人間として

瓜生聖(noisy)

人間として

○月○日


 僕は動物の肉なんて食べない。


 そう心に誓ったのは二十代半ばくらいだっただろうか。動物が動物を食べる、それは自然の摂理だ。でも、人間が動物を食べるのは違う。人間の乱獲によって絶滅した動物は数え切れない。ノブリス・オブリージュ――知性を与えられた人間は、他の動物を保護する責任や義務があるはずだ。


 それなのに、自分が生きるために他の動物の命を奪う、そんな野蛮な行動がまかり通っている現代社会をどうしておかしいと思わないのか。知性を動物への蹂躙に使うなぞ、許されるはずがないじゃないか。


 僕がそう言うと彼女は深く頷いた。


「驚いたわ。あたしと同じ考えを持っている人がいるなんて思わなかった」

「ほんとかい? だったら僕もうれしいよ」

「――ねえ、よかったら、また会えないかしら」

「もちろんさ。君とはいくら時間があっても足りなさそうだ」


 ヴィーガン・カフェで知り合った彼女に、僕は運命を感じていた。


○月○日


「いらっしゃい」

「お世話になります」


 彼女は冗談めかしたように頭を下げると、「へへ」っと照れたように笑った。彼女の荷物は大きなスーツケース一つだけだった。


「この部屋を使って」


 僕が南側の部屋のドアを開けると、彼女は驚いたように訊いた。


「え、こんな日当たりのいい部屋もらっちゃっていいの?」

「もちろん。半年前くらいまで前の同居人が使ってた部屋だけど、掃除は綺麗にしておいたから」

「同居人って……女の人?」

「まさか、男だよ」


 彼女はぽつりと「よかった」と言った。


「あの、あたし他の人と一緒に住むのって初めてで……もし、嫌じゃなかったら教えてほしいんだけど、その、前の人はどうして……」

「ああ、僕が我慢できなくなったんだ」


 彼女の顔に不安がよぎるのを見て、僕は慌てて付け足した。


肉食者カーニストだったから仕方ないよ。文句言える筋合いじゃない」


 彼女はほっとしたように微笑んだ。


○月○日


 美容師をやっている彼女は毎朝決まった時間に出ていく。おかげでリモートワークで崩れがちだった僕の生活も少しだけ規則正しくなった。そして、彼女が帰ってくるまでに僕はお風呂を沸かし、腕によりをかけた夕飯を用意する。


「おいしい! こんなにおいしい料理食べたことない!」


 彼女はいつも僕の料理を最大限の賛辞でほめてくれる。僕も嬉しくて、明日はもっと喜ばせるぞ、と心に誓った。


○月○日


 最近、彼女が食事のときに浮かない顔をするようになった。


「どうしたの? おいしくない?」

「ううん、おいしいよ。おいしいけど……」

「けど?」

「……なんでもない」


 どうしたんだろう。気がかりだ。


○月○日


 彼女から「晩ご飯はいらない」とLINEが来た。ヴィーガンの彼女が外で食べることはほとんどないはず。なにかあったのかもしれない。


○月○日


 彼女がうちで一切食事を摂らなくなってからもう2週間が経つ。話しかけても必要最小限の返事しか返ってこない。


 思い切って彼女の部屋のドアをノックした。


「なに?」

「どうしたの、最近。なにか僕に腹を立ててるの?」

「……」


 彼女は少し考えてから言った。


「あなたが作ってた料理、肉入ってたでしょ」

「えっと、大豆ミートは肉に入る?」

「誤魔化さないで。ビーフかポークか、チキンかわからないけど、ともかく肉よ」

「どうしてそう思うの?」

「おいしすぎ……いや、味が違いすぎるのよ。外で食べるヴィーガン料理とは」


 僕は肩をすくめた。美味しすぎて疑われるなんて、冗談みたいな話だ。


○月○日


 夜中になにやらごそごそと音がするのでキッチンを覗いてみると、彼女が台所に立っていた。


「どうしたの? おなかすいた? 何か作ろうか」


 彼女は首を横に振ると、何も言わずにまな板を差し出した。まな板の上には黒いシールが貼られていた。


「なにこれ?」

「ユカシミール、油漏れ点検に使うシールよ。元々は白なんだけど、ほら、肉の油脂分に反応して黒く変色してる。このまな板で肉を切った証拠よ」

「大豆ミートにも油脂分は含まれているよ。そんなの証拠にならない」

「肉じゃないとも言えないわ」


 そりゃそうだ。


○月○日


 買い物から帰ってきた僕は、ちょうど出かけようとしていた彼女と玄関で出くわした。傍らには大きなスーツケース、彼女がここに引っ越してきたときに持っていたものだ。


「どこか行くの?」

「もうあなたとは一緒に暮らせない。証拠を見つけたのよ」

「証拠?」

「あなたが自分の部屋に隠している肉を見つけたの」

「僕の留守中に部屋に入ったの?」


 彼女は質問には答えず、履きかけていた靴を脱ぐと僕の部屋に飛び込んだ。戸棚の冷凍庫を開けると、僕の目の前に一塊を突き出した。


「これよ!」


 僕は目を丸くした。


「もしかして、君はこれが動物の肉だって言ってるの?」

「そんなので騙されると思った? 湯戻しした大豆ミートを冷凍している、とか言いたいわけ?」

「そんなことは言わないよ。見たままだよ」


 でも、彼女の目には違うものに見えているのかもしれない。


 考えてみれば、彼女は少しずつおかしくなっていたように思う。ちょっとした誤解が疑念に、そして猜疑心へと次第にエスカレートしていったのだろう。


「あたし、嘘つく人も肉を食べる人も許せないの」


 彼女は話はこれで終わり、とばかりに背を向けた。


「待って。その、これだけは信じてほしい。僕は動物の肉なんて食べない」

「言ってればいいわ。あたしは信じない。さよなら」

「……さよなら」


 潮時だった。


○月○日


 やっと片付いた。彼女のいなくなった部屋はがらんとして、物寂しくてたまらない。


 彼女はどうして信じてくれなかったんだろう。


 生きるために他の動物を殺す、そんなことが許されるわけがない。僕はずっとそう思っている。一度だってその信念が揺らいだことはない。


「また、同居人を探さなきゃな」


 僕は冷凍肉でいっぱいになった冷凍庫の扉を閉じながらため息をついた。


 僕はの肉なんて食べない。

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