人形庵と美丈夫
霧を抜けると雪であった。ちらちらと舞うそれらは冬を知らず、代わりに春の訪れを慶びあっていた。
ヒタリ、と鼻に留まった
「もし、そこのお方」
と、凛とした声に呼び止められてぎょっとしつ、
確かに声は
「ああ、御免なさい。驚かせてしまいましたか」
とまたも涼やかな、けれども春陽の温みに和らいだ声の主と対面させられて、再び言葉を失った。
その男は、桜を従えて立っていた。歳の頃はまだ二十そこそこと思われる、総髪の、
「あの。こちらの
と、男が
驚いたどころの騒ぎではない――その庵の建つ場所は、いま自分が通ってきた道の上ではないか。よしんばそれが勘違いだったとしても、霧中とはいえ建屋があれば目に留まったはずである。ならばこの庵はたったいま湧いて出たということか、一体どんな手品を使ったのか――芍はぐっと目を細め、この
「えっと、ここの爺様に会いにきたんだけど」
「あいにくといまは留守でして。人形のご注文でしょうか」
「注文というか、受取にだね。
「ああ、鴻鳥様でしたか」
芍が
ややあって男は帯入れほどの小ぶりな
「大事になさってくださいね」
と告げた男の顔にはすでに
「そうだ。アンタ、この山ン中で子どもを見かけなかったかい」
「子ども、ですか。見ていないと思いますが」
「本当に見てないかい」
「ええ」
「あたいの連れなんだ、頼むからよく思い出しとくれ。頭は
男に詰め寄り捲し立てる芍の口に、ピタリと、人差し指が当てられて。音が消える、魔術のように。
「安心なされ。お連れの方とは、今に会えましょう。いまに」
そんな、何の根拠もないはずの、いまに、の響きが芍には何故か頼もしく思われて、張り詰めた糸の緩むように足から崩れかけた、ところを抱きとめた男が背中を擦りながら、
「さぁ、今日はもう帰られよ。慣れない
とあやすように。頷いてよいものかどうか、芍が上目にのぞいた男の顔は、
「だけど、あたいが見つけてやんなくちゃ、あの子は……」
と声を絞り出した芍に、男は何と言ったであろう。
「その気持ちだけで十分。シャク、貴女にあえてよかった」
「え――」
なんであたいの名を、の疑念がこぼれる前に、再び芍の口を塞いだのは男の指でなく、もっと柔らかな。不意を打たれて芍は悶えることもできず、ただされるがままに、湯の湧く泉の上を
「――姐さん――芍姐さんってば!」
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