七巻と本棚

真花

七巻と本棚

 何度か話したことがある。遠くから見詰めることがある。それだけなのに、高市たかいちが胸の中に甘く巣食って僕を離さない。

 六限目が終わった教室は糸を切ったようにふやけて、急ぎ部活に行く者と喋り出す者に分離する。僕は部活のない日だったから、ゆっくりと帰る準備をしていた。隣の岩井いわいも同じペースだった。

北原きたはらって、どんな漫画読むの?」

 岩井は興味があるのか、雑談のための雑談なのか判じ難いトーンで、手を止めずに問うから、僕も同じくらいのトーンで答える。

「ジャンプは毎週読んでるよ」

 岩井は、ふぅん、と鳴らす。

「俺はマガジン派。これは抗争になるか、面白いものを交換するかだな」

 僕から肯定とも否定とも取れる笑いが漏れた。自分で笑っておいて、その曖昧さをすぐにどっちかに固定したくて急いで口を開く。

「交換しよう、いい漫画」

 思っていた以上に大きな声になって、教室の中を跳ね回った。残っていたクラスメイトの全部の耳が僕の声を吸着した。みんな僕を見ないが意識はこっちに向いている。だが、少しやり過ごせば解けるだろう。僕は次の一言のために、ジャンプのお勧め漫画を決めようと頭を巡らせる。

「北原君、漫画好きなの?」

 振り向けば高市がすぐ近くで目を輝かせている。僕はレンジで温めたばかりの湯豆腐になる。口から湯気が出そうなのをぐっと気を入れて言葉にする。

「好きだよ」

 言っていて、意味は正しいのに心臓が跳ねた。僕は冷静を自らに求め、漫画のことだけを喋っている自分に調整しようとする。

「私も読むよ。今一番アツいのは『靴紐とズッキーニ』で、もうすぐ新刊が出るんだ。超楽しみ」

 高市は星空そのものだった。いくつかの流星が僕の胸に飛び込んだ。

「僕も読んでみようかな」

 後ろから高市を呼ぶ声がした。

「あ、行かなきゃ。じゃあね」

 くるりと風になって高市は行ってしまった。教室のノイズがさっきよりも小さくなっている。一番小さくなったのが僕のところだ。もうここにいる意味はない。岩井が小さな声で、分かりやすっ、と言うから、僕は、そんなんじゃない、と同じだけ小さな声で返した。僕達はもうお勧めの漫画のことは忘れていた。それぞれに準備をして、じゃあ、と言って帰った。


 学校から出るまでの間に再び高市に会うことはなかった。僕は通学路を抜けて電車に乗る。その間ずっと、高市のことを考えていた。「靴紐とズッキーニ」のことも少し考えた。

 降車して歩くと、書店がある。いつもの書店だ。

――もしかしたら「靴紐とズッキーニ」があるかも知れない。一巻を買って読んでみてもそんな気持ち悪い行為じゃないよな。

 僕は書店に入り、本棚をスキャンしていく。……あった。僕の視線はハードにロックされた。ポップに「靴紐とズッキーニ、本日最新七巻発売!」と書いてある。

――高市さんはこのことを言っていた。この本を欲しがっている。……買ってプレゼントしたら喜ぶ。絶対。

 計画は一瞬で立ったが、僕は七巻を手に取ることが出来ない。

――だけどもし、嫌がられたら。……気持ち悪いって言われたら。

 僕は七巻の前に立ち竦む。

――でもきっと喜ぶ。あんなにキラキラしていたんだから。

――僕がどう思っているかバレるんじゃないか。いや、これはただの友情、同じ漫画好きの行為であって、そう言うのじゃない。そもそもそう言うのじゃないから。

――だから嫌がられたら嫌だってのだけがネックだ。

 僕の頭の中はそれ以後同じことをぐるぐるぐるぐると考える。センサーの壊れた全自動掃除機になる。何も新しいものは回収出来ないし、エネルギーばかり消費する。三十分考え続けて、買うことに決めた。もし渡せなそうだったら渡さなければいい、と言う言い訳に辿り着いた。

 レジで、プレゼント用のラッピングをしてもらう。初めてのことで、ごつい手のおじさんによってされたのが残念だった。それでも、出来上がりはよく、カバンに丁寧にしまう。

 僕は大きなことを達成した気分で、気を付けなければスキップしてしまいそうだった。普通の人間をちゃんとやらなくてはならない。

 家に帰り、自分の部屋で机に就いてプレゼントを抱えてみる。胸の底からニンマリが顔に迫り上がって、クー! と奇声を発して首を振る。明日のことを思うと鼓動が早駆けになって、僕の心の裏側をせっつく。間違っても家族に見られてはいけないから、再び丁重にカバンにしまう。

 母親に、何かいいことあったの? と夕食のときに訊かれた。漫画友達が出来たと半分嘘を言った。


 朝を今日ほど待ち侘びたことはなかった。家族へのカモフラージュと早く行っても意味がないことから、いつもの時間に家を出た。心臓がずっと本気のスピードのままで、何度も深呼吸をした。時間が細かく刻まれて、もっと刻まれて、まるで動かないみたいに感じた。それでも、学校に着いた。何度も何度もカバンの中の七巻をプレゼントを感じて、それはもう僕の分身で、むしろ本体で、僕はそれを運ぶだけの機能であって、喜んでくれるといいな。気持ち悪がられなければいいな。どっちかな。いや、きっと喜んでくれる。だって、欲しがっていたものそのものだから。

 教室に着くと高市は席に座っていて、周囲には誰もいなかった。こんなチャンス。

 僕は心臓が焼き切れることを覚悟して、全身に散らばる勇気の種を胸に集めて、入室したそのままの足で高市の元へ行った。

「おはよう」

 高市は僕が声を、初めて、かけたことに何の感慨もないような顔をする。

「おはよー」

 僕は息をグッと吸って、肩にかけたカバンの中の七巻の存在を感じて、あのさ、と始める。

「昨日言ってた『靴紐とズッキーニ』なんだけど……」

 高市は目をくわっと開いて、口角をキュッと上げる。

「昨日、新刊出てたの! もちろん読んだよ。最高だった」

 僕の全てが張り付けになる。

「そうなんだ」

 高市は僕の異変に気が付かない。

「是非読んでみてよ」

 僕は錆びたロボットになって頷く。

「そうしてみるよ。……それだけ。またね」

 高市は何も気に留めない。爽やかな風のように頷く。

「うん。またね」

 僕は自分の席に行く間、カバンが鉛になって肩に食い込むのに耐えなければならなかった。僕は席に就いたら、思い切り突っ伏した。結実としての七巻をどうしろと言うのだ。それでも一日は始まって、終わる。カバンは重いまま、家に着いて部屋に入った。

 僕はカバンから七巻を出して、持ってみて、見詰めてみて、息が漏れて、包装のまま本棚の見えにくいところに並べた。


 それからずっと、七巻は包装されたまま、僕は開けることも捨てることも出来ない。


(了)

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