謎はともあれ、下山
ときに世は欧州列強の躍進に戦々恐々としていた時代である。各国が鉄道開発に血眼になり出したのもこの頃で、本邦でもかくなる潮流に遅れてはならじと腕の立つ技師を探し求めてあった。このとき偶然にも寅エ門の細緻な技が帝の御照覧に預るや、鶴の一声により御用技師として渡欧――あとのことは、世に広く知られたるところ。本邦鉄道開発の功労者として叙勲を賜るも寅エ門はこれを固辞、爾来行方を晦ました彼の消息を知る者はいない。
と、世間ではこういった次第となっているのだが、実は
「あの爺、山暮しは飽きたとかいって、三年ばかし前に山を降りてきやがったじゃないさ」
「そうでした、でも姐さん。何で僕たち、今のいままで忘れてたんでしょう。それに旦那様も、どうして姐さんを山へお遣いに――」
そう、芍も希井斗も寅エ門の今の居所を、知っていた。なのに一幅の絵からそこだけを切り取られでもしたかのように、寅エ門に関する一切のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていたという――と、そこに低く淀んだ蛙の鳴声めいた、忍笑い。僧侶のものである。
「これは異なこと。その方ら、どうやらかの御仁と知己である様子。にも拘らず拙僧に在所を問うてくるとは……はてな、新手の公案のつもりかな」
「お黙りよこの乞食坊主。誰がてめぇなんぞと問答するものかい」
芍は僧の隠れた面めがけて吐きつける。と、なおも苦笑の僧を無視して踵を返す、おたつく希井斗の手を取り有無を言わさず引っ張って行く。が、
「待たれよ」
と思いの外に強い口調の、
「……なんだいしつこいね。托鉢なら他をあたんな」
「そうではない。そなた、忘れてはおらぬか」
「忘れるって、何を――あ」
すっと指差されたのに釣られて芍が目を移らすと、その先には一本の桜の木。根本には無論、解かれたままの風呂敷と菓子折と、謎深まる畳紙とがあるわけで。せっせと拾っている間に僧は、
「何事も根本が肝心とはこのことかな。そなたらも周りにばかりに気を取られ、足下が疎かにならぬよう……ではこれにて」
と残して悠然と歩み去る。芍も希井斗も暫し呆然と黒い背中を目で追うも、下った跡を虚しき風が一筋吹いて、はっと我に返る。
「……ふんっ、けったいな坊主だったね。あれでお布施に桜餅を所望するなんて抜かしてたら、石ぶつけてやったところだよ」
「姐さん、そういう物騒な物言いは」
「物騒なもんかい。厄除けだよ、塩撒く代わりさ。ほら、希井斗も口開けて」
「えぇ、なんで――むぐっ」
と希井斗のぼやき口にねじ込まれた桜餅、黙って咀嚼し始めたとみて芍もひとつ摘まみ食う。共に目を合わせつもごもごとしたかと思うと、ぴたりと止まり、示し合わせたかのように頬を弛ませて。
「これだよ、これ。甘さを際立たせるは塩の妙、ってね。お清めはバッチリだろう」
「そんなこと言って、本当は食べたかっただけのくせに」
「ああそうとも、こんな上等なのは滅多に食べられないからね。御曹司も妙な依頼を押しつけてくれたけど、こいつでちゃらってことにしてやろうじゃないか……さて、と」
芍は屁理屈こねる間、残りの菓子を風呂敷に仕舞って肩掛けに、畳紙を脇に。万端準備整えて、
「帰るよ希井斗、
と言い終わらぬうちに駆け出した。
姐さん待っての声を背中に聞きながら、息弾ませて、歩度を速めたり緩めたり、戯れつつ小走りに山を下ってゆく様はどちらが子どもがわかったものか。けれども芍の
「おっ、夕陽が見えたね。希井斗、夕陽が――」
或いはもっと、不吉な予感からの。
「――希井斗。きい、と?」
黄昏時には
「――やっと追いついた。姐さん、どうして置いていこうとするんです……痛っ!」
「遅いよ、バカタレ」
安堵がつい拳に変わること、芍とて度し難いとわかっている。わかってなお止まらないのは、出自を知らないがゆえの業か。自身のあやふやさに耐え兼ねて、このか弱き少年を吾が半身と頼んでしまうのだろうか。
「また迷子になったかと思ったじゃないか。ほら、手出しな」
「えぇっ、僕もう手を繋いでもらうような歳じゃ」
「いいから、ほらっ」
芍は半ば強引に手を取って、今度こそ小さき相棒の足に合わせて歩み出した。ちらと隣を見ると、希井斗の横顔は満更でもなさげに綻んで、釣られて芍も花笑んで。二人の間を
いずれにせよ今日のところ、きょうのところは、残りの桜餅をどのようにして分けようか、そんな取るに足らない、けれども愉しげな妄想を浮かべて芍は、坂道を一歩、また一歩と確かめながら、連れと共に暮れなずむ緋色の山を下りてゆく……。
<序章・了>
護翼抄異伝 律角夢双 @wasurejizo
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