人形庵と美丈夫

 霧を抜けると雪であった。ちらちらと舞うそれらは冬を知らず、代わりに春の訪れを慶びあっていた。シャクは思わず笠を脱ぎ、しばしのあいだ陶然とうぜんと――。

 ヒタリ、と鼻に留まった一片ひとひら悪戯いたずらの精、ぼんやりと立ち尽くす女を揶揄からかったとみえて、芍はたまらずくしゃみを一つ。桜の精らは散り散りに逃げて、薄羽うすばの色めいた微かな香りを残した。いけね、と独り言ちた芍は笠を被り直すもそこそこに、迷子の希井斗きゐとを探すべく先を急ごうとしたところ。背後より、


「もし、そこのお方」


と、凛とした声に呼び止められてぎょっとしつ、蹈鞴たたらを踏んだ。

 確かに声はかたより、ならば自分の後を追ってきた者がいるということになる――何者か、と芍は怪しみながら声のした方へと向き直ると、


「ああ、御免なさい。驚かせてしまいましたか」


とまたも涼やかな、けれども春陽の温みに和らいだ声の主と対面させられて、再び言葉を失った。

 その男は、桜を従えて立っていた。歳の頃はまだ二十そこそこと思われる、総髪の、ふとしい眉に意気地が冴える、紺の着流し姿も余裕に満ちたるゆうの、周りだけ花弁はなびらが取り巻くように泳いであって、あたかも御簾みすの向こうにいるかの風情。召し物は平服ながら、貴い人とはおそらくこういうなりかしらんと、芍はとりとめもなく物思う。それもつかの間で、


「あの。こちらのいおりに御用の方、ですよね」


と、男が怪訝けげんげに問うたように、彼の背後には茅葺かやぶきの草庵があったのだ。

 驚いたどころの騒ぎではない――その庵の建つ場所は、いま自分が通ってきた道の上ではないか。よしんばそれが勘違いだったとしても、霧中とはいえ建屋があれば目に留まったはずである。ならばこの庵はたったいま湧いて出たということか、一体どんな手品を使ったのか――芍はぐっと目を細め、この侘屋わびやの外観を上から下まで見渡したものの、それで種が割れるほど易しくはないらしい。代わりに目についたのは戸口脇に置かれた小さな木看板、表の墨字は擦れているが何々人形工房とあるのは読み取れて、そこでようやく芍はお遣いのことを思い出した。


「えっと、ここの爺様に会いにきたんだけど」

「あいにくといまは留守でして。人形のご注文でしょうか」

「注文というか、受取にだね。鴻鳥こうのとり、っていったらわかるかい」

「ああ、鴻鳥様でしたか」


 芍が雇主あるじの姓を出すと男は納得したようで、しばしお待ちを、と残して庵の奥へと引っ込んだ。待つ間に芍がふと男について思うたことは、工房ここの勝手を知っているようだが、手代てだいとも番頭とも思われない。人を雇うような大店おおだなでないのは明らかで、また老爺ろうやは独り身だと聞いている。何より男の佇まいが只の奉公人にしては気高に過ぎて、口振りもの庵と、まるで他人行儀ではなかったか――。

 ややあって男は帯入れほどの小ぶりな畳紙たとうを携え戻り、どうぞと芍に差し出した。促されるままに芍は受け取って、瞬間。手渡す男の両の手に、念を押すかの力が籠ったのを感じ取り、ハッと覚めたような目を男に向ける。


「大事になさってくださいね」


と告げた男の顔にはすでに算盤そろばん弾く者にありがちな、計算くの笑みが縫い付けてあったけれども、裏地には、愛しき子を託すような真剣さが隠れたとみえて――子といえば。


「そうだ。アンタ、この山ン中で子どもを見かけなかったかい」

「子ども、ですか。見ていないと思いますが」

「本当に見てないかい」

「ええ」

「あたいの連れなんだ、頼むからよく思い出しとくれ。頭はうないで、水玉柄の袢纏はんてんを着た子さ。色ははなだだよ、背丈はあたいの胸下くらいで、綺麗な目をした子だから、見たら絶対忘れないはず――」


 男に詰め寄り捲し立てる芍の口に、ピタリと、人差し指が当てられて。音が消える、魔術のように。


「安心なされ。お連れの方とは、今に会えましょう。いまに」


 そんな、何の根拠もないはずの、いまに、の響きが芍には何故か頼もしく思われて、張り詰めた糸の緩むように足から崩れかけた、ところを抱きとめた男が背中を擦りながら、


「さぁ、今日はもう帰られよ。慣れない山行やまゆきは思ったより堪えるもの。ゆっくりと休みなさい」


とあやすように。頷いてよいものかどうか、芍が上目にのぞいた男の顔は、先刻さっきまでの繕った笑みとは程遠い、慈母のような頼もしさに満ちた。身を委ねたさに抗って、


「だけど、あたいが見つけてやんなくちゃ、あの子は……」


と声を絞り出した芍に、男は何と言ったであろう。


「その気持ちだけで十分。シャク、貴女にあえてよかった」

「え――」


 なんであたいの名を、の疑念がこぼれる前に、再び芍の口を塞いだのは男の指でなく、もっと柔らかな。不意を打たれて芍は悶えることもできず、ただされるがままに、湯の湧く泉の上を揺蕩たゆたい、溺れ、溶け合うような心地よさへといざなわれ、眠るように目を閉じる――なんと温かで、甘やかな、いやそれにしても甘い――途絶えそうな意識の端で芍が味わったのは、甘味と僅かな塩味えんみ、そして仄かに春の香る、桜餅のような――桜餅?


「――姐さん――芍姐さんってば!」

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