止めた京二に付き合う形で足を止めて振り返れば、京二は懐に入れていた手をユルリとに向かって伸ばす。その手の中には、沙羅が寿に残してきた沙羅愛用の煙管キセルが握られていた。


「いっつもいっつも無茶な真似ばっかすんじゃねぇよ」

「いいだろ。結果的に確実に信二郎しんじろうをしょっける状況になったんだから」


『保険』がきっちり働いたことに満足の笑みを浮かべながら、沙羅は差し出される煙管に向かって腕を伸ばす。


「いいわけあるか、バカ」


 だが煙管は沙羅の手には戻ってこなかった。


 沙羅の指が煙管に触れる直前でヒョイッと煙管を持つ手を跳ね上げた京二は、反対側の手でパシリと沙羅の手首を取る。とっさに沙羅はその手を払い落とそうとするが、あれだけ軽々と柳葉刀を扱う京二に力で勝てるはずがない。


 グッと京二に腕を引かれた沙羅は、ポスリと京二の胸の中に飛び込んでいた。予期せず触れた熱に、沙羅の体がビクリと震える。


「足、震えてんぞ」


 意識するよりも早く身を強張らせた沙羅の耳元で、京二は低くささやいた。わずかに身をかがめて沙羅の耳に吹き込むようにして紡がれる言葉は、沙羅にだけ届いてすぐに溶けて消えていく。


「お前、今でも苦手だろ。暗くて空気が澱んだ場所」


 とっさに京二を払い除けることができなかった。


 それは図星を突かれたからというよりも、隠しきれなくなった震えのせいで体が言うことを聞いてくれなかったからという理由の方が大きい。


 ──現場を離れたせいで、気ぃ抜けやがったのか……!


 思わず舌打ちが漏れた。


 手下に片付けを任せてきたから。抱えていた案件が無事に落着したから。


 そんな理由で緊張を解いてしまった自分が、情けなくて仕方がない。


「今からオヤジに暫定報告を上げるために本部屋敷に行くんだろ? このまま直行すると、詰めてるやつらに見抜かれんぞ」


 ビクリとまた、肩が震える。その震えだけで沙羅から抵抗の意思が削がれたと分かったのか、京二はそっと沙羅の手首から指を離した。


「震えが収まるまで、しばらくこうしてろ。ここなら誰にも見つかんねぇよ」

「テメェには、見つかってんだろ」

「俺は何も見てねぇよ」


 京二の胸に額を預ける形になっている沙羅には今、京二がどんな顔をしているのかは分からない。


 だが耳元で紡がれる声は、いつになく誠実な響きを帯びていた。


「なンも、見てねぇ」

「……っ!」


 いつだってこうだ。京二には全てを見抜かれる。


 ──だから、テメェのやることは面白くねぇんだ。


 全てを見抜いた上で、見ないフリをする。そうでありながら、倒れないように支えてくれる。


 で唯一沙羅に触れられる距離にいながら、決してそのように触れようとはせず。口説き文句を気軽に口にするくせに、決して踏み込もうとはしてこない。


 恐らく『双龍』の中で、京二だけが気付いている。


 沙羅の身に降りかかったあの一連の事件が、沙羅の心に深い傷を残していることを。そのせいで暗くて閉め切られた場所に身を置くと、いまだに体の震えが止まらなくなることを。


 本当は男が怖くて怖くて仕方がないのに、意地の一点張りで全てを押さえつけて、男社会の中に女一人で立っていることも。


 全部全部知った上で、見ないフリをして、沙羅の自由にさせている。そうでありながら、自分は決して沙羅の心の傷に触れないように振る舞い続けている。


 その何もかもが、沙羅には。


「……ムカつくんだよ、テメェは」


 くぐもった声が出たのはきっと、さっき絞められた喉がまだ回復していないからだ。


「いつまでもオレの上役みてぇな顔、してんじゃねぇよ」


 自分は、かつて愛していた人に裏切られたと分かったあの時、己に泣くことを禁じた。


 だからもう沙羅は泣かない。誰かに心を許すこともない。


「返り血を浴びないのは『光龍王』の矜持だろ。こんなことしてたら、テメェの着物も血で汚れんぞ」

「そんなちゃちなこと、一々気にしちゃいねぇよ」


 だからきっと今、己の頬を滑り落ちているのは、涙なんかじゃなくて。胸がギシギシ痛むのは、恋なんかじゃなくて。


 京二の腕が己の体に回らず、周囲から沙羅を切り取るかのように持ち上げられたのも、沙羅に惚れているからなんかじゃなくて。


「俺はなンも見てない。聞いてない。……ただここで、お前とちょっとした打ち合わせをしていただけだ」


 全てはきっと、そう。


 華が龍を喰らって、食あたりにあっただけだ。そうであるに違いない。


「……バカ」


 我ながら意味が分からない言い訳を胸中で呟きながら、沙羅は指先だけで京二の着物のたもとを摘んだ。


「こんな打ち合わせで、何が決まるってんだ」


 吐息に溶かすように呟いた言葉はきっと、京二にだって届かなかったはずだ。


 消えていった言葉に耳を澄ませながら、沙羅は静かに目を閉じた。




 天下の青雲せいうん八百八町、仕切る組織は千万無量。


 そのいただきに咲く華は、今日も龍を喰らいてえんを吐く。



【了】

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白華と龍〜その華は龍を喰らいて炎(えん)を吐く〜 安崎依代 @Iyo_Anzaki

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