母の涙
騒ぎは首謀者と賊の捕縛で一先ず終わりを迎えたものの、起きた波乱は収まり切らず。
劉景は休むことなく矢継ぎ早に指示を飛ばし、翠媛は怪我人の救護や動揺したままの妃嬪達の対応に奔走した。
兵士たちは皇帝の命のもと、何処か納得したような落ち着いた様子で事後処理にあたり。
妃嬪達は翠媛に対して、少しの憧憬が混じった不思議な眼差しを向けながら平静さを取り戻していく。
淑妃や徳妃達が我に返り対応に当たり始めてくれたので、一度その場を任せ、翠媛は劉景の元へ向かった。
陣頭指揮をとっていた劉景は、御苑から近い宮の一室にて休む皇太后の元を訪れていた。
翠媛が部屋に足を踏み入れると、血相を変えて劉景に縋る皇太后の姿があった。
「このような怪我を……。無茶をして……!」
「これぐらい、怪我のうちに入りません」
どうやら、劉景は立ち回りの最中に軽いとはいえ怪我を負っていたようだ。
後始末にかまけてそのままにしていたのを皇太后が気づいたのだろう。
呆然と事の成り行きを見つめる翠媛の前で、皇太后は倒れんばかりに蒼褪めたかと思えば。すぐさま侍女に道具を持ってこさせると、劉景が思わず押される程の剣幕で彼の手当を始めた。
その姿は、無茶をして怪我をした息子を叱る母以外の何ものでもない。
だからこそ、翠媛は必死にたどたどしく手を動かし続ける皇太后を見て、心を定めた。
目を伏せながら調子を整えるように一つ息を吐いて、目を開くと二人を静かに見つめる。
「皇太后様」
「莉修儀……。来ていたのですか」
「翠媛」
注意がすっかりお互いに向いていた劉景と皇太后は、呼びかけを聞いて初めて翠媛がその場に現れていたことに気付いたらしい。
僅かに驚いた様子で、目を見張りながら翠媛へと視線を向ける。
翠媛は静かで淑やかな仕草で礼を取りながら、皇太后へと言葉を紡いだ。
「皇太后様に、お伺いしたいことがございます」
「何ですか……?」
翠媛が見せた勇ましい立ち回りと、今の楚々とした仕草の差異にやや戸惑っている様子を感じた。
だが、すぐに気を取り直し、皇太后は首を傾げつつ続きを促した。
それを聞いた翠媛は、顔を上げ。劉景を一度見た後、真っ直ぐに皇太后へ翡翠の眼差しを向けながら口を開いた。
「何故、劉景の母君を殺した、という誤解を訂正なさらないのですか?」
皇太后と、隣にいる劉景が目を見開いて息を飲んだ。
何を、と言いたげな劉景はあまりのことに言葉として問えない様子である。
翠媛は劉景の狼狽を感じながらも、目を逸らすことなく、まっすぐに皇太后を見つめ続けた。
不思議な程強い確信があった。
この方が、自らの栄達や権勢の為に誰かを害することはないという確信と。
この方は、確かに劉景を息子として愛し、慈しんでいるという確信が。
だからこそ、今ここに。彼女が劉景を奪う為に実母を害したという誤解を……二人の間の確執の原因となっていた原因を正したいと思ったのだ。
皇太后は唇を噛みしめて、悲痛な面もちで俯いていた。
暫しの逡巡があった。答えを求めるように翠媛も、そして劉景も黙したまま。
痛い程の沈黙がその場に満ちかけたが、やがて皇太后は顔をあげ、静かに語り始めた。
「……救えなかったからです。彼女を……わたくしの、唯一の友を……」
劉景が愕然とした様子で更に言葉を失ったのが見えた。翠媛も思わず目を見張る。
皇太后が今『唯一の友』と呼んだのは、紛れもない劉景の母のことだ。
失ったことを心から悔い、哀しみが満ちる表情のまま、皇太后は過去に思いを馳せるように語り始めた。
皇太后は、先帝の後宮に高位の妃嬪として入り。程なくして皇后となった。
それは国内の政治的な思惑や、実家の権勢からしてそう不自然なことではなく。始めからほぼ定まっていたという。
彼女は、生まれた時から皇后となる為に育てられていた。だから、いずれそうなるものだと疑うこともなかった。
先帝の人となりには尊敬を抱くことが出来たし、それなりに情はあった。
けれどそれはどこか、重いものを背負わされたもの同士の親近感にも似たものだったという。
子は出来たものの、流産や死産を繰り返し。自身に子は望めないと諦めるようになって居た頃。先帝はとある妃嬪を見初めた。
不思議と嫉妬はしなかったし、危機感を抱くこともなかった。
ただ、その相手がどんな女性なのか気になって、会ってみることにした。
彼女は……
少し計るように言葉を交わすうち。皇太后は何時しか、彼女の笑顔につられて笑顔になっている自分に気付いた。
彼女はやがて皇帝の子を身籠り。月満ちて男児を産む。
男児の顔を見るという名目をつけ、密かに百花の宮に足を運び。香蓮と言葉を交わすことを楽しみにしていたのだという。
「香蓮は、わたくしにとって唯一人……友と呼べる人間でした」
皇帝の寵愛を競う者同士。反目しあってもおかしくない間柄だった。
寵愛を盾にされれば、立場とて危うくなる可能性があったのに。
自身に子はなく、彼女には唯一の男児がある。いつ地位を奪われてもおかしくない、と人々は囁いていたというのに。
それなのに、皇太后は、そんな彼女の存在に救いを見出してすら居たのだという。
皇太后と実家の権力に阿ろうとする者達は、香蓮に対して苛烈な嫌がらせを繰り返していた。
けれど、香蓮はけして俯かず前を向き続けている。
異国から来た女性は、儚げで頼りなげな風情でありながら、しなやかな芯の強さを持っていた。
皇帝の寵愛故に辛い思いをしているだろうに、それを表にだすことはしない。
花々を育てることが上手な女性は、いつも日だまりの花のような笑顔を絶やさなかった。
いつ訪れても、花の中で嬉しそうに笑って出迎えてくれた。
彼女の前では、一族の期待を背負わされた淑女たることも、皇帝の正妻たることも忘れて、一人の人間でいられた。
いつしか、皇太后は彼女を唯一人、友と思うようになっていた。
彼女もまた皇太后に情を感じてくれていたのだろう。
故国から持ってきて育てていた月光花を分けてくれたのだ。貴方なら、これを育てて下さると信じております、と……。
香蓮の元で劉景は元気に育ち、その成長も皇太后の密かな楽しみとなっていたある日。
友から株分けされた白い花を、いつものように自ら大切に世話をしていた時に、その凶報は齎された。
「妃嬪の一人が彼女に毒を盛る相談をしていた、と侍女が聞いてしまったと報告してきたのです」
蒼褪め告げる侍女の言葉を聞いた皇太后は、嘘であって欲しいと願いながらかと彼女の元に駆けた。
それは真実であり。同時に手遅れだった。
息を切らせて駆け込んだ百花の宮の庭園にて、月光花の前で香蓮は口元を紅に染めて倒れていた。
もう手遅れだと脳裏に過ぎるのを必死で打ち消しながら、医者を呼ばせ、方々に報せを送るように命じた。
しかし、懸命な努力を嘲笑うように、香蓮の命は手のひらから零れ落ちていく。
淑女としての気品も余柚もかなぐり捨て、涙を流しながら必死に留めようと叫ぶ皇太后へ、友は最期に微かな微笑を浮かべた。
そして、ただ一つだけ願いを託した。
『皇后様……。どうか、あの子を……劉景を、お願いいたします……』
優しい女性だった。しなやかに強い母だった。最期の時ですら、哀しい顔を見せたくないと笑っていた。
彼女は、残していかなければならない我が子を託す相手として、皇太后を選んだ。
皇太后はもはや言葉を紡ぐことすらできず、何度も、何度もただ頷き続け。
それを見た友は、安堵したような笑みを見せながら。灯火が燃え尽きるように、命を終えた……。
「託されたそなたを無事に育てあげること。そなたの母との約束だったのです……」
愛した友が残した子を我が子と思って育てた。大切に慈しみ、持てる全てを以て育てた。
劉景はその思いに応えるように立派に成長してくれて、これなら香蓮に顔向けができると密かに胸をなでおろしていたという。
だが、立太子の儀を控えたある日。見たこともない暗い表情をした彼は問いかけてきた――母を看取ったのは貴方か、と。
誰がそれを劉景に告げたのかは分からない。だが、皇太后は息子の表情の中に感じてしまったのだ。自分にどのような疑念が生じてしまったのか。
違う、と言いたかった。
けれど……皇太后は何も言わずに目を逸らすしかできなかった。
「何故、あの時……。違うと、言ってくれなかったのですか……」
「わたくしは、香蓮を救えなかった。わたくしが殺したのも同然です……」
香蓮に対して妃嬪達が嫌がらせを繰り返していたのは知っていたのに。
無論、彼女も行き過ぎた者達を制することはしていた。だが、それをすり抜けるように悪意は香蓮を襲った。
結果として、彼女を守り切れず失ってしまった。
問いを向けられた日以降、息子は彼女を激しく暗い眼差しで見るようになっていく。
劉景が自分を母の仇と思うようになったことを哀しく思いもしたが、それでこの子が強く生きていけるのなら、と皇太后は向けられる負の感情を甘んじて受けた。
皇太子となった彼は、やがて時を経て皇帝として即位する。
冷酷非情な、人の心を介さぬ、血の通わぬ『鬼神』と呼ばれるようになった劉景を見て、皇太后は心を痛めた。
「そなたが寛寧宮に通っているのは、知っていました。どれだけ冷酷を装っても、そなたは変わらないままなのだと」
皇太后は、劉景が密かに寂れた宮に花を育てに通うようになったことに気づいていた。
それを知って、彼がかつて自分の元で笑っていた頃の優しい皇子のままであることに気付いてしまった。
だからこそ、畏怖を集める仮面を作り上げてまで強き皇帝であろうとする様子が哀しくてならなかった。
だって彼は、地位も権力もむしろ重荷にしかならない繊細な少年の頃と、変わっていないのだから……。
「政治の重荷を肩代わりできぬかとも思いました。跡継ぎを持たないことが瑕疵となり得る故に、急ぎ子をもうけるように仕向けました」
劉景は僅かに呆然とした様子で、けれど傷ついた寄る辺ない子供のような表情で皇太后を見つめたまま言葉を失ってしまっている。
翠媛もまた、胸に切なく悲しいものがこみあげてくるのに耐えていた。
政治に介入しようとしていたのも、子を持たせようと躍起になっていたのも、全て劉景を思う心からの行動だった。
この女性は、ただ息子を愛していた。劉景を大切に想い、彼が幸せであってほしいと願っていただけだった。
「ついには。いっそ、皇位を退いたほうが心安らかに暮らせるのではと思い、他の者をと思ってしまいました……」
皇位にある限り、劉景は『鬼神』であり続けなければならない。傷つきながら、偽りを続けなければならない。
それぐらいなら、自分が憎まれてでも退位させ。安楽な余生を送らせたほうがいいのではないか、と思ってしまった。
だからこそ、皇太后は傍系皇族の中から適したものを探し出した。
そして、あの騒ぎに繋がってしまった……。
「皇帝の地位による重圧に苦しみ続けたそなたに、騒乱を起こし更なる苦しみを与えてしまいました。わたくしは、もう命を長らえる資格はありません」
「皇太后様……!」
皇太后の言葉に、劉景は息を飲み。翠媛は、悲鳴にも似た叫びをあげる。
それは……先の騒ぎを起こしてしまった責任をとると。皇帝を苦しめた咎を受けて、死を望むということだからだ。
翠媛は悲痛な眼差しで皇太后を、次いで劉景を見る。
確かに、今回の騒ぎの一因は皇太后にもある。彼女の責任は問わねばならないし、何事もなかったとは出来ない。それは翠媛にも分かる。
でも、それ故に劉景が皇太后に死を与えることになったなら。
心から慕っていたからこそ、劉景は皇太后を憎まなければいけなくなったことに傷ついていたのだ。
実母を殺したという疑念が濡れ衣であり。皇太后は、ずっと彼のことを愛し、守ろうとしてくれていたのだと知ってしまった今なら。
皇太后に死を命じてしまったなら、劉景はもう立ち直れないほどに壊れてしまう。
「確かに、貴方には此度の騒動に関して咎がある」
「劉景!」
長い沈黙の後、目を伏せたまま語り始めた劉景の言葉を聞いて。翠媛は、縋りつき首を左右に振りながら叫ぶ。
わかっている。咎は咎であり、責はある。でも、それだけはと思ってしまって。
皇太后は俯いたまま、言われる全てを受け入れるというように俯いている。
こみ上げるものを必死で堪えながら劉景を見上げた翠媛は、自分に向けられた彼の眼差しに気付いて目を瞬く。
そこにあったのは、長い苦しみを超えた先に漸く真実に辿り着けた、といった静かな温かさがあった。
目を見張る翠媛へと僅かに笑みを見せた後、劉景は皇太后へと向き直り続ける。
「けれど、貴方も利用された身であり、被害者でもある。故に、咎はそれに応じたものをと想います」
鄒王に接触し、皇位に対する相談をしていたことは事実である。だが、皇帝襲撃に関しては、皇太后は関与していない。
むしろ命を危うくされた点では、被害者とも言える。
それを静かに指摘しながら、劉景は一度目を伏せる。
そしてもう一度瞳を開いた時、彼の黒曜石の一対には優しい光が宿っていた。
「私は苦しんでなどおりません」
確かな声音で呟かれた思わぬ言葉に、弾かれたように皇太后が顔をあげる。
今度は皇太后が目を見張る番だった。
皇太后が、戸惑いの滲む揺れる眼差しを向ける先で。彼女の息子は、微笑んでいた。
「皇位は確かに重い。ですが、私は貴方に育てて頂いたのです。重圧程度で揺らぐほど、柔ではありません」
劉景は、縋る翠媛の手をとりながら。真っ直ぐに皇太后を見つめている。
これまで抱いてきた哀しみを、憎しみを、葛藤を。乗り越えた先に見出した、彼が本当に抱いていた心を以て。
辿り着いた、彼の偽らざる素直な心を込めて。劉景は皇太后へと万感の想いを込めて、その言葉を口にした。
「信じてください……母上」
劉景の……ただひたすらに愛し、案じ続けていた息子の言葉を聞いて、皇太后の瞳には堰を切ったように透明な雫が溢れる。
真珠のような涙は静かに皇太后の頬を伝い、一つ、また一つと落ちていく。
劉景は、瞳に涙を滲ませながら母の小さな体をそっと抱き締めた。
隔たっていた時を埋めるように。それでも変わらなかった真実の思いを確かめるように。
見守っていた翠媛の瞳からも、もはや堪えきれずに涙が零れ落ちていた。
長いすれ違いの果てに再び寄り添うことが出来た親子を、翠媛は言葉なく、ただ静かに見つめ続けていた……。
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