鬼神と天女の花の庭

 その日は、雲一つない快晴だった。

 まるで少年のような動きやすい上下の装束に剣を佩いた清々しい表情の翠媛は、軽い足取りで百花の宮へと戻って来た。

 あの宴での騒乱以降、もはや取り繕う必要もなくなったのだから、と翠媛は隠すことなく武術に勤しむようになっていた。

 飾ることのない翠媛に対して、やはり辺境の蛮人だったと言わんばかりに顔を顰める者達もいた。

 だが、中には自分も習ってみたい、と恥じらいつつも輝く瞳を向けてくる者達も現れ始めている。

 一緒に誰かと鍛錬に打ち込めるのも、興味を持ってもらえたのも嬉しくて、翠媛は彼女達と共に楽しい時間を過ごしている。

 心行くまで鍛錬することで、翠媛の裡にたまっていた鬱屈は綺麗に消えていた。

 それと同時に、思わぬ良い効果もあったのだ。

 吹けば飛ぶのではという程か弱い女性達が、翠媛と共に鍛錬を行うようになってから、目に見えて健康になりつつあるらしいことを後宮付きの医師から聞いた。

 やはり適度な運動というのは身体に良いのだな、と思わずうなずく翠媛だった。

 劉景は後宮の外れに馬場も用意してやろうと言ってくれている。

 その内、自分の所有する馬の中から気性が良いものを選んで与えてやろうと言ってくれているので、楽しみでしかたない。

 けれど、と翠媛はふと振り返るように目を細めて思う。

 今でこそ元の平穏を取り戻しつつあるが、あの騒乱直後は大変な日々が続いた。

 暫くの間、騒動の調査や首謀者の処断に、劉景は忙しい日々を送っていた。

 首謀者たる鄒王は斬首となったが、それに連なる者達の処遇。関与していた者達の洗い出しと対処など。

 皇宮の執務室に詰めたまま百花の宮に戻ってこられないことも続き、翠媛は心配に眠れぬ夜を送りもした。

 鄒王は最終的には三流悪役の様相を呈していたが、あれでなかなか入念に下準備をしていたようで、全容を明らかにするのはかなり難儀したという。

 百花の宮に戻ってくれるようになった劉景は、大分面窶れしていたが。翠媛の顔を見ると心から嬉しそうに笑い、抱き締めてくれた。

 離れていた間に一人で眠る牀の寒さが堪えていた翠媛は、劉景の温もりに目を細めて、言葉なく彼の広い胸に頬を寄せた……。


 関係者の処遇の中で一番翠媛が気になって仕方なかったのは、無論のこと皇太后に関してだった。

 皇太后が皇位を匂わせて接触したことで鄒王がよからぬ野心を抱いたとして、咎がないとすることはできなかった。

 だが、劉景は溜息交じりに言った。


『あの男なら、母上が働きかけなくても。遅かれ早かれ、行動を起こしていただろう』


 それに関しては実は翠媛も同じ意見だったし、審議にあたったものたちも概ね頷いていたようだ。

 皇太后は鄒王に利用されただけとも言えるし、一時は命もあやうく被害者とも言える。

だが、責がないとはいえぬ。

 最終的にはそう結論付けられ、皇太后は離宮にて蟄居することとなったのだ。

 皇太后が離宮に出立する前、月光花を移す支度を手伝いに劉景は玄央宮を訪れた。

 侍女によると、人払いをした庭で二人水入らずで作業をしていたらしい。

 二人が何を話していたのかまでは聞かなかったが、その夜百花の宮に訪れた劉景はとても満ち足りた穏やかな表情をしていた。

 翠媛はただ、良かった、とだけ思った。

 しかし、良かった、だけではすまないことが一つある。

 あれは、皇太后が離宮に出立する直前のこと。

 すっかり退去する支度が済んでどこか閑散とした玄央宮に、皇太后は翠媛を密かに呼び出したのだ。

 長年の肩の荷が下りたと微笑んでいた皇太后だったが、ふとその表情が陰った。

そして、声を僅かに顰めると言ったのだ――まだ、終わっていないことがある、と。

 驚く翠媛に皇太后が告げたのは、を巧妙に動かした者がいる、恐らくそれは後宮に詳しい者かもしれない、ということだった。


『確かに、皇位については強い野心を示していました。ですが、あのような浅慮に走るほどではなかったのです』


 皇太后は、確かに次なる帝位を匂わせあの男に接触した。

 鄒王は野心を示しはしたものの、だからといってすぐさま皇帝を排除しようとはしていなかった。むしろ、慎重に皇太后の真意を探り、出方を伺おうとしていた。

 それなのに、あの日。彼は、ああまで思い切った行動に出た。


『最後の一押しが……。鄒王に事は為る、と思わせた何かが……何者かがあったのかもしれません。それに……』


 完全に皇太后の予想をしていなかった大胆な行動に出た裏には、何かがあったのではと皇太后は顔を曇らせた。

 その何かは、もしかしたら、と暫し言葉を濁していたが。やがて、躊躇いがちではあるが続きを口にした。


『後宮の事情に通じた何者かが、手引きした可能性があります』


 それに関しては、翠媛も引っかかっていたことだった。

 賊達は、皇宮の警備をくぐりぬけ後宮の中に様々な手段で入り込み潜んでいた。当日の警備の中にすら、紛れ込んでいた。

 後宮内に兵を潜ませることができたこと、守備の人員を入れ替えることができたこと、それらが内部に詳しいものの関与を示唆している。

 しかし、後宮への侵入経路や手段、関連した人間に関しては今もなお明らかに出来ていない。

 つまり、何処かにまだ潜んでいるのだ、鄒王の裏にいた何者かが。

 自分の手は動かさず証拠は残さず、けれど言葉巧みに事は為ると確信させて行動に移らせた者が。今もなお裁かれずに、ほくそ笑んでいる可能性があるのだ……。

 皇太后はそれを確かめたいと思っていた、けれど。


『ただ、もうわたくしにそれを確かめる術は残されていません。そなたに押し付けるようで心苦しいですが……』


 皇太后が離宮へ出立するのまでもう日がない。外に出てしまえば、もう戻ることは叶わないだろう。

 劉景に対して悪意を持ち潜むものがいても、もう暴くことは叶わない。

 それを引き継ぐことができるのは、翠媛しかいないのだ。

『私は、劉景を守ります。持てる全てを以て、悪意から守ってみせます』

 翠媛は、確かな意思を翠の瞳に込めて皇太后を見つめ、毅然とした面もちでそれだけを告げた。

 それを聞いた皇太后は目を軽く見張り。そして安堵したように頷き、微笑んで。

 もう思い残すことはないと言う様子で後日、静かに皇宮を後にした。

 最後に、どうか二人で幸せに、と残して……。


 不穏の影は消えないけれど、翠媛の周囲には平穏が戻りつつあった。

 かつてのように自分を偽ることもなく過ごせる日々は、心がとても晴れ晴れとしている。

 勿論、皇帝の偽りなき寵姫ということで、やっかみの眼差しを向けてくるものはいるし、小さな嫌がらせ自体は続いている。

 しかし、それすらも今は日々の一つとして、大らかに受け止められているのだ。

 だって、翠媛の隣には劉景がいてくれる。微笑みに、微笑みを返してくれる温かい人と手を取り合える。

 何時か全ての裏に潜む悪意と対峙する日はやってくるだろう。

 劉景を守る為ならば。この日々を守る為ならば。その時がきたとしても、けして負けないと心に誓える。

 胸に強く決意を抱きながら宮の居間へと足を踏み入れた翠媛は、喜娘の出迎えを受ける。

 だが、思わず怪訝な顔をしてしまった。

 いつもなら微笑みながら翠媛を労わり、落ち着いて休めるようにあれこれ采配してくれる喜娘が見てわかる程に狼狽えているのだ。

 落ち着きなくおろおろと周囲を見回していた喜娘は、翠媛の姿を見ると転びそうになりながら駆け寄ってくる。


「す、翠媛様! 大変でございます!」

「どうしたの? そんなに慌てて」


 まさか、また何か騒動でも起きたのかと思って、瞬時に翠媛の顔が緊張に強ばる。

 確かにまだ解決していない問題はあったが、こんなに早く相手は動いたのだろうか。

 そんな懸念を胸に息を飲んだ翠媛へと、喜娘は大きく深呼吸をして何とか己を落ち着けようとした。

 少しだけ息を整えた喜娘は、深刻な顔をして告げた。


「き、貴妃に封じられると!」

「そうなの? とうとう、淑妃様が?」

「いえ、違います!」


 意に反して聞いた内容が目出度い内容だったので、翠媛は安堵の息を吐きながら表情を明るくした。

 とうとう、いつも後宮を取り纏めるのに一生懸命だった高淑妃が貴妃になるのか、と思ったのだが、喜娘は激しく首を左右に振る。


「じゃあ、徳妃様?」

「違います!」


 淑妃でなければ、その次に出る候補としては楊徳妃である。

 あの冷静さが買われたのかと思い、それもまた一つの選択か、と裡に呟いていると。喜娘はまたも激しく首を振って否定を叫んだ。

 その二人を押しのける程の候補が他に浮かばなかった翠媛は、顔にありありと疑問を浮かべて首を傾げる。


「じゃあどなたが」

「翠媛様です」

「……は?」


 次なる候補を何とか思い浮かべようと唸りつつ思案していた翠媛は、目を丸くしたまま、間の抜けた声をあげてしまう。

 そして、そのまま凍り付いたように動きを止めた。

 今、喜娘は何と言ったのだろう。

 理解しきれず……否、理解したくなくて、強張った表情のまま喜娘に激しく問うような眼差しを向けてしまう。

 喜娘は、やや蒼褪めて見える緊迫した面もちで、厳かに駄目押しのように告げた。


「翠媛様を貴妃に封じる、と」

「何ですって!?」


 ――素晴らしい肺活量が遺憾なく発揮された叫び声が、百花の宮に響き渡った。



 数刻後。黄昏に空が暗みを帯びてきた頃合い。

 いつものように政務を終えた劉景は、宮に足を踏み入れて早々に翠媛に胸倉を掴み上げられた。


「ど・う・い・う・こ・と・な・の!」

「伝えたそのままだ。お前を貴妃にする」


 皇帝の胸倉を掴み揺さぶるという有り得ざる非礼を、とんでもない剣幕でしてのける翠媛を見て、侍女達は声なき悲鳴をあげている。

 喜娘が彼女達を宥めて人払いをしているのを横目に捉えながら、翠媛は劉景を問い詰め続ける。

 話を聞いた直後、何かの間違いだと思う話は、全くもって間違いではないことが明らかになってしまった。

 喜娘により驚愕の事実を聞かされた直後、勅書を手にした内侍宮が百花の宮に現れ、勅を読みあげたのだ。


 曰く、修儀・莉 翠媛を貴妃に封じる、と……。


 おめでとうございます、と侍女達が興奮したように叫ぶ中。

 人々が歓喜に沸き、祝福が満ちる中。それすら耳に入らぬ程に愕然としながら翠媛は心で叫んでいた――どういうことだと。

 そして、目の前に現われた勅を発した張本人である劉景をこうして問い詰めているのである。


「叶うならば皇后にと思ったが。……流石に止められた」

「当たり前でしょう!」


 居合わせた皆、良く止めた! と内心で翠媛は叫ぶ。

 九嬪の中の一人である翠媛が、確かな後ろ盾や血筋を誇る上位の妃達をさしおいて貴妃というだけでも有り得ざる事態なのに。

 更に飛びぬけて後宮の頂点であり国の母とも称される皇后に、となったら先日とは違う意味での大波乱が起きてしまう。

 いや、貴妃にというだけでも相当騒ぎになりそうだが。

 先日まで散々騒動に揺れた後宮に更なる騒ぎを起こすつもりなのか、と盛大に非難する眼差しで劉景を見つめてしまう。

 半眼ともいえる翠媛の目を真っ直ぐに受け止めながら、劉景は静かに口を開いた。


「俺は、お前を妻と呼びたいんだ」


 皇帝にとって正しく妻と言えるのは、厳密にいうと正妻たる皇后だけである。妃嬪達は結局のところあくまで側室、つまりは妾でしかないのだ。

 劉景が皇帝である以上、多くの妃を持つことは避けられない。ただ、彼にとって正妻と呼べる地位には翠媛を置きたい。

 その気持ちは、確かに嬉しい。翠媛だって、劉景の妻として在ることができるなら、とは思わないでもない。

 しかし、その為に要らない波乱を呼ぶのは心が苦しい。後宮の他の女性達の心を思ったなら、容易に肯定できない。


「私は、この宮に住めるだけで良いのに……」


 正直、自分はこの百花の宮を与えてもらっただけで十分だと思っている。

 劉景が手ずから丹精した花を見ていられるだけで。その隣に、彼がいてくれるだけで、それで良いのに。

 顔を曇らせて俯いていると、不意に頬に温かな感触を覚えた。

 目を瞬いて頬に手をやると、そこには劉景の大きな掌がある。

 自分の頬に添えられた手にそっと手を触れながら顔をあげた翠媛は、自分を見つめる優しい……けれど激しい熱のこもった瞳を見た。


「俺が、傍に居て欲しい。翠媛には、一番近いところに」


 飾ることなく告げられる言葉に、翠媛は思わず息を飲む。

 戸惑いの色を表情に滲ませて返す言葉を見つけられずにいる翠媛を、劉景は静かに抱き締めた。

 広くて頼もしい腕に捉われながら裡から湧き上がる想いを感じていると、耳に真摯な響きが触れる。


「愛している、翠媛」


 ずるい、と翠媛は心に呟いてしまう。

 そんな風に言われたら。この世で一番大切な人に、そんな風に真っ直ぐに。改めて想いを伝えられたら。

 嫌なんて言えるわけがない。拒んで、あくまで理を説いて諭せるはずがない。

 だって、翠媛だって。


「私だって貴方の傍に居たいと、思っている……。私も」


 あいしている、と伝えた言葉は彼に届いたのだろうか。

 懸念するべきことは数多ある。

 皇太后が警告した何者か。他の妃嬪達の動向。宮廷の勢力図。

 そして翠媛も劉景も、作り上げた姿を捨てた。天女も鬼神も、もういない。

 困難は付きまとうだろう。けれど、それでも。

 彼の願いを受け入れて起きるだろう、どのような波乱だって乗り越えて見せる。向かい来る悪意とて耐えてみせると思える。

 この人と共に居たい。それが翠媛の偽らざる心からの願いだから。

 劉景が自分を抱き締める腕に更に優しく力を込めたのを感じて。翠媛は幸せな想いに満たされながら頷き、瞳を閉じた……。

 


 寄り添う二人を見守るように、庭に咲く幻の花は輝いていた。

 月の光の下に揺れる白い花は、きっとこれからもこの庭で咲き誇るだろう。

 心と心を繋ぎ、人と人の絆を繋ぎ続けた花は、これからの二人を見守り続ける。

 これは、美しい花が咲き乱れ、優しい想いに満ち溢れた庭で紡がれた物語。

 優しき鬼神と呼ばれた皇帝と、破天荒な天女と呼ばれた妃。

 紹嘉という国の歴史において末永く名を語られた、二人の『人』の物語――。

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