奇妙な齟齬

 シャクが聞き覚えのある声で我に返ると、しりには土の、背中には硬い木の感触と。眠っていたのかしらと思う間もなくまた声の、今度はより甲高く耳につく。けれども決して不快なものか、どこか餌をねだる雛鳥を想わす響きのした方へと向き直る。と、そこにはやはり待ち望んだ小さな影が。瑠璃のような瞳をうっすらと潤ませた、尼削ぎ髪の男児は間違いなく希井斗きゐと少年その人で。再会にあたって誰もがそうするように、芍はその麗しき名を、


「くぃふぃとぉ」


呼ぼうとして、盛大に間抜けな音を溢れさせた。だけにとどまらず、口の中のやたらと甘ったるい異物感に嘔吐えずきかけ、何とか呑み下して、息をひとつ。


「希井斗、どこ行ってたんだい」

「どこ行ってた、じゃないですよ。芍姐の方が急にいなくなったんじゃないですか。それにやっと見つけたと思ったら、桜の幹にもたれて倒れてるんだもの。何か変な病気にでも罹ったんじゃないかって、心配で……」

「ああ御免よ。とりあえずあたいはこの通り、ぴんぴんしてるから安心しな。ところで希井斗」

「はい?」

「さっきから妙に口ン中が甘くてさ、一体どうしちまったんだろ」

「それは食いしん坊の芍姐ならもしかしたら起きるかもって、お土産の桜餅をイダダダ!」


 哀れ希井斗の頬っぺたは桜餅、もとい餅のように長く引き伸ばされた。さて折檻の鬼シャクはというと、食べ物を粗末にするな、土産物おもたせに手をつけるとはどういう了見かと喚いているが、本音は桜と餅とが美男に化けたことへの腹いせといったところであろう。


「もぅ、痛いじゃないですか」

「うるさいよ。まったく、勝手に風呂敷広げてくれちゃって……」


 地べたには結びを解かれた風呂敷と菓子折と、その横には覚えのある畳紙たとうとが。ああ先刻さっき貰った人形か、と芍はまだぼんやりとする頭で素通りしそうになって、遅れて目をみはる。


「えっ、何であの畳紙がここに。てか、いおりはどこに消えた」

「そういえば姐さん、行きはそんな包持ってませんでしたよね。何なんですか、それ」

「希井斗、笑わないで聞いとくれよ――」


 芍は希井斗とはぐれてすぐに山が霧に覆われたこと、抜けた先に人形師の庵があって、包はそこで貰ったのだということ、その後意識を失い目覚めてみると、あったはずの庵が消えていたということを、順序立てて語り聞かせた。希井斗は笑いこそしなかったものの困惑顔で、半信半疑といったところか。


「姐さんを疑うわけじゃないけど、僕にはとても信じられません。庵が突然現れて、そして突然消えるだなんて」

「あたいだって信じたかないよ。けど現に包はここにあるから驚いてんのさ」

「姐さんが覚えてないだけで、庵からここまで歩いてきたんじゃないですか」

「そんなはずはないと思うんだけどねぇ……」


 と、そこに山道を下ってくる足音の。見れば網笠を目深に被った墨染の直綴じきとつ姿、杖突き歩く様はいかにも行中の僧といったなりであるが、芍はこの山中に修行寺があるとは聞いたことがない。とはいえ山の地理には通じていよう、これ幸いと芍は僧を呼び止めた。


「おぅい、そこの坊さん」

「……そなたが呼んだのは、拙僧か」

「坊主はアンタしかいないだろうよ」


 姐さん、失礼ですよと希井斗が注意するのもお構いなしに、芍は僧の方へとずかずかと歩み寄る。僧は笠を取るはおろか顔を見せる気すらないらしい。お高く留まりやがって、と芍は内心で舌打ちしつつ、


「この山ン中に人形師の爺さんが住んでる庵があるって聞いたんだけど、アンタどこにあるか知らないかい」


と不躾に問うた。すると僧は杖持たぬ手を握り顎に当て、しばし黙考の構えと出た辺り、これは当てが外れたかと芍は気を落としかけたところに、


「知っておる――」


こたえがあった。けれども意は単純なのに反して言い淀む節があり、続く科白せりふがその由を明らかにした。


「――が、そなたの期待に沿うことはできそうにない」

「あんだって。まさか教えないつもりかい」

「そうは言わん。だが知ってどうする」

「そりゃぁ、ちょいと挨拶にだね」

「なら行くだけ無駄というもの。その庵なら、随分と前になくなっておるからな」


 芍と希井斗、二人して顔を見合わせる。希井斗の説は否定され、だからといって芍は素直に自分が正しかったと喜ぶことはできかねた――まさか本当に幻を見せられたのか、或いは怨念か。目の前に坊主がいるせいか、こんな荒唐無稽な想像さえいやに信憑性を帯びてくる――ぶるりと背筋を震わせた芍は、おそるおそる僧に、


「なくなったってこたぁ、そこに住んでた爺さんも……」


と濁して訊ねたが。この僧、面白き冗談だといわんばかりに呵々大笑の花咲かせ、一方の芍は口を窄ませる。


「あたいは笑わせるつもりで言ったんじゃないんだけどね」

「いやなに、拙僧とて無常の理を説く者の端くれではあるがな。しかしあの御仁ほど死という言葉と縁の遠い者も、そうはおるまいと思うたのよ」

「その口ぶりからすると、アンタ爺さんと知り合いかい」

「知り合い、というほどではないが。むしろこの都では知らぬ者の方が稀であろう――禰古方寅エ門ねこがたとらえもんといえば、いまや列島全土に響き渡る名であるからな」


 おいその名は、と言ったきり、芍は二の句を継げずにいた。というのもこの禰古方寅エ門なる老人形師、芍とも希井斗とも関わりの深い人物だったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る