第6話 清少納言と春夏

「懐仁…良かった…!」

 御簾の中からまだ若い女性の声が聞こえてくる。御簾の中に入ると、梅襲の五衣に落ち着いた色合いの小袿姿の女性が床に伏せっている少年に御簾越しで寄り添っていた。

 女性は髪の毛を肩辺りで切りそろえている。おそらくこの女性は出家した身なのだろう。


 少年の傍らには緑色の束帯に、冠を被った老爺が居た。春夏は直ぐにその老爺の正体が分かった。

(安倍晴明だ…)


 懐仁と言えばあの有名な一条天皇。今は定子である春夏の夫だ。

 春夏は御簾越しに眠る夫を見つめた。年は10代半ば程で春夏より少し年下だろうか。

 まだあどけなさの残った顔は目鼻立ちが整っていた。


 病に倒れた一条天皇を安倍晴明が祈祷して見事に治癒したというのだ。

 それから数日後、彼はその褒美として正五位上の位を与えられたのだと聞いた。

 鮮やかな赤の束帯と冠を身に付けた彼は、貴族としての威厳に満ちていた。


「会えなくて辛かったよ、定子。」

 下直衣姿の懐仁が優しい微笑みを浮かべて春夏の元へとやって来た。

 父である道隆は気を使ってか、春夏達の傍を離れ、他の公卿や殿上人達と酒宴を開いている。


 母である貴子は賢くて頼りになるし、父である道隆は冗談好きな性格で話していて堅苦しさを感じない。

 最近仕えてきた清少納言も可愛らしい人だし、夫である一条天皇は温厚な性格で接しやすい。


(平安時代での生活も悪くないかもしれない…)

 そう心から感じた瞬間に春夏の心から何かが消え去ったような気がした。

 それが一体何かはいくら思い出そうとしても思い出せなかった。

 すると、兄である藤原伊周が春夏の元を尋ねてきた。

 彼は、優美な直衣を上品に着こなしており、周囲の女房はその姿に見とれている。

「定子、新参者の女房とは上手くやっておられるか?」

 伊周に質問された春夏の視線は御簾の隅から覗いている十二単の裾へと向けられる。

 今日は無理を言って清少納言に早く出仕するように言っていた。

 ちゃんと約束を守ってくれた事を嬉しく思う一方で相変わらず御簾の隅に隠れて何も言わない清少納言をどうすれば良いのか分からない。


「おや、その者が新参者の女房か?」

 伊周はいたずらっ子のような笑みを浮かべると御簾へと近付く。

 そこには桜襲の五衣に無紋の橙色の唐衣に波模様が描かれた裳を身に付けた女性が恥ずかしそうな様子で座っていた。

 気配に気付いた清少納言は慌てて扇で顔を隠したが、伊周は彼女の手から扇を奪ってしまった。

 慌てて彼女は十二単の袖で顔を隠す。

「お辞めなさいな。少納言が困っているじゃない。」

 春夏が伊周を咎める。清少納言はますます恥ずかしがって縮こまっているようだ。


「少納言、いつも御簾の隅に隠れていないで私と一緒にまた絵でも見ましょうよ。」

 春夏は今度は大和物語の絵巻物を手に取って広げた。

「三人で絵巻物でも見ようではないか。」

 伊周も清少納言を誘っている。流石の彼女も観念したのか御簾の隅から膝歩きで此方へとやって来る。

 目の前に居るのは美しく高貴な姫君と弱冠二十歳にして大納言へと登り詰めた高貴な貴公子。

 中流貴族出身の清少納言にとってはあまりにも眩しすぎた。

(こんな私に対して何故…あまりにも恐れ多すぎる。)


「真に美しい絵だな。」

 一条天皇がそう言って春夏の隣に腰を下ろした。

「何やら楽しそうなことをやっているではないか。」

 道隆がいたずらっ子のような笑みを浮かべながら春夏の近くに腰を下ろす。

 しかし、当の清少納言は更に顔を赤くして俯いたきり何も話さない。何も言わない清少納言に道隆が

「これはこれは。少納言殿はまた法服での参内か。」

 桜襲ねの五衣に赤の唐衣ばかりを好んで着ている清少納言をからかう。彼女はまた顔を赤くして俯いてしまった。


(みんな私なんかに気を遣って仲良くしようとしてくださるのに…。

 何も答えることができない自分自身が憎らしい…。)

 清少納言は心の中で自身の情けなさを嘆いた。普通だったら姿を拝見する事すら叶わないような高貴な方々が親しくしてくれている。

 それなのに縮こまってばかりの自分。彼女は宮仕えなんか性にあわないとすら思っていた。





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目が覚めたら平安時代で中宮様になっていました NAZUNA @2004NAZUNA

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