epilogue
意識の覚醒と共に目を開けると、ここ数年で見知った天井が見えた。
浮かぶ記憶を手繰ると、大きな発作による苦しみが想起されたが、今の自分の体には苦しみや辛さといった感覚が存在しない。
死んでしまったのかと体を動かすと、意思を通した体はスムーズに従った。
まるで、若いころのように、とまではいかないにしても、患っていた心臓は嘘のように従順な自律行動を続けている。
その鼓動は力強く、まるで、自分のものじゃないように思えた。
覚醒したことで看護師や医師が訪れ、様々な医療行為がひと段落すると、親族が見舞いに訪れた。
子どもたちや孫たち、中には蓮司と真衣の子どもたちも含まれていた。
術後であることから面会は短時間で打ち切られ、名残惜しい思いを抱きながら病室で一人になる。
これまでの話を統合すると、私は大きな発作の後で、幸いにも適合する心臓の提供を受けることができて命を繋いだと知った。
こんな老人ではなく、順番を待つもっと若い方に回してほしかったと文句も言いたかったが、やはり死への恐怖から逃れられた安堵は予想以上に大きく、自分がまだ死にたくないという渇望を抱いていることを知った。
それはきっと、やっと想いを伝えることができた彼と共に、一分でも一秒でも長く生き続けたいという願いだ。
小さなころは分からなかった。
隣にいる人の存在の大きさを。
高校生になって、親友の真衣が、蓮司を好きだと言ってきたときに私はただ混乱して、彼女の想いを遂げさせてやるという親友としての義務感で蓮司との橋渡しをした。
それは別に真衣の恋が成就することを望んだわけではなく、その想いを適切に伝えさせるためで、まさかその後、蓮司と真衣が付き合うことになるとは夢にも思わなかった。
蓮司は真衣を選ばない。と、なんの疑いも持っていなかった私は、これまで抱えていた想いや感情が何も信じられなくなり、気がついた時には、蓮司に紹介された孝之を受け入れていた。
どうせ高校生の恋だ。それは子供の恋で、本当の恋じゃない。
いつかはきっと蓮司と一緒になる、そんな漠然とした思いを抱えながら状況に流されてしまった。
それから何十年も経ち、私はやっと蓮司に想いを伝えることができた。
蓮司が私のことを何とも思っていないとしても、それでも今生の憂いを断つことはできたのだ。
いつ死んでもいい、そう思っていたはずなのに、誰かの生を犠牲にして生き残ってしまったことを恥じつつも、まだ蓮司と生きられる喜びを感じてしまった。
これまでたくさん彼に恋し、失恋しつづけてきたのだ。
最後くらい彼を独り占めにしたかった。
孝之にも真衣にも許しを請うつもりはなく、それは本当にわがままな子供じみた独占欲に近い感情だった。
―――――――――――――
「ドナーから、手紙を預かっています」
数日後、医師から手紙を受け取った。
蓮司はまだ見舞いに来てくれていない。
封筒のあて名は「川瀬紗雪さまへ」と書かれていて、それは見慣れた筆跡だった。
蓮司はどうして見舞いにきてくれないのだろうか。
医師は「そのドナーは、しばらく前に認可された安楽死制度を利用されました」と告げ、病室を出て行った。
蓮司が医師の代わりに入室してくる気がしたが、実際は小さな風が舞い込んだだけだった。
封筒を開けると、中には便せんが一枚。
三つ折りのそれを開くと、少ない文字が書かれていた。
『君の命は僕が預かった』
その文字は、よく知っている筆跡だったから、差出人の名前も必要ないということだろうか。
私はこんなことを望んでいない。
なぜあなたの生を使って生き永らえなければならないのか。
この選択に至る蓮司の気持ちは、もう永遠に分からないままだ。
「……もう、聞きたくても、話もできないじゃない……」
声に出してしまうと涙があふれた。
想いがあふれた。
やっと、一緒にいられると思ったのに。
これまで語れなかった想いを伝えられると思ったのに。
ひとしきり涙を流して、そして気づく。
そうだ、これまでも言葉なんか必要なかった。
私の想いは声にださなくてもずっと存在していた。
胸に手を当てると、鼓動が高まるのを感じた。
彼は私の手すら握ることはなかった。
だから、こうするしか一緒になれないと思ったのだろうか。
彼の気持ちは分からない。
けれど、少なくとも彼は、一緒に旅立ちたいという私の願いを、これ以上ない方法で叶えてくれたのだ。
「ずっと一緒だよ」
囁くように胸に告げる。
言葉も触れ合いも必要ないとばかりに、私の中で鼓動が跳ねた。
――― 了 ―――
数えきれない失う恋と、一つだけ得た恋の話 K-enterprise @wanmoo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます