この世のことが、知りたくて

つきかげ

第一部 乃愛

第1話 ミマヨイサマ(一)

 薄暗く静まりかえった放課後の教室には、窓際の机を囲う四人の女子生徒だけが残されていた。

 教室のカーテンが風をうけ、パラシュートみたいに大きく膨らんで、ゆっくりとしぼんでいく。涼しいと呼ぶにはまだ少し冷たい空気が室内にすべり込んできて、頬をやさしくかすめる。


 烏羽灯里からすばあかりは頬杖をついて、ぼんやりとした表情で窓の外に視線を投げていた。


 視線の先。

 校庭の隅に立つけやきの木の枝には、数羽のカラスが止まっている。

 その場所に彼らの小さな巣があることを、灯里は知っていた。


 カラスは、いい。

 烏羽からすばという一風変わった自分の名字のせいか、カラスには物心ついたときから妙な親近感がある。

 なにかと嫌われることの多い鳥だけれど、どうしてもそんなに悪いやつだとは思えないのだ。


――でも、なにもそんなところに巣を作らなくてもいいのに。


 大人に見つかったら、きっとすぐに撤去されてしまうに違いない。

 同じ鳥でも、もしこれがつばめの巣だったら、みんな必死で守ろうとするのだろうか。


「烏羽先輩。準備はいいですか?」


 物思いにふけっていると、向かい側の席に座る後輩の神庭かみにわりんに名前を呼ばれ、灯里は視線を机に落とした。


 机上には、凛が用意した五円玉と一緒に、一枚の大きめの紙が広げられている。

 紙には手書きで五十音表のような文字列が並ぶほか「はい」「いいえ」と書かれた箇所があり、上部中央には「三迷」と大きく記されていた。


「一応、確認だけど。これって、こっくりさんだよね?」


 灯里は首をかしげて、純粋な疑問を口にした。


「ミマヨイサマですっ!」


 小柄な凛が、特徴的なツインテールを揺らしながら勢いよく机に両手をついて立ち上がった。

 けれど、やっぱり席を立っても彼女の背丈が大きくなるわけではない。

 なんだかやけに必死に見えるその姿が、少しだけ微笑ましい。


「でも、こっくりさんと似てるよね。どこか違うのかな?」


 一緒に机を囲っている花守はなもり一千歌いちかが、灯里の言葉にふんわりと同意した。ウェーブのかかった癖っ毛の長い髪が、ふわふわとゆれる。


「ミマヨイサマは、漢字で『三』に『迷う』って書くんです」


 凛は鼻息を荒くして得意げに話しはじめた。大きく見開かれたその瞳は、熱っぽくきらめいていた。


「こっくりさんに似てるけど、ちょっとだけ違うんですよ。ミマヨイサマはですね、最初の三回目までは質問に答えてくれるんですけど、そのあとは……」


「そのあとは?」一千歌が首をかしげる。


「そのあとは向こうから伝えたいことを教えてくれるんです!  助言とか、アドバイスとか!」


 凛の真剣な表情をみて、一千歌は顔の前で手をあわせ、にっこりと微笑んだ。


「すごいねえ」


 穏やかな表情でやさしく相槌を打つ一千歌を見ながら、その場で同じ机を囲んでいる神庭かみにわ葉月はづきが肩をすくめて、呆れたようにため息をついた。


「話は終わった? やるならさっさとやろうよ。あたし、お腹すいちゃった」


 セーラー服を軽く着崩した葉月のお腹が、ぐう、と音を立てた。その音を聞いて、一千歌が口に手をあててくすくすと笑う。


「たしかにそうですね。それじゃ、はじめましょう!」


 凛が宣言すると、四人はおもむろに紙の上に置かれた五円玉へと人差し指を伸ばした。


 木曜日は学校の決まりで、部活動が休みになる。

 その放課後、ミマヨイサマという奇妙な遊びをしようと提案したのは凛だった。

 都市伝説や怪談話が大好きな彼女は、どこから仕入れてくるのか、ときどき不思議な話を披露してきたり、このような遊びを持ちかけてきたりすることがあった。


 灯里と一千歌、そして葉月は中学三年生の、同じクラスメイト。凛は葉月の妹で、ひとつ下の学年だ。

 葉月はいつも妹の話に半ば呆れながらも、つい彼女を甘やかしてしまうところがあるみたいだ。

 文句を言うこともあるけれど、結局、凛の提案に付き合ってあげている場面をよく目撃する。

 灯里と一千歌にとって、そんなふたりのやりとりを一歩引いたところから眺めるのが、最近ではすっかり日常の一部になっていた。


「ミマヨイサマ、ミマヨイサマ。どうぞおいでください。おいでくださいましたら、『はい』へとお進みください……」


 凛はよく通る声でそうつぶやいた。その表情には、少しだけ緊張が宿っている。

 凛の声は、静まり返った教室の空間に吸い込まれていった。

 四人の指が置かれた五円玉に、変化はない。


「動かないね」


 葉月は眼鏡の位置を指で整えながら、少し面倒くさそうに頬杖をついた。

 少しだけ、飽きてきたのかもしれない。


 灯里は、三人のようすをじっと無表情でみつめていた。


「灯里、もしかして眠くなった?」一千歌は心配そうな表情で灯里の顔を覗き込んできた。

「大丈夫だよ」ふるふると首を横にふって、灯里は自らの意志を表明する。

「疲れてない?」

「別に……」


 灯里はほんの少し照れくさくなって、一千歌から目を逸らした。


 一千歌はいつも自分を気遣ってくれる。

 同級生なのに、まるで母親か姉みたいだ。

 嬉しい反面、たまにちょっとだけわずらわしいこともある。


 「ミマヨイサマ、教室の窓が開いてございます。どうぞ、そこからおいでください。おいでくださいましたら、『はい』へとお進みください……」


 ふたたび凛が語りかける。

 見えざる何者かに向かって。

 その声は少しだけ震えていて、五円玉の上に置かれた彼女の指先には力が入っているのか、白っぽくなっていた。


 そして、次の瞬間――。

 窓際のカーテンがばさりと音を立てて、獣の咆哮のような突風が教室に吹き込んできた。


「きゃっ!」


 一千歌が驚いたように自分の髪の毛に手をあてて、灯里の腕にしがみつく。

 葉月と凛も、突然のことに驚いてお互いを庇い合っていた。


 壁に貼られていたプリントや張り紙が、何者かに引き裂かれるように次々とはがれ、風に乗り、宙へと投げ飛ばされていく。

 さらに、机や椅子のいくつかが激しい風圧によって押し倒され、ガタン! という大きな音が教室中に響き渡った。


 しかし、それも一瞬の出来事。

 今度はまるで最初から風なんか吹いていなかったかのように、教室がシンと静まりかえる。

 凍った湖面を慎重に歩くような静寂のなか、今はもう窓際のカーテンは少しも揺れていなかった。床に、散らばったプリントや倒れた机や椅子が残されているだけだ。


「び、びっくりした。もう、なんなのよ……」


 葉月が呆然とした表情でつぶやいた。

 あまりにも突然の出来事に、四人はいつの間にか机の上の硬貨から指を離してしまっていた。


「とりあえず、片付けちゃおっか。窓も閉めておいたほうがいいね」


 一千歌がそういって立ち上がると、他の三人も彼女に続いて荒れ果てた教室を片付け始めた。

 窓をしめて、机や椅子をもとの位置に戻して、散らばったプリントを一枚ずつ集めていく。

 そうして、一通り片付け終わると、灯里は自分の席に戻り、机の上に目を落とした。

 机が倒れるくらいの激しい突風が教室中を暴れまわったというのに、凛の用意したミマヨイサマの紙だけは、机上に縫い付けられたかのように微動だにしていない。


「これ」灯里が紙を指さしてつぶやく。

「えっ……?」

「あらあら……」

「ちょっと待って……。まじ?」


 四人の視線が紙の上へと注がれる。

 机上から紙が落ちていなかっただけではない。紙の上に乗った五円玉が、「はい」の上へと移動していたのだ。


 突風が吹き込んでくる直前、凛は言っていた。おいでくださいましたら、「はい」へとお進みくださいと。

 誰かが小さく息を呑む音が、静まりかえった教室に妙に響く。

 教室の底を漂う空気が、少しだけ温度を下げた気がした。


「……いたずらだよね? 誰がやったの?」


 葉月が焦ったような顔をして、平手で机上に敷かれた紙を叩いた。紙に少しだけしわがよる。

 けれども、誰もなにも答えない。お互いに、無言で顔を見合わせるだけだ。


「ただの偶然だよ」


 三人がその場で硬直するなか、沈黙のとばりを破ったのは灯里だった。

 そして、白く伸びた指先で椅子を引くと、スカートの裾を整えて自分の席に腰をおろした。


「でも、こんな偶然ってある?」葉月の瞳の奥が、不安げに揺らめく。


 灯里は彼女の方をちらっと見ただけで、すぐに視線を外してぼんやりと窓の外を見つめた。

 そろそろ夕暮れ時だ。


「風が吹いたとき、みんなびっくりして五円玉から手を離しちゃったよね。そのときに投げ出されて、たまたまこの場所に止まっただけだよ」


 灯里は風で乱れた長い髪を手で気にしながら、淡々とした口調で答えた。

 その後、「はい」の上に置かれていた五円玉の上に指先を軽く乗せ、スーッと滑らせるように中央付近へと移動させる。


「でも、ミマヨイサマの紙は? 画鋲とかテープで壁にとめてあったプリントまで、バサバサーってなったんだよ。このぺらぺらの紙だけ机の上から少しも動かないなんて、あり得なくない?」

「そういうこともあるんじゃない?」

「……そうなのかな」葉月はなんだか腑に落ちないようで、不満げな顔をしていた。「偶然ならいいんだけど……。ちょっと気味が悪いよ」


 少しのあいだ、沈黙が落ちる。

 それを破るかのように、一千歌がいつもより少しだけ控えめな声でいった。


「今日はこれで終わりにしたほうがいいかもしれないね」


 彼女の口角はわずかに上がっていたが、少しだけぎこちない。

 落ち着いてみせようとはしているものの、隠しきれない緊張感が滲み出ている。

 彼女の提案を受けて、灯里は無言のまま自分の席に戻り、スクールバッグを手に取った。

 そして、誰とも目を合わせることなく教室の出口へ向かう。

 一千歌も帰りの準備をして、自分のあとをついてくるのがわかった。

 すると、ふいに背中に声がかけられた。


「……おや? 烏羽先輩、もしかして怖いんですかぁ?」


 凛の透き通った少し高めの声が、静まり返った教室に響いた。

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