数えきれない失う恋と、一つだけ得た恋の話

K-enterprise

irreplaceable You

 僕はずっと恋を失い続けていた。

 人生のいたるところで、そこかしこで、枚挙にいとまがないほど、僕は恋を失い続けてきた。

 簡単に言ってしまえば失恋だ。

 本当にどうしょうもないほど僕は失恋を重ねて生きてきた。


 それを最初に自覚したのは、僕が高校生の時だ。

 幼馴染の矢走紗雪やばせ さゆきから紹介された松崎真衣まつざき まいと、いつのまにか付き合いだして、周囲から恋人同士であることを広く認知された頃。

 僕は得恋と失恋を同時に自覚していた。


 真衣は僕のことを好いていてくれて、僕もそれに応え、周囲も応援してくれて、様々な行事と共に塗り重ねたエピソードが、僕らの関係を盤石にしていった。

 そうなるともう、その関係性はお互いの気持ちを越えたところに偏移し、それを覆すことはもう誰にもできなかった。

 二人が想い合い、ずっと生き続けることが善であり、それ以外の行為はハッピーエンドを阻害する悪しき行為であると認定された。

 世の中とはそういうもので、誰もが勧善懲悪の分かりやすい正解を求めていたし、当事者である僕らも敢えてそれに異を唱えるということはしなかった。


 僕は流されてしまった。

 そして真衣との恋を知ることで、ずっと自分の中に育っていた感情の正体を知った。その自覚は遅すぎて、分水嶺は遠く越えてしまっていることに気づいても、もうどうすることもできなかった。

 僕は心の中に育ち続ける“正しくない恋”を、押さえつけて暴れて外に出ないようにすることしかできなかった。


 幼馴染の矢走紗雪に抱いていた恋を、僕はそうして失った。


 紗雪は、隣人であり同学年であり、物心ついたころから家族ぐるみの付き合いがあった、これ以上ないというくらいの幼馴染だった。

 誕生日も産院も血液型まで同じで、違う母体から生まれた双子なんじゃないかと親同士はいつも笑っていた。

 いつもそばにいたから、それが当たり前だったから、言いたいことも聞きたいことも考えることも分かっていた。

 性格や趣味嗜好などに差異もあったが、その差を自然に受け入れ、僕らは肉体的なつながりを必要としないほど確固たる絆で結びついていたと思う。


 だから気づけなかった。

 側にいることが、そこにいることが、その存在が当たり前の世界にいた自分にとって、紗雪という存在がどんな位置にあるか、どんな犠牲を払ってもそれを維持しなければならなかったということを気づけなかった。


「真衣が……蓮司れんじと友達になりたいんだって」

「いやいや、松崎さんも僕らと同じクラスなんだし、もう友達だろ」


 紗雪が少し緊張した面持ちで僕に声をかけてきたとき、笑いながら軽く返した僕の言葉から、きっと世界は分岐を始めたんだ。

 真衣は大人しく控えめだったけれど、誰よりも強く僕を想ってくれた。

 話下手だけど手紙は饒舌で、彼女の綴る言の葉に、僕の世界は広がった。

 それは17歳という、人生経験が少ない僕にとって鮮烈な体験だった。

 そうして真衣にほだされるように、僕らはいつのまにか恋人同士という関係に至っていた。


 その時点ではまだ、得恋も失恋も覚えていない。


蓮司れんじあのさ、俺、矢走さんのこと気になってる。紹介してもらえないか?」

「紹介って……お前らしくもないな。……それじゃあダブルデートでもするか?」


 高校になってから親しくなった川瀬孝之かわせ たかゆきは、バスケで鍛えた体を小さくしながら弱弱しく僕に言い、普段から堂々としている彼の気弱さに同情した僕は、そうして二度目の決定的な選択肢を選んでしまった。


 自分が先に離れてしまったのに、孝之を紹介したその一瞬だけ、何もかも諦めたような表情を僕に向けた紗雪の顔を見た時に、僕は彼女を失ったことを自覚した。


 僕ら二組の男女は、そこからの高校生活を全て費やして、誰が見ても羨まれるような二組の恋人同士になっていた。


 そして、僕はずっと恋を失い続けた。

 紗雪と孝之が正式に恋人同士になった。

 孝之が恥ずかしそうに関係性が深まった体験を語った。

 お互いが泊まりの旅行に行った。

 それぞれの実家へ挨拶に行った。

 

 真衣との関係が深まり、お互いが想い合う中で、僕は紗雪への想いを一つ一つ失い続け、それはきっといつかゼロになると信じ、身を剥がされるような痛みを誰にも見せることなく、隠し続けて懸命に生きた。


 四人は同じ大学に進み、就職先はそれぞれの道を選んだけれど、やがて郊外の建売住宅を並びで購入するほど、破綻も無く穏やかに笑顔の溢れる、誰にも誇れる二つの家族になった。

 真衣の夫になった僕と、孝之の妻になった紗雪は結果として、すぐとなりにいて、でもその関係性は絶対に交わってはいけなくて、彼女の幸せそうな笑顔を見る度に、僕のココロはまた一つ恋を失い続けていた。

 何年経っても

 何年経っても

 いつかゼロになるはずの想いは、いつまでたっても剥がれ続け、僕に永遠の痛みを与え続けた。

 それが、あのときどんなことをしても紗雪を選ばなかったお前の罪だとばかりに。


 そして長い歳月が流れた。


―――――――――――――――――


「私ね、蓮司に言わなければいけないことがあるの」


 病室に吹き込む風が強くなり、その窓を閉めた僕に紗雪がポツリと言った。

 それまで他愛のない昔話を続けていた僕らの間に、らしくない空気が広がっていた。


「まさか70歳を目前にして、まだ話し足りないことがあるって?」


 僕はゆっくりと椅子に座り直して、背面を起こしたベッドに背を預けた紗雪に笑いかける。


「いつ死んじゃうか分からないでしょ? 言えることは言っておかないとと思って」


 少し目を伏せた彼女が言いたいことは分かる。

 孝之は突然の病気で、真衣は事故で、何も言い残すことはなくこの世を去っていた。

 そして紗雪も心臓を患っていた。いつその時が来るかなんて誰にも分らない。


「孝之との惚気話なら勘弁してくれ」


 居住まいを正しながら、軽口を叩き雰囲気を和らげようとした。

 でも、紗雪はこれまで見たことのない、いや、一度だけ見た記憶がある。あの何もかもを諦めたような表情を浮かべていた。

 違うのはその視線を僕に向けていないことだ。

 そして、何かを断ち切ったように瞬きをした後で僕を見て言った。


「私、蓮司が好きだった。ずっと」


 この老体の、擦れ切った心のどこにその想いは残っていたのか、僕はその言葉を聞いた途端、想いの奔流によって心が再構成され、世界があるべき場所に収まった気がした。

 でも、僕らが長い時間を過ごした世界の中では、僕らの関係は幼馴染であり、隣人であり、親友であること以外を認めてはもらえない。

 どんなに恋していたとしても、それをお互いに届け合えたとしても、報いてはいけない想いなのだ。


「ありがとう」


 彼女を抱きしめたくなる衝動と激情に溢れる心を抑え、笑って言えた。

 

「ほんとは、こんなしわくちゃになる前に言いたかったんだけどさ」

「孝之に怒られるから勘弁してくれ」

「旦那にはいちばん綺麗な時期を一緒にいてあげたんだから、許してくれる。それに……あの人は私がずっと蓮司を想っていたことを知っていた。それをひっくるめて私を好きになったんだって、いいひと過ぎるでしょ?」


 そんな話は初めて聞いたけれど、確かに孝之は僕らと一緒に行動することを選ぶことが多かった。

 そしてそれは、真衣も同じだった。

 

「真衣もさ、なんでか君といっしょにいることを望んでたよな」

「ほんとだよね。二人とも、触れられない想い人のそばにいることを私に強要するなんて、ひどいよね」


 僕らは顔を見合わせてひとしきり笑った。


「でも、そのおかげで、ずっと近くで生きてこれた。だから終わりの時まで、あなたと一緒にいられる。その時間があまり残っていないのは残念だけど」紗雪は窓の外を眺めて言った。


「……ドナーが現れればいいんだろ?」

「こんなおばあちゃんを生かしてどうするのよ。私はもう精一杯生きた」

「幸いにも僕は臓器提供の意思を示していて、僕の臓器は君の体に適合しているらしいんだが」


 彼女は怖い顔をして僕を睨んで言った。


「ねえ、後生だから馬鹿なことは言わないで。私の望みは、最後の瞬間まであなたと一緒にいられたらうれしいってだけ」

「善処しよう。他には何かある?」


 その望みはあまりにもささやか過ぎて、悲しかった。

 僕はせめて、僕にできる全てで彼女の願いをかなえたいと思った。


「……そうね……私たち、同じ日に同じ場所で生まれたでしょ? その先は一緒になれなかったから、最後は二人で一緒に、手を繋いで旅立ちたいなって」


 恥ずかしそうに目を伏せた彼女は言った。

 その言葉を紡ぐために、きっと大きな勇気が必要だったはずだ。

 だから、僕の答えは決まっている。


「僕はまだまだ健康なんだが……それに、僕は君の手を繋げないよ」


 彼女の決意が気の迷いと笑えるように、お道化て笑った。


「……そうだね、じゃあ代わりに約束して」

「僕にできることなら」

「私より先に死なないで、私を看取ってください」


 あなたを想い続けた代価を、私にください。

 紗雪の笑顔から僕はそんな願いを受け取っていた。


「善処するよ」


 掠れそうになる声を張って、僕はその言葉を振り絞った。



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