第2話 ミマヨイサマ(二)

 凛の言葉が耳に届いて、灯里は足を止めた。


「いつもひょうひょうとしていて、冷静な人だなって思っていたんですけど……案外、怖がりなんですね」


 灯里がゆっくりと、振り返った。

 そして、少し目を細めると、凛の瞳をまっすぐに見据える。

 目があった瞬間、彼女の瞳の奥が動揺の光でかすかに揺れるのを、灯里は見た。


「ちょっと、凛……」葉月が妹の肩に手を置く。


「別に。でも、なにかいつもと違うとか、気味が悪いとか感じるなら、そういう直感は無視しないほうがいいと思うだけ」


 凛の大きな瞳をじっと見たまま、灯里は淡々と語った。


「……やっぱり、怖いんじゃないですか」


 挑発的な言葉とは裏腹に、彼女はなんだか居心地が悪そうだった。

 その視線は自信を失ったように泳いでおり、どことなく声もうわずっている。

 そんな彼女のたどたどしさが、かえってこの場の空気を重くしていた。

 自分たちのやりとりが原因となって妙な空気を作ってしまい、灯里もなんとなく居心地の悪さを覚えてしまう。


 灯里はそれ以上なにも言わず、ふう、とため息をひとつついて自分の席へと戻った。


「凛、いったいどうしちゃったのよ? いつものあんたらしくないじゃん」


 葉月は生意気な妹をたしなめるように言いながら、眉をよせる。


「やっぱり、わたしも今日はこのあたりでおしまいにしたほうがいいと思うな」


 一千歌もこの状況に少々困惑したようすで、控えめに提案した。


「私は別にいいよ。そこまで凛がやりたいなら、やろうよ」


 灯里が少し俯きながら、ため息まじりにそうつぶやいた。


「でも……大丈夫?」一千歌が心配そうに問いかける。

「……別に。怖くないし」


 一千歌が不安げな表情でこちらを見ているのがわかって、灯里は少しだけムッとした顔になった。

 そして顔を背け、わざとらしく彼女から視線をはずす。


「それでこそ先輩です。それでは、はじめましょう」凛が嬉々として言い放つ。


 葉月と一千歌は顔を見あわせ、なにか言いたそうな顔をしていた。

 凛がどうしてここまでこだわるのかわからない、といったようすだ。

 ふたりは複雑な顔をして視線をかわしながら、少しのあいだ灯里と凛を交互に見つめていたが、結局、どちらもそれ以上この件で口を開くことはなかった。

 普段は無邪気な凛が、こんなに強情なところを見せるのは珍しい。

 目の前に座っている彼女に対して、灯里も少しだけ違和感を覚えていた。


「なにか質問したい人、いますか?」凛が意気揚々と、提案する。

「……えーと。じゃあ私、いい?」


 おずおずと手をあげる葉月の瞳には、若干の不安の色が残っている。

 いつもとは少し違う妹の態度と、さきほどの奇妙な現象が、小さなくさびのように彼女の心に引っかかっているのだろう。

 声の調子も、気のせいだろうか。どことなく強がっているようにも聞こえる。


 そして、誰からともなく五円玉へと人差し指を伸ばした。


「えーと、ミマヨイサマ」


 葉月が一呼吸置いてから、少しだけ照れたように述べる。


「実はいま、好きな人がいるんですけど……。あたしの恋、うまくいきますか?」

「もしかして、前にちょっと仲よかった陸上部の?」凛がたずねた。


 静かだった教室の底から、ざわめくような、泡立つような気配が立ちのぼるのを、灯里は感じていた。


「……ん。いいや、別の人」


 葉月は少しだけうつむき、手のひらで顔をパタパタさせて風を送っていた。

 見ると、耳まで赤くなっている。

 意外と、純情なのかもしれない。


「ねえ、教えて。どんな人なの?」


 凛は姉の恋愛事情に、興味津々みたいだ。


「うるさいなあ。別にいいじゃん」


 葉月はふいっと視線をそらし、口をとがらせる。

 いつも気だるそうにしている葉月が、なんだか今日はすごくしおらしい。

 ちょっとかわいいな、と灯里が思っていたそのとき――四人の指の乗った硬貨がわずかに動いた。


「き、きました……!」凛が驚いたように大きな目を見開いて、歓喜の声を漏らす。「ミマヨイサマ、本当にきてくれたんだ……!」


 一千歌と葉月が、小さく息を呑んだ。

 灯里は目を細くして目の前の光景をみつめていた。

 この現象には、理由がある。

 こういった儀式めいた特別なことをしていると、どうしても独特な雰囲気や緊張感が生まれる。

 そのせいで無意識のうちに筋肉が反応して、硬貨が意志をもって動き出したかのような錯覚を覚えてしまう。それだけのこと。

 ふたりも、この現象にはちゃんとした理由があることをどこかで聞いたことがあるはずだ。


 四人の視線が集中するなか、五円玉はためらいがちに少しずつ「はい」の方向へと滑っていく。

 しかし、五円玉は途中で止まってしまった。なんだか迷っているようにも感じられる。そして、気が変わったようにいきなり方向を変えて、結局「いいえ」の場所に落ち着いた。


「いやいや、そりゃないでしょ!!」


 葉月は軽くずっこけると、机に身を乗り出して抗議しはじめた。


「途中まで『はい』に向かってたじゃん! 絶対、誰かわざと動かしたよね!?」


 その場にいる葉月を除いた三人が、ふるふると首を横にふった。


「言いがかりだよ。そんなことして何になるの?」灯里は視線を五円玉のほうへと向けながら、ぽつりとそうつぶやいた。


 葉月が続けてなにか言おうとした、そのとき――。

 窓がカタリと揺れる音が、妙に大きく鳴った。

 四人の視線が、一斉にそちらの方へと向けられる。

 かと思えば次は、四人のほかには誰もいないはずの教室のなかから、サササッ、と、この場には似つかわしくない軽快な足音のようなものが聞こえた。

 まるで、獣かなにかが駆けるみたいに。


「なんの音?」葉月が小声でつぶやく。「それに……。気のせいかな。なんか、さっきよりも寒くない?」

「風じゃない? それに、夕方になるとまだ少し肌寒いし」灯里は答えた。

「…………」「…………」


 一千歌と葉月は、不安そうな表情を浮かべてふたたび視線をかわす。なんだか落ち着かないようすだ。


「次に質問したい人は、いますか?」凛が沈黙を払うように口を開いた。

「……私、いい?」


 少し間をおいて、灯里が控えめに手をあげた。

 三人の視線が集まるのを感じる。


「どうぞ!」

「じゃあ、いくよ」


 灯里の言葉を受けて、みんなの視線が再び机上の紙へと注がれる。

 そして、五円玉にそっと触れる四人の指。

 教室中の空気か少しずつ緊張で張りつめていくのを、灯里は感じとった。


「ミマヨイサマ、教えてください。一千歌の今日の朝食は、なんでしたか?」

「あら……」一千歌が少し目を見開いて、灯里のほうを見つめた。

「もっとほかに、聞きたいことはなかったんですか……」


 凛が残った手で頭を抱えると、四人の指を乗せた硬貨がふたたびゆっくりと動き始めた。

 教室の隅で、尋常じんじょうの目には見えざる何かが動いたが、灯里は気がつかないふりをした。

 天井に設置してある蛍光灯が、ちらちらと不規則な明滅を繰り返す。

 硬貨は少しだけ迷うように彷徨ったあと、順番に「か」「れ」「ー」の上で止まった。


「……カレー? 花守先輩、今日の朝食はカレーであってますか?」凛がおずおずと一千歌の顔を見つめ、そう問いかける。


 一千歌は目を丸くしてしばらく硬貨を見つめたあと、指を離した。


「不思議ねえ。今日の朝ご飯はカレーだったの。あたってるよ」

「まじか……」葉月はあんぐりと口をあける。

「私、知ってたよ」


 灯里が悪びれたようすもなくそう述べる。


「昨日の夕方、一千歌の家の近くからカレーの匂いがしてたから。昨晩がカレーなら、今朝も残りのカレーを食べるのかなって」

「やっぱりわざとやってるんじゃないの!?」


 葉月がふたたび声を荒げたが、灯里はきょとんとした顔をするだけでなにも答えなかった。


「でも、ほんとに当たってるんですね。すごい! すごい! やっぱりミマヨイサマは本物ですよ!」


 凛は目を輝かせながら声をはずませる。

 熱がこもるあまり、彼女は少しだけ早口になっていた。

 凛が興奮しながら語る姿を見て、灯里は自然と頬が緩むのを感じていた。

 さっきまでの挑発的な態度がまるで嘘のよう。こうして無邪気にはしゃぐ彼女は、いつもの可愛い後輩だった。

 灯里が視線を横に向けると、一千歌と葉月も穏やかなまなざしを凛に向けていることに気がついた。


「それでは……。次は、最後の質問ですよ」


 灯里は、いつになく真剣な表情でそう語る凛のほうへと視線を投げた。

 そして、捉えた――。

 凛の背後にたたずむ何者か。


 教室の空気を冷たく歪める、この世ならざる者の存在が、そこには在った。

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