護翼抄異伝

律角夢双

遊山中の怪

 遠く霧の深山を眺める人の心には、一体何が棲むであろうか。ある者はその威容が示す歴史ときの重みに背筋を伸ばし、またある者はその悠遠なるに父母を仰いで涙しよう。中には霞がかれる奥ゆかしさに、眠れる詩情、絵心を呼び覚まされる者もあるかもしれない。

 けれども努々ゆめゆめ忘れることなかれ。かように鷹揚おうような感慨に浸ることを許されるのは、ひとえに山の外に安住する身であるからだということを。ひとたび山中に投げ出されたが最後、人を撥ねつける肌の巌、道とも呼べぬ荒れた土、無慈悲な山の本性をまざまざと見せつけられて、なのにいくら仰げど頂を知ることは叶わない。それはこちらを睥睨へいげいする岩の巨人と相対するようなもので、高いか、低いかの差異は何の慰めにもなりはしない。なおかつ霧のまやかしの只中ただなかで、しかも――女の一人行きと来た日には。


希井斗きゐと! いるなら返事をしなよ、きいと!」


 立ち籠めるもやを払うようにして、呼び声の主は現れた。三度笠に藍紬あいつむぎ、肩より斜に掛けた風呂敷包の唐草模様、如何にも山越えを期する旅人然とした出で立ちの、足元に目をやれば。脚絆きゃはんに護られた足の先はすらりと細く、比して当世の男共がたじろぐほどに背が高い。それにもまして目立つのは笠の下、垂衣たれぎぬの如く覆った靄の向こうにほの見える、頬の艶、飴色の。

 女は名をシャクという。由来は芍薬か石楠花シャクナゲかと問われれば、さにあらず。肌の色が示す通り、芍はこの邦の生まれではない。この名も雇主あるじが与えたものに過ぎず、本当の名は別にある。


「……ったく。どこ行っちまったんだい、あの子は」


 伝法な口調とは裏腹に、芍の声音には焦りが滲む。視線はあちこちへ飛び、草履の音もざわざわと忙しない。最前より名を呼ぶ希井斗というのは彼女の弟分、いやそれ以上の、吾が子も同然に目をかける少年で、こんなことになるなら連れてくるのじゃなかったと、芍は人知れずほぞを噛む。

 芍が山を訪れたのは、雇主に頼まれてのことであった。いわく、このしずかな山に隠棲を決め込む人形師の老爺ろうやがいるのだが、半年ほど前に注文した品に関してまったく音沙汰がない。ついては彼の安否を確かめてこい、よければ進捗のほども云々うんぬんと、そういって菓子折をことづかったのが一昨日のこと。それだけなら一人で出かけもしたろうが、この雇主、別段急ぎではない、何かのついでで構わないと余計な一言を添えたものだから、では山桜の花見でもと芍もその気になって、一人よりも二人、希井斗を連れて四月初旬の今朝早くから、まだ薄寒さの残る山へと繰り出した。

 芍とて山を侮っていたわけではない。しかしいざ山の胎内なかへと足を踏み入れてみると、地にはふきとうが顔ほころばせ、つられて笑むと前よりカサリ、音した先には兎が駆ける、茂みから茂みへと、後追う頭上に続いて唄う声、見上げれば、メジロが頻りに睦言むつごとを囁いている、その相手。

 初々しき白で身を包む、目尻に薄く紅が差して、はらはらと、舞い落ちる花弁はなびらの中に、仄かに香る化粧おしろいも上品な御新造。その横顔を、つんつんと、れるように啄む実も泣きぼくろ。春の寿ことほぎを一身に浴びる山桜のお披露目の席からは、お遣いという邪魔者はすぐさま蹴り出され、芍は蜜に酔う蝶よろしくふらふらと道草を食い出した。

 ほら希井斗、見てごらん。山桜が満開だ。きっとあたいらが来るのを待っていたに違いないよ――すっかり夢心地の芍が、ふと振り向いたときはすでに遅く。背後を離れず付いてきていたはずの希井斗の姿はどこにも見当たらない。時を同じくして霧が追討の狼煙のろしとばかりに辺りを覆い始め、いよいよ只事ただごとではないと芍は緩んだたがを締め直しはしたものの、視界はぼやけ、自分がどこにいるかも判然はっきりとしない。とはいえ少年の足でそう遠くまで行ったとは思われず、また一人勝手に山を下りるということもないだろう。ならばひとまずは頂を目指すべしと、芍は再び山を登り出した。

 それから小一時間ほど歩き続け、今に至る。だが依然として希井斗からの応えはなく、芍も変わらず雲霞うんかの囲いの中にいる。それどころか霧はますます濃密になり、いまや行く手を遮る樹はないか、足元に躓きの石塊いしくれはないか、恐るおそる、一歩毎に立ち止まらねば進めないほどとなっていた。

 ここは一旦下山して、捜索を頼んだ方がいいだろうか――莫迦な、と芍はかぶりを振る。のこのこと下りていって笑い者で済めばまだいい方で、却って足を取られて負傷の恐れすらある。何よりもその間、あの子にもしものことがあったなら――きっまなじりを上げ、弱りかけた心にを入れた、まさにその時。


――ん――――


 耳を掠めた音は遠く、どこか木霊の残響のような。あえかに過ぎて声かどうかも判らないほどであったけれども、芍にはそれが、心細さに震える希井斗の声かと思わずにはいられなかった。一度そう聴こえたら、


――さん――――さん。


と、続いて届いたのはより鮮明に声をかたどって。芍の脳裡のうりには、姐さん、姐さんとむせび泣く、少年の赤らんだ頬まで映し出されて。

 足は地を蹴っていた。阻めるものなら阻め、かせるものなら転かしてみろ。芍は消え入りそうな言霊ことだまのみを糸筋に、山を覆いつくす霧の懐へと挑みかかる。その迫力に気圧けおされたのか、魔と凝していた靄が次第に芍へと道を譲り出し、一段、また一段と、あやふやであった前途が拓けるにつれてあうらの力も増していき。ついには四散、煙の術は跡形もなく破られた――その先に。待ち受けていた景観が、芍から両目を奪い取った。

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護翼抄異伝 律角夢双 @wasurejizo

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